ある真夏の夜に聴いた歌声

アシッド・レイン(酸性雨)

その壱

もう夕方になるというのに、空気は沸騰した夜間から吐き出される湯気のように熱く、その上湿度が高い為に空気はどんよりとした感じでにジメジメしている。

まぁ、夏だから仕方ないとは言うものの、ここ十年くらいで異常気象といってもいいほどに気温が上がり続けている。

本当にうんざりさせられる。

そんな中、街中を一人の女性が帰宅の途についていた。

年の頃は二十代後半といったところか。

とてつもなく美人ではないし、かわいいわけではない。

だが、そこそこ美人で、奇麗ですねと言われるであろう程度には顔立ちが整っている。

もっとも、今の彼女はそれを無にするどころかマイナスにしてしまうほど負のオーラに包まれており、その表情は疲れ切っていた。

そのせいか、年齢以上に老けさせているかのようだ。

「はぁ……、疲れたなぁ……」

思わずため息と愚痴が漏れる。

街中という事もあり、人通りはあるものの、誰も周りはそんな独り言を気にしている者はいない。

なんせ、そこに行き交う者達の大半は二通りに分かれており、片方は彼女と同じように疲れ切った表情で帰宅している者達であり、もう片方は飲みに行くのか或いは遊びに行くのか浮かれた表情の者達であったからだ。

だから、女性を気にする者は誰もいない。

「はぁ……」

再び女性の口から、ため息が漏れる。

ふと足を止めて空を見ると空は赤く染まって薄暗くなっている。

そして、耳に入って来たのは、ギターを弾き、歌う男の歌だった。

どうやら、路上ライブをやっているのだろう。

シャッターの降りた店の前の所で演奏している。

昔は、もっと多くのストリートミュージシャンと呼ばれる者達がこの街にもいた。

そして、その中には、夢を掴み、メジャーデビューした者もいた。

だが、今や規制だなんだと取り締まりは厳しくなり、また著作権団体が路上ライブしている者達にも歌うなら著作権料を払えと言ってくる始末だ。

実際、今歌っている曲も、聞いたことのない曲だった。

恐らくオリジナルの曲だろう。

確かに悪くはないけど、今ある曲のコピーって感じで目新しさはないし、歌っている人の歌唱力もそこそこうまい程度だし、演奏だって同じ程度である。

これだけ音楽が氾濫して手軽に好みの音楽が楽しめれる今、注目を集めるほどではない。

要は、人を引き付ける物がないという事だ。

その結果、ほとんどの者は彼の前で足を止めることはせず素通りしていく。

それでも彼は歌い、演奏している。

必死になって。まるで歌わなければ、演奏しなければ死んでしまうかのように。

年の頃は十代後半か、二十代前半といったところだろうか。

まだ夢を諦められない年といったところだろうか。

そして、女性は思い出す。

ここ最近、思い出さないように記憶の奥底に眠らせていた記憶、ほんの数年前の出来事を。



鮮やかな、それでいて気持ちいいほどなめらかなギターの音色が路上に流れ、それに合わせて味のある男性の声が歌を唄いあげていく。

それは、実に独創的ではあったが、とても心振るわせるものであった。

だからだろうか。そのストリートミュージシャンの前では、人々は一旦足を止めて視線を音源の方に向けている。

そして、そのまま歩き出す者が多かったが、それでも足を止めて聞きいる者もいた。

要は、音楽の好みで足を止めるか止めないかといったところだろうが、それでも一瞬とはいえ、人の注意を引いて認識させるその歌唱力と演奏はすごいと言わざるえない。

実際、足を止めたもののほとんどは、熱心に曲を聞いている。

そんな中に、まだ希望と夢に溢れていた頃の大学生だった女性もいた。

彼女は魅了されたかのように聞き入っている。

いや、魅了されたのだ。

その歌と演奏に。

それが、女性と彼との出会いであった。

女性は、演奏が終わると前に開かれているギターケースにチップとして1000円札を投げ入れる。

他の人達が100円とか50円とか小銭の中で、それはとても目立っていた。

だからだろうか。

彼は女性に声をかけた。

「ありがとう。気に入ってくれたんだ」

嬉しそうにそう言われ、女性も嬉しそうに言う。

「はいっ。すごくいい曲でした」

「えっと、曲が良かったの?」

そう言われて慌てて女性は言う。

「違います。歌も演奏もすべてすごくよかったです」

その言葉に、彼は嬉しそうに笑った。

あ、笑うとすごくかわいいかも。

女性は、ドキリと心臓が高鳴るのを感じた。

だが、それを誤魔化す為に慌てて聞く。

「いつ頃ここでやってるんですか?」

「あ、週末にここでやってるよ。そうだ。よかったらまた聞いてよ」

屈託のない笑顔でそう言われ、女性は次の時も聞きに来ると約束するのだった。

こうして、彼が路上ライブするとき、女性は自分よりもライブを優先していくようになっていった。

ある意味、彼に惚れたというより、彼の唄う歌と演奏する曲に魅了されたと言った方がいいだろう。

だが、その時の女性は、彼に惚れてしまったと思い込んでいた。

そして、それはまだ恋を知らなかった女性には毒であった。

女性は彼と付き合い始め、そして、アパートに一人暮らしという事もあっていつしか同棲するようになっていた。

だが、彼は音楽以外に情熱を傾けることはなく、結局、彼を経済的にも生活的にも支えるのは女性の役割となっていった。

いくら女性の一人暮らしを認めてくれたとはいえ仕送りがとてつもなく送られてくるわけではなく、バイトして学生生活を送っていた女性に、その負担はとてつもなく重かった。

その結果、彼女は大学にもいかず働き続ける事となる。

だが、彼を支え彼の音楽を支えているという満足感は、とてつもなく甘美で、疲れて疲労困憊であったとしても充実していたと言える。

だから、女性にとって、その生活は苦ではなかった。

しかし、周りから見たらどうだろう。

周りから見れば、彼は女性を食い物にするヒモであり、屑としか見えなかった。

また、女性の両親にしてみれば、大事な娘をたぶらかす悪党でしかなかった。

だから、二人の同棲は半年程度で終了した。

女性の両親や女性の友人が二人を別れさせたのである。

そして、女性は大学を中退して実家に戻される。

これが決定打となり、二人の縁はそれで切れた。

いや切られたのであった。



すっかり忘れてしまっていたと思っていた。

いや、そう思い込もうと思っていのかもしれない。

なぜなら、女性は来年には結婚するのだから。

相手は、親戚の紹介でお見合いした男性で、すでに数回デートもしている。

男性は、とてもやさしく、顔はそれほどかっこいい感じはなかったが落ち着いた人で、間違いなく一緒になったら幸せになれるだろうなと想像できる人であった。

だからこそ、女性は彼の事を記憶の奥底に沈めていたのだ。

だが、結婚が近づき、これでいいのかという思いが浮かんでは消えていく。

それで満足できるの?

あの時のような充実感を味わえるの?

もう一人の私がそう心の中で叫んでいた。

でも、仕方ないじゃない。

もう彼がどこにいるのかわからないんだもの。

自分に言い聞かせて歩き出す。

そして、ある程度歩いた時だった。

「あの、すみません」

まるで自分に言い聞かせるのを止める様に、女性は後ろから声をかけられたのであった。

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