珈琲6杯目 (8)スノート家の家訓

「……っ!!」

 机に置かれたリュライア様の手がぶるぶると震えました。そのお顔は、見るもおそろしい形相でございます。わたくしは怒れるご主人様をお鎮めするように、やんわりと言葉を発しました。

「つまり、こういうことでございます。まず、レシーリエ嬢がお金に困り、困窮学生の常套手段である教科書の質入れをされました。しかしそのお金も競馬で失ってしまい、教科書は質流れしてしまわれた。そのことを知ったクラウ様が、天才的な閃きをもって、ご自分は何も失うことなく、春競馬の軍資金を手に入れる方法を思いつかれたのでございます」

「それは、売れなくて困っている在庫品があれば自分が売ってみせるから、もし成功したら教科書をレシーリエ嬢に返して自分に利益の一部を還元することをグーレム氏に提案することだ。そしてその手段を我々に考えさせてなッ!」

 リュライア様が歯ぎしりせんばかりの勢いで悔しがりました。「あのガキ、この手で素っ首ねじ切ってやる」

「それはお手が汚れます」わたくしはあえてのんびりした口調でお諫めいたします。その態度に気付いたリュライア様は、やや怒りを鎮められました。

「お前はタダ働きさせられて悔しくないのか?」

「いえ、今回はクラウ様への教育という成果がございましたので」

 わたくしが口の端を上げて申し上げますと、リュライア様は椅子に座り直して、短く問われました。「具体的には、何を教えてやったのだ?」

「はい。問題のある方法で得たお金は、決してご自身のためにならないということでございます」

「ほう」リュライア様は落ち着きを取り戻されて、このやりとりを愉しみ始めていらっしゃいます。わたくしも、少々意地悪な気持ちで続けました。

「本日、わたくしとクラウ様が蚤の市の売り場で獲物……失礼、お客様を待っていたときのことでございます。わたくしは普段見ることのない競馬の予想紙を手にして、本日開催の重賞・三月賞の予想をしておりましたが、そこへクラウ様が、わたくしの予想をお尋ねになられたのでございます」

「お前の見立ては?」

「一番人気のセングリオン号に逆らう気にはなれないということを、過去の戦績から申し上げておきました。人気馬に賭けることを躊躇っておいでだったクラウ様も、他の二番人気・三番人気の馬は厳しいことをお伝えすると、どうやら一番人気に賭ける気になられたようでございます」

「待て、確かセングリオン号は……」

リュライア様がはっとして目を見開かれました。わたくしは手で制し、深々と頭を下げました。

「わたくしの不覚でございます。セングリオン号が勝っているのは、帝都のような最後の直線が長い左回りの競馬場のみでございます。小回りを要求され、ゴール前に急な坂がある右回りの嶺南競馬場では大敗しておりますが、ここリンカロット競馬場もまさにゴール前の急坂で有名な競馬場でございます」

 リュライア様のお口許が、意地悪く緩みました。「長い距離を走った後の急坂。一度速度が落ち、そこから再度加速して坂を駆け上がるだけの底力が必要だな」

「まことにそのとおりにございます。またセングリオン号は、右回りを走る際に右トモをひねって前に出すという癖があるやに聞いております。この走り方ですと脚の力が無駄に拡散してしまいますので、右回りでは力を出し切れません。が、わたくしはそのことを失念しておりまして、この重賞に最も不向きな馬が勝つなどと申し上げてしまいました……もっとも、予想を申し上げただけで、この馬の馬券を買うべしとは申しておりませんが」

「当然だ。我がスノート家の家訓は、『人に聞いて的中させた五ゼカーノよりも、自分で考えて当てた二セリウス』だ。あの馬鹿も少しは……」

 そこまでおっしゃられてから、リュライア様は唐突に哄笑されました。

「おそらくあの馬鹿、今回手にした二ゼカーノ八セリウスを、そっくりセングリオン号の単勝につぎ込むぞ」

「クラウ様のご気性を考えますと、おそらくそのとおりかと。あるいはご自身のお財布から二セリウスを足して、キリ良く三ゼカーノ買われたやも知れません」

 わたくしとリュライア様は顔を見合わせ、たまらず笑い合いました。が、リュライア様はすぐに笑い収めて真顔になられ、「だが競馬に絶対は無い……『皇帝』以外はな。セングリオン号が好走して一着という可能性も捨てきれんぞ」

「無論、その可能性もございます。ですがわたくしは、五番人気のガイストラデュモーグ号に本命の印を打ちましてございます」わたくしは自信と共に胸を張りました。

「この馬、直線の長い帝都競馬場の戦績には全く見るべきものはございませんが、これまで右回りの競争で掲示板を外したことは一度もございません。第三コーナーからまくって一気に抜き去る無尽蔵の体力の持ち主ゆえ、直線の短いリンカロット競馬場こそふさわしい主戦場と考えます」

「そこまで予想しているなら、お前も馬券を買えばよかったのに」

「実は昨日のうちに、帝都警務隊のゼルベーラ隊長にお願いいたしました。隊長が非番で三月賞に行かれるのでしたら、ガイストラデュモーグ号の馬券を一ゼカーノ買っておいていただきたいと」

「抜け目ない奴め」リュライア様は椅子から立ち上がり、バルコニーに面する窓の前で軽く背伸びをされました。「昨日のうちにそこまで予想しておいて、クラウには別の馬が勝つと予想するとはな。お前らしくもない失敗だ」

「まことに申し訳ございません」

わたくしが全く悪びれることなく頭を下げますと、リュライア様もくくっと笑ってバルコニーに通じる扉に手をかけられました。

「構わん。あの馬鹿にはいい教訓だ……お、噂をすればだ。来てみろ、ファル」

 リュライア様のお求めに応じて、わたくしも春の日差し溢れるバルコニーへお供いたしました。リュライア様の視線の先を追いますと、屋敷の門をくぐるクラウ様のお姿が見えました。

「見ろ、あの馬鹿のしょぼくれた顔! 間違いなく外れ馬の単勝を全力買いした奴の顔だ。いいか、奴が来たら思い切り笑って、そして思い切り叱り倒してやる。慈悲など無用だ、人を利用して金を稼ごうなどという性根、叩き直してくれる!」

                               珈琲6杯目 了

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