珈琲6杯目 (6)交渉

 しかしながら、その後はお昼まで成果はございませんでした。人の流れが競馬場に向いているという不利は、なかなか挽回できそうもありません。本日が好天に恵まれたことと、「メナハン・カフタット」でひと休みされる方がそれなりにいらっしゃることが救いですが、それでも我々の売り場の前で足を止められる方はほとんどいらっしゃいません。たまに、リュライア様の書かれた売り文句を目に留めて足を止められる方もいらっしゃいましたが、売り物が魔導年鑑であること、しかもその売値が七ゼカーノ五セリウスという法外な値段であることを知るや、無言で立ち去る方ばかり。

 しかし、わたくしには確信がございました。こうした蚤の市には、いわゆる掘り出し物を漁る方が必ずいらっしゃいます。骨董品好きの個人の好事家が大半ですが、たまに出物を探す古道具商も混じっています。そして彼らは例外なく、卓越した鑑定眼をお持ちでいらっしゃいます。わたくしはじっと、その種の目利きが現れるのを待ちました――ついでに申し上げますと、単に目利きと言うだけではなく……。

「クラウ様」

 わたくしは、うつらうつらされていたクラウ様に低く鋭く声をおかけいたしました。クラウ様はあわてて目を覚まされましたが、すぐにわたくしに調子を合わせ、ぼんやりと正面をご覧になられたままで答えられました。「来たの?」

「はい。先ほど通り過ぎた黒髪の中年男性、今クラウ様の右手の方からこちらを見ている黒い帽子を被った背の高い外套姿の紳士ですが、ここを通る際に、ぎょっとして一瞬足を止められました。おそらく、また引き返してくるでしょう」

「見えた。僕たちの『お客さん』になってくれるかな?」

「次にこの前を通る時の反応で分かります。もし足を止めて、名匠デライトルーガの小卓の値段を聞いてくるようであれば、我々の求める客ではございません。ですが、もし……」

「しっ。奴が戻って来た」例の紳士を奴呼ばわりされたクラウ様が、わざと退屈そうな表情をされて、椅子の上で眠そうなふりをされました。さすがはクラウ様でございます。わたくしもそれに合わせ、競馬予想紙を読むことに熱中しているふりをいたしました。

 くだんの紳士は、立ち止まりませんでした。しかし歩く速さは明らかに前回よりも遅く、通る際に横目ではっきりと、小卓の脚から天板まで眺め回していたのを視認しております。

「クラウ様、どうやら『お客様』のようでございます」

 わたくしはゆっくりと椅子から立ち上がると、大きく背伸びをいたしました――例の紳士が振り返ってこちらを見るであろう瞬間を見計らって。

「では、打合せどおりに」

「分かってるよ。何とかやってみる」

 クラウ様が一瞬真剣な表情に戻って、わたくしにうなずき返しました。わたくしは休憩で珈琲を飲みに行くという感じで売り場を離れ、のんびりした足取りで「メナハン・カフタット」の客席に向かいます。そして、飽きもせず予想紙を凝視し続けていたグーレム氏の向かいに腰を下ろしました。

「お、あんたか」

「はい。どうやら、売れそうでございます」

 グーレム氏は驚きの表情もあらわにわたくしを、そしてクラウ様のいらっしゃる売り場の方をご覧になられましたが、わたくしが「どうぞそのまま」とお声がけいたしますと、浮かしかけた腰をおろして、不思議そうに目を細められました。

「何をしているのかね、あのは?」

「魔導年鑑を売る交渉ですよ」

 わたくしは平然と答え、注文を取りに来た給仕に珈琲を一杯頼みました。グーレム氏も、とうに空になっていたカップに気付いて、同じく珈琲を注文されましたが、その間も視線はクラウ様の売り場の方を向いています。

「信じられん。あの男、魔導年鑑を買う気だぞ!」

「何も不思議ではありませんよ。問題は、いくらで売れるかですが……おや、もう取引がまとまりましたようですね。さすがはクラウ様」

 あり得ない光景を――例えば、砂漠の民に砂を売りつけることに成功したところを――目撃したグーレム氏の顔から、丸眼鏡がずり落ちそうになりました。氏はあわてて眼鏡をかけ直し、自分が今見ているものが現実のものかどうか、しきりにまばたきして確かめようとされています。

