珈琲10杯目 (11)「ルシュー千八展開いらず」
「お前の計画は完璧だ。例によってな……競馬嫌いのクメルタイン嬢に馬券の購入とレース観戦をさせるという不可能事も、お前のこの策なら可能になるだろう」
昨夜、わたくしの「夜明けのカラス」対策法の最終案をリュライア様にご説明いたしましたところ、まずはお褒めの言葉を賜りました。しかし、と続けられたご主人様の眉がわずかに憂いを帯びられます。
「問題は、クラウの大馬鹿間抜け野郎が余計なことを口にしないかどうかだ。そして一番その危険性が高いのが――」
その「危険性」が、早くも顕在化いたしました。「医学研修会」に自分も参加していいのかとしきりに気にされておられたクメルタイン殿は、クラウ様の陽気な口調に丸め込まれ、しばしの間は「研修会」で発表される症例について考えておられたようでございますが、沈黙は長く続きませんでした。
エランナ様から送られてきた(ということになっている)研修資料から顔をあげられたクメルタイン殿は、おずおずと口を開かれます。
「あの、みなさんは、この症例、どの診断に投票されるのですか?」
この問いこそ、わたくしがこの移動の段階において最も危惧したものであり、昨夜のリュライア様も、この質問が発されるであろう移動段階が、最も「危険性」の高まる時間であろうと見抜いておられたのでございます。
何しろ、馬車での移動はおよそ一時間。その間にクメルタイン殿が「研修会」に関連することを何も話題にされないと考えるのは、あまりに楽観的でございます。そして「医学研修会」なるものが競馬に誘うための偽装である以上、学院での医学原論の成績が
無論わたくしといたしましても、予見しうる危険に対して何の手も打たないということはございません。不確実性にも、
「うーん。どれにするか、迷っているのよね」
クメルタイン殿の問いに応えたのは、ルノートル殿でございます。そして屈託のない笑顔を、隣に座る「標的」に向けられました。
「クメルタインさん、実は私、スノート先生からのお手紙を部屋に置いてきちゃったみたい。悪いけど、先生のお手紙の『症例』、読ませてもらえる?」
これがわたくしの「対策」でございます。もし道中、クメルタイン殿が医学関係の話題を振ってこられた際は、他の話題にそらせるならクラウ様が、それが不可ならルノートル殿が対応されるよう、事前にわたくしがお二人にお願いしておりました。
そしてこの質問は、明らかにルノートル殿が対処すべき問いでした――クラウ様が答えられていたら、ほぼ間違いなく競馬のことを口走られたに相違ございますまい。
クラウ様が、クメルタイン殿に渡された「エランナ叔母様からのお手紙に添えられていた参考症例」及び「投票対象」は、以下のとおりでございます。
<参考症例>
患者:七十代女性
主訴:風邪
症状:数日前から咳と息切れを覚え、食思不振も認める。本人は風邪と考え、静養
に努めたが夜間就寝時に呼吸苦が増悪したため、夫に付き添われ当院を受診。
体温やや高めも正常範囲内、心音異常なし、腹部圧痛なし。左右の背側に湿性
雑音あり、両下腿にむくみを認める。診察中、咳と共に泡沫状の痰を吐く。
<投票対象:本症例で処方すべき薬は?>
(白)一:ローゼルマリル 二:レティスアルトゥル
(黒)三:リーヴルワルド 四:イフェドラス
(赤)五:カッシア 六:白柳
(青)七:ブリュムルローサ 八:ディギターリス
(黄)九:月の
(緑)十一:グリシルシン 十二:ペオニアラクト
(橙)十三:ベルドナ 十四:タウリス
(桃)十五:エルデンフラウ 十六:リラーク
※これらの薬草・薬の名称は、当日の診断投票の際、学名で表記される。
「私も迷ったのよね。症状は風邪でもおかしくないけど……」
事前の打ち合わせどおり、ルノートル殿は「時間稼ぎ」に入られました。馬車という閉鎖空間で一時間過ごさねばならぬのであれば、少しでもクメルタイン殿の注意を「研修会」に向け続け、それ以外の話題に広がるのを防がねばなりません。
さもなければ、クラウ様がついうっかり「ねえクメルタインさん、『ルシュー千八展開いらず』って格言があるんだけど、知ってる?」などと、競馬に関する知識を披歴し始めかねません。
それはともかく、この「診断投票」こそが、クメルタイン殿に――競馬がお嫌いで、馬券を買うことなど夢想もしたこともないであろう勉学一筋の真面目学生に――馬券を買っていただくための作戦の中核を為すものでございます。
クメルタイン殿は、「参考症例」を基に診断を下し、その病気の治療に適した薬を「投票対象」から選ばれて、「研修会の会場」(すなわち帝都競馬場)の「投票所」(すなわち馬券売り場)にて対象の番号(すなわち馬番)を告げられるはずでございます。
かくして、「夜明けのカラス」の「勝利」の条件である「標的が自分の意思で馬券を購入する」を達成することになります。わたくしがクラウ様を通じて確認いたしましたとおり、「標的」は自分が購入したものが馬券と認識していなくとも、自分の意思で購入さえしていれば問題はございませんから。
ちなみに、わたくしの本命は、八番――「投票所」では「ハウンセスイーデ」号と表示されているはず――でございます。
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