誰もが実験の一部

 冬の名残を感じる2月中旬の夕方、薄曇りの空から僅かな陽射しがこちらに降り注いでいる。僕は久しぶりにお墓参りに行った。母がいなくなってから、この時期になると心にぽっかりと穴が空いたような感覚が蘇る。それでも、年々少しずつその感覚は薄れてきた。時間が癒すのだろうか、いや、むしろ忘れてしまっているだけなのかもしれない。 夕方、薄暗くなり始めた空の下、僕は静かに墓地を後にした。


 冷たい風が頬に触れ、コートのポケットに手を突っ込む。母の墓前に立つといつも感じる静かな孤独が、今日も心に染み渡っていた。けれども、なぜか今日はそれが少し違って感じられた。まるで、誰かが僕の背後にいるような感覚だった。 帰り道を歩き始めると、ふと足が止まった。振り返ると、ぼんやりとしたシルエットの中に彼女が立っていた。


「また会ったね。」


 彼女は微笑んだ。その笑顔は、いつもと同じようにどこか寂しげで、それでいて優しさに包まれているように見えた。

「どうして…こんなところに?」

彼女は少し歩み寄り、僕の隣に並んで歩き出した。

「教えてもらったの、今日はあなたに伝えたいことがあるから。」

僕は彼女の横顔を見つめた。何かが違う。これまでと同じ軽やかな言葉遣いだが、今日はどこか深刻さを感じた。

「何か…大事なことなのか?」

彼女は少し沈黙した後、静かに頷いた。 しばらくの間、僕たちは無言で歩き続けた。夕暮れの空が少しずつ暗くなり、街灯が点り始めたころ、彼女はぽつりと呟いた。

「私はね、デジタル世界の人間なの。」

その言葉が頭に響いた瞬間、僕は足を止めて彼女を見つめた。

「デジタル世界…?」 彼女は表情を変えずに続けた。

「私はもう、現実世界には存在していないんだよ――意識がデジタル保存されて、今こうしてあなたと話しているのは、ある実験の一環として、現実世界に戻ってきただけにすぎないの。」

僕は彼女の言葉を理解しようと必死だった。

現実には存在していない?デジタル世界に保存された意識?

だが、薄々自分でもそんな気がしていた。しかし、そんなことが本当にありえるのか。僕にはそれがあまりにも非現実的で受け止めきれない事実だった。

「でも、デジタル世界と現実世界の行き来は…」

混乱したまま僕は言葉を紡ぎ出した。 しかし、彼女はそれに覆い被せるように言葉を放った

「不可能なんじゃないのか?そんなこと、できるはずがないだろう?死んだ人間が、現実に戻ってくるなんて。デジタル保存された意識は、現実世界には戻れないって。」 そう言いたいの?彼女は得意げに続けた

「そうよ、普通は戻ってこれないの。でも、今行われている実験で私はこうして実際に存在しているの。時間は限られているけどね。」

「実験…」

現実世界に戻ってくることができる。彼女の言葉が響く中、僕はこの事実がどれだけ重大なのか、ようやく理解し始めた。今、僕の前にいる彼女は、デジタル世界の存在でありながら、この現実に存在しているということが信じられなかった。

「そういえば、まだ名前を言ってなかったね。」

彼女は突然、いつもの柔らかな笑顔を浮かべた。 僕は驚いた。今この状況で、彼女が名前を言おうとしていることが、不思議なほど現実感をもたらした。

「名前…?」

「うん、名前。」

彼女は軽やかに言った。

「私の名前は、夜凪咲良。覚えてもらえたかな?」

その名前を聞いた瞬間、僕の中で何かが引っかかった。どこかで聞いたことがあるような、いや、何かが違う気がした。彼女の名前…それは、あまりにも身近で、けれども思い出せない不思議な感覚が僕を包み込んだ。 僕の頭の中で、その名前が何かを示唆している気がしたが、まだ確信を持てなかった。

「君の名前って…」

僕は慎重に、彼女の名前をもう一度繰り返した。

「ええ、夜凪咲良。君と同じ名字だね。」

心臓が一瞬跳ね上がるような感覚に襲われた。僕の名字と同じ。いや、偶然かもしれない。だが、僕の名字はそんなに多くはない。

偶然…だろうか?頭の中でいくつもの疑問が交錯し始め、心臓が早鐘を打つ。 彼女がただの偶然の人間であることを願う一方で、もしそうじゃなかったら――。

「もしかして、君は…」

震える声で問いかけようとしたが、言葉が詰まった。僕は彼女の名前を反芻し、頭の中で何度も繰り返していた。心臓の鼓動が速くなり、胸の奥で不安と驚きが渦巻く。そこで彼女は追い打ちをかけるように明るくけれど、どこかもの悲しそう言い放った

「久しぶり、お兄ちゃん!」

彼女が僕の妹であること、その重みが一瞬にして音とともに僕を奪いこんでしまった――

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