珈琲6杯目 (5)蚤の市

「これが売ってほしい『帝国魔導年鑑』、十年分だ。しかし本当にこんなものが売れるのかね?」

 <黄金の栞堂>の店主・グーレム氏が、「こんなもの」こと魔導年鑑を束ねていた紐をほどきながら疑問を呈されました。わたくしは満面の愛想笑いを浮かべつつ、どうぞお任せくださいと一礼して、上質な革表紙の書物を受け取りました。

 実は昨日、クラウ様に「作戦」を授けた後で、わたくしはこの金縁の丸眼鏡が印象的なグーレム氏とお会いしています。しかしその時わたくしは変装して男性に成りすましておりましたので、今ここにいるスノート家の執事と同一人物(使い魔ですが)とは気づいておられないようです。

「では、グーレム様はどうぞあちらのお席へ。申し訳ございませんが、珈琲代はご自身で……」

「その位は払うよ。競馬の予想紙があるから、いくらでも時間は潰せるさ」

 グーレム氏は上着のポケットから予想紙を何種か取り出し、ひらひらと振りながら、臨時出店している「メナハン・カフタット」の客席に――本日は好天に恵まれましたが、やはり重賞開催日となると、皆様蚤の市よりも競馬場に惹かれるようでございまして、空席が目立ちます――腰を落ち着けられました。それを見届けたわたくしは、さて、とクラウ様にお声をお掛けします。

「では、魔導年鑑をこの小卓パルトタブレに置きましょうか……適当に積んでおけば大丈夫でございます。この年鑑の下に、わたくしの作った値札を挟みまして……これでよろしいかと。小卓の古いおもむきと魔導年鑑が、よく合っておりますね」

「うん、これならいけそうだ」

 クラウ様も、いささか緊張気味でいらっしゃいます。今日のクラウ様はプラトリッツ魔導女学院の制服ではなく私服姿でございますが、これも作戦の一つでございます。クラウ様は今朝早くに制服姿で学院を出られた後、スノート邸に来られて持参された御召し物――できるだけ目立たず、あまりお金持ちには見えないような服――に着替えて、わたくしと共に蚤の市会場まで来られた次第です。

「では、打合せどおりに。『お客様』が来たかどうかはわたくしがお知らせいたしますので、クラウ様はそれまでお寛ぎください」

「わかった。……ってファル、それは競馬の予想紙?」

 丸椅子に腰を下ろしたわたくしが懐中から取り出したのは、まさしく本日の重賞の予想紙でございます。わたくしは普段はこの種のものは読みませんが、今回はクラウ様への教育のため、昨日買い求めております。

「はい。本日の三月賞、馬券を買うかどうかは別として、なかなか予想しがいのあるレースになるかと思いまして」

 果せるかな、クラウ様は興味をそそられたようでございます。わたくしは無言のまま予想紙に目を通すふりをしておりましたが、隣に座るクラウ様がうずうずされておられるのが気配で分かります。

 案の定、クラウ様の我慢は五分と持ちませんでした。我々の「売り場」を何人かが素通りした後、クラウ様は丸椅子をわたくしの方に寄せ、予想紙を覗き込んでこられました。

「ねえ、ファルの予想は?」

「やはり一番人気のセングリオン号を軽視することはできませんね」わたくしは紙面から目を離さずに、低く答えました。「これまでの戦績は六戦四勝。特に前走の帝都二千は、持ったままの三馬身差で快勝しています」

「うーん、でも一番人気かぁ」クラウ様はお迷いのご様子です。わたくしはもう一押しすることといたしました。

「公式の掛け率オッズも、一番人気ながら二倍台後半です。お金に余裕があれば、躊躇ためらいなく単勝を全力買いしているところでございますね……それに他の馬の戦績も、今一つといったところでございます。二番人気は前走が千六百ですので距離延長が気になりますし、三番人気の前走は七頭立ての条件戦ですから、重賞の参考にはなりますまい」

 わたくしのつぶやきを聞かれながら、クラウ様の目が少しずつ輝き出しておられます。わたくしは最後の仕上げに取り掛かりました。

「クラウ様。もし魔導年鑑がいい値段で売れましたら、その足で競馬場に行かれるのですか?」

「! う、うん、まあ……行っても、いい、かな……?」

「本日は制服ではございませんし、堂々とされていれば競馬場に入るのも馬券を買うのも問題ございますまい」

 制服から私服に着替えていただいたのは、魔導年鑑を売るための作戦でもありますが、同時にこの効果を狙ってのことでもあります。クラウ様は、意を決したようにうなずかれました。

「わかった、行く。でも、まずはこれを売らないとね」

 クラウ様は小卓の上に積まれた魔導年鑑をぽんと叩きながら、決然と姿勢を正されました。

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