不眠症はもう終わり
「君は…本当に僕の妹なのか?」
震える声で問いかけると、彼女は静かに頷いた。その言葉が深く僕に響いた。妹がいたなんて…。記憶の中でずっと封じ込めていた、幼い頃の出来事が断片的に蘇ってくる。
「母は…自殺したと聞かされていた。でも、君は…」
僕の問いに彼女は目を伏せ、しばらくして静かに話し始めた。
「お母さんは自殺じゃなかったの。事故で亡くなったのよ。私たちがまだ小さかった頃、事故にあって、私たちはお母さんを失った。」
その言葉を聞いた瞬間、僕の胸に何かが鋭く刺さった。自殺ではなく事故だった?
「事故…?じゃあ、母は…」
「お母さんは脳に深刻な損傷を負った。だからデジタル世界にインポートすることができなかったの。脳が損傷していたら、インポートすることは不可能だから。」
その事実に、僕は息を呑んだ。デジタル世界で生き続けていると信じていた母はもういなかった、今まで信じていた全てが崩れ去っていくような感覚。
「でも、君は…どうしてデジタル世界に?」
僕は混乱したまま問いかけた。 彼女は一瞬ためらった後、静かに言葉を継いだ。
「私はね、事故の後、デジタル世界を管理してる企業に育てられたの。そして、デジタル保存の実験に使われたのよ。私たちは、生まれた時からデジタル保存のマイクロチップをお母さんの意向で埋め込まれていたの。その記録があったから、企業は私を引き取って、実験の被験者にした。私がここに存在しているのも、その実験のおかげなの。」
彼女の言葉に、僕は息を詰まらせた。妹は企業の手で実験に使われていた…。それでも彼女の表情には悲しみや怒りの色はなかった。
「君は…それに対して…」
彼女は遮るように続けた。
「不幸だなんて思わなかった。それが私にとって普通だったから。企業で育てられて、デジタル保存の技術に守られてきた。だから私は、こうして今も存在している。」
その答えが僕をさらに困惑させた。妹はその運命を受け入れていた。それが普通であり、何の疑問も抱かずに生きてきた。それが彼女の「人生」だった。
「じゃあ、僕も…?」
僕は自分の頭を触りながら問いかけた。
「そう、私と同じよ。生まれて間もなく、マイクロチップが埋め込まれている。あなたの脳には、デジタル保存の準備が整えられているの。遺伝子情報も、すべて記録されている。母が望んだのは、ここではないどこかで生き続けること。」
母が決めた運命。僕たちの未来は、知らないうちに決められていた。妹は事故でデジタル世界に送られ、僕もまた、その運命に従うべき存在としてマイクロチップを埋め込まれていた。
「それなら、僕は…このまま生き続けるべきなのか?」
声が震え、問いかける。
「それはあなたが決めることよ。でも、私はお兄ちゃんと生きたい。」
彼女の言葉が、まるで誘いのように心に響く。母もいない、現実世界の僕にはもう何も残っていないような気がした。目の前の妹の存在が、唯一の光のように思えた。
妹が隣にいる。それだけで、何かすべて終わったような気がした。いや、終わったのではない。始まったのだ。彼女は何も言わない。ただ、静かに僕の横で歩いている。薄暗くなった空、冷たくなっていく空気。すべてが自然の流れのように、僕たちを包み込んでいた。
何も問わない。何も答えない。ただ、静かに進んでいくだけ。遠くから聞こえる波の音が、次第に大きくなっていく。
波が静かに寄せては返す。僕はその音を聞きながら、足元に広がる水面をじっと見つめた。ここに来たことに、何の違和感もなかった。まるで最初から決まっていたかのように、自然と足がここへ向かっていたのだ。
冷たい風が頬を撫でる。水面に映る空が、少しずつ暗くなっていく。
僕は、ただ前を見つめながら一歩を踏み出す。足元に水が触れる。冷たい感覚が足からじわりと全身に広がっていくが、それは痛みや恐怖ではなかった。むしろ、静けさとともに感じる温もりのように思えた。
誰かに導かれているのかもしれない。けれど、それが誰であるかは重要ではない。ただ、今はこの静寂が僕を包み込んでいる。それだけが確かなことだった。
波が膝まで達した。耳には、何も聞こえない。遠くで打ち寄せる波の音が、ただ静かに響くだけだ。すべてが、まるで止まっているかのように感じた。
妹が後ろにいることは分かっていたが、振り返る必要はなかった。彼女がそこにいること、それがすべてだ。
僕はさらに一歩進み、体が水に沈んでいく。冷たい水が、静かに僕を包み込んでいく。すべてが、当たり前のように進んでいく。
視界がぼんやりと霞み始めた。息を吸い込もうとしたが、口いっぱいに入り込む水の流れがそれを阻止した。ただ、静寂だけが続いている。
そこには、何の疑いも恐れもない。波が体を包み込み、やがて僕は目を閉じた。
僕はその圧倒的な静寂の音に飲み込まれた。
静寂に奪われる前に、 mii @mii08310
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