「我々が探していたのは、『鑑識眼があって、欲が深く、しかも知恵の回る方』でございました」

 わたくしは、給仕が運んできた珈琲を一口喫しました。「過去の魔導年鑑を売ることなど、所詮は不可能でございます。しかし他の条件と組み合わせることで、不可能も可能になります」

「……『抱き売り』の事かね? 何か価値のあるものを買いたければ、魔導年鑑と一緒に買えという奴か?」

 グーレム氏は珈琲をごくりと飲み、丸眼鏡の奥から不信の目をわたくしに向けられましたが、無論わたくしはかぶりを振ります。

「いいえ、それはこの蚤の市では明確に禁止されております。しかしながら、相手が勝手に何かを期待して魔導年鑑を買うことについては、何の問題もございません」

 わたくしは顔を売り場の方に向けました。クラウ様は魔導年鑑を紐でまとめて紳士に渡し、今まさに代金を受け取られたところでございます。わたくしは顔を売り場に向けたまま、グーレム氏に解説いたしました。

「あの魔導年鑑を乗せていた小卓パルトタブレは、いにしえの名匠・デライトルーガの手によるものです」

「! おいおい、本当かね? 競売にかければ、三百ゼカーノは固いぞ!」

「おや、わたくしの知る相場よりも価値が騰がっているようで。いずれにせよ、必要なのはそれを鑑定する目でございます。さてグーレム様、もしあなたがこの蚤の市で掘り出し物を探し歩いているときに、ガラクタを載せたデライトルーガ作の小卓を見つけたら、どう思われますか?」

 わたくしの問いに、グーレム氏は即答されました。「名匠の作品にガラクタを載せるなぞあり得ん。この売り手は、小卓の価値を分かっていないと考えるだろう」

「まさしくそのとおりかと存じます」

 わたくしは珈琲を口に運びながら、魔導年鑑の束を抱えた紳士が、何かを思い出したというような感じでクラウ様に話しかける光景を眺めました。

「では、売り手が価値を理解していない掘り出し物を見つけたら、人はどのように振舞うでしょうか。正直に、売り手にその価値を伝えてあげるでしょうか?」

「まさか」グーレム氏は、にやりと緩めた口に珈琲を含み、飲んでから「売り手が価値を知らんならそれで結構。売り手のつけた値段で買うさ」

「それが、蚤の市の常識かと存じます。しかしもし、その掘り出し物に値段がついてさえいなかったら?」

 グーレム氏は即答されず、金縁の丸眼鏡をくいとかけ直して時間を稼がれました。その間に売り場に目を向けますと、クラウ様が例の紳士に向かい、芝居がかった調子で首を横に振るのが見えました。わたくしは珈琲の飲み干すと、席を立ちました。

「狡猾な買い手なら、こう考えるでしょう。まず、売り手が十分満足するような値段で魔導年鑑を買います。そして売り手に、さりげなく提案します――『その古い小卓、この本を置くのにぴったりだ。ついでにもらっても構わないかな? 何なら五セリウスくらいなら出してもいいが』と」

 わたくしは唖然とするグーレム氏にそう言い置いて、売り場への戻りました。今まさにそうしたやり取りがあったばかりのようでございます。

「申し訳ございません」

 わたくしはにこやかに、しかし傲然と胸を反らせて、小卓欲しさに魔導年鑑を購入した紳士に告げました。

「こちらの小卓は、名匠デライトルーガの手による逸品でございまして。お譲りするとなると、三百ゼカーノはいただきませんと」

「何だ、知っていたのか」

 おそらくは自分の店に並べる商品を探していた古道具屋の主人なのでしょうか、明らかに失望の呻きを漏らされました。クラウ様お一人なら、価値を知らない小卓を安く手に入れられると目論んでいたのでしょうが、そうは問屋が卸しません。

「そんな価値があるものを、何でこんなことに使っていた?」

「はい。実はこの小卓には不思議な力がございまして」わたくしは紳士に向かい、いかなる拒否も受け付けないような最高の笑みを浮かべました。「この上に不用品を置いておくと、それが何故か高値で売れるのでございます」

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