珈琲6杯目 猫と執事と蚤の市
珈琲6杯目 (1)帝国魔導年鑑、十年分
「ねえリュラ叔母様。『帝国魔導年鑑』、買わない?」
「いらん」
いつもながら、大変心温まるやりとりでございます。本日も例によって魔導女学院の授業を終えたクラウ様が、七歳年上の叔母であるリュライア様のもとに遊びに来られました。春競馬も近いこの時期、わたくしはてっきりクラウ様が
「だいたい、何故いきなり『帝国魔導年鑑』なのだ? あんなもの、魔術審議会が魔導士に買わせて小銭を稼いでいるだけの退屈な代物だろう……いや、待て」リュライア様は、突然鋭い視線をクラウ様に投げました。「『買わないか』ということは、お前が年鑑を持っているということか?」
「! い、いや、まあ……そんなところ、かな」
「念のため聞くが、年鑑は何年のものだ? 今年度分はもう持っているぞ」
「実は、去年までの十年分あるんだけど……」
リュライア様が膝元に目を落とし、仰向けに寝るわたくしと目を合わせました。お互い、考えていることが一致したことはすぐに通じ合います。リュライア様は深々とため息をつかれると、わたくしに視線を向けたまま、クラウ様へ斬るような問いを投げかけられました。
「……質入れしたのは、何の科目の教科書だ?」
「げっ!!」
いきなり事の真相を見抜かれ、クラウ様がおそらく悲鳴と呼ぶべきであろう声を漏らされました。リュライア様はゆっくりと顔を上げ、姪御様のうろたえる様を冷然とご覧になられます。
「お前が魔導年鑑など持つはずがない。あんな一冊で一ゼカーノ五セリウスもする燃えるゴミを買おうなどという考えは、お前が生まれてこのかた、その空っぽの脳をよぎったことすらないだろう」
「えーっと、何かひどいこと言われてる?」
「だがお前は、過去の十年分の魔導年鑑を売りたがっている。考えられるのは、遊ぶ金欲しさに学院の図書館かどこかから盗み出して売り飛ばそうとしている可能性だが、これはさすがにないだろうな」
リュライア様は、長い銀色の毛に覆われたわたくしの首筋をわしゃわしゃと揉みながら続けられました。「いくらお前が愚か者でも、魔導年鑑が金にならんことくらいは知っているだろう。金目当てなら、もっと高価な魔導書を盗んでいるはずだ」
「別に盗んだわけじゃ……」
「そう、お前は盗んでいない。だが買ってもいない。つまり自分のものでない魔導年鑑を他人に売ろうとしているわけだ。言い換えれば、お前は他人が持っている魔導年鑑十冊を、他の誰かに売る必要に迫られている。考えられるのは一つだけだ」
リュライア様は、わたくしをそっと床に降ろしてから、きつい視線をクラウ様に向けられました。
「お前はこともあろうに、教科書を学生街の書店に質入れしたのだ。だが借りた金が返せず、このままでは教科書が質流れしてその科目の単位取得が危機に瀕する。何とかならないかと書店の店主に頼み込んだら、交換条件を示された。それが……」
わたくしは
「店の棚を無駄に占領している分厚い紙の束、十年分の魔導年鑑を売りさばいてこいという無理難題だ。出来るわけが無いだろう、この愚か者がっ!!」
猫用の扉を抜けるわたくしの背後で、クラウ様を𠮟りつけるリュライア様の怒りの声が続きます。わたくしは自室に小走りで駆け戻りました。
わたくし共の住まうリンカロット市は、帝都郊外の辺縁都市であると同時に、男女二つの魔導士学校が並び立つ学生の街という側面もございます。そして学生街には書物を売る店が不可欠でして、リンカロット市も例外ではございません。二つの魔導学院から市中心部に至る第六区には多くの書店がひしめき合い、勉学に励む学生の良き相談相手となっています――が、遺憾ながら学生という生き物は、知的好奇心のみで成り立っているわけではございません。十代の沸き立つ情念を、年齢制限付きの遊興や美酒佳肴、ことによっては美女や美男に注ぎ込みたいという青い衝動と常に隣り合わせの不安定なお年頃でございます。そしてそのような欲望を充足させるためには、どうしても先立つものが必要となるのでございます。
一方、書店で扱う書物というものは、それなりに高価なものでございます。かつて書物というものが手書きの写本しかなかった時代にあっては、学生の教科書も全教科そろえるとひと財産消えるという程希少価値の高いものでございました。今でこそ活版印刷術と製紙技術の発達の恩恵により、あらゆる情報が――帝国辺縁で起きた痴情のもつれが原因の殺人未遂事件から小麦の取引価格、はては競馬の予想まで――手軽に発信して受け取れるようになっておりますが、それでも専門書は一般人が気軽に手に取れるような値段ではございません。
となると、皆様考えることは同じでございます。今から二百年ほど昔のこと、帝都の学生街にある某書店主が、学生の教科書を担保にお金を用立てる商売を始めたのでございます。学生は教科書を質入れして得たお金を手に勇躍帝都競馬場に乗り込み、才知の限りを尽くした予想が的中すれば豪遊の後で教科書を取り戻し、もし選んだ駿馬が予想を裏切った場合は、どうにかしてお金を工面して教科書を取り戻すか、質流れした教科書無しでその科目の単位を取得する一縷の希望に賭けるかの二択となります――後者を選んだ学生の大半は、翌年失意のうちに故郷へ帰る羽目になりますが。
この新しい書店の「副業」は、たちまちのうちに学生街の書店主が模倣することとなり、帝国内の他の学都にも伝播いたしました。質屋組合から苦情を受けた帝国も、書店で受け入れていいのは書物に限ること、質屋と同様に許可制とすることを条件にこの方式を受け入れ、書物の価格が下がった現在においても、貧乏学生と放蕩学生にとって不可欠の制度になっております。
わたくしもリュライア様も、クラウ様が書物に関する無理難題を持ち込まれた瞬間に、この書店の副業について思い至りました。なにぶん、今は春競馬の時期でございますので、クラウ様も何かと物入りなのでございましょう。
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