飛び越える

増田朋美

飛び越える

その日はもう彼岸も中日になり、着物もそろそろ単衣から袷に戻っていく頃だろうかなと思われる季節になってきた。本当に今年の夏は暑かったが、それでも、なにか良いこともあったに違いない可能性がある夏であった。と思いたいけど、大きな災害が相次いで起き、もう二度とこんな夏は経験したくないなと思われる夏だったかもしれない。

「あーあ、こりゃあだめだ。」

杉ちゃんと由紀子は、ご飯がたくさん乗っているお皿を見ながら言った。

「どうやったら、食べてくれるようになるもんかな?確かに暑いから食欲もなくなっちまうんだろうけど、たくあん一切れとはな。」

確かに、減っているのはたくあん一切れであった。

「ほんと、もうちょっと食べようという意識を持ってもらわないと、本当に餓死しちまうぞ。」

由紀子は、杉ちゃんにその通りねと言おうと思ったのであるが、それと同時に、水穂さんが偉く咳き込む声がしたので、急いで食堂を飛び出して、四畳半に行った。水穂さんは、布団に横向きになったまま、ひどく咳き込んでしまっていて、口元から、朱肉のような液体が漏れていた。水穂さん大丈夫ですかと由紀子は、水穂さんの背中をなでたり、こすったりしたのであるが、結局薬をもらうまで、止まらなかった。とりあえず由紀子は汚れてしまった枕カバーを取り外したが、変えがなかったので、仕方なくタオルを敷いてあげた。

「どうもすみません。」

やっと咳が止まってくれた水穂さんであったが、薬には副作用があって、結局眠ってしまうのであった。由紀子は、そのまま眠ってしまう水穂さんに、掛ふとんをかけてあげた。そして、汚れてしまった枕カバーを早く洗濯しなければと洗濯室へ持っていこうとしたとき、ジョチさんこと曾我正輝さんが、ふすまを開いて四畳半に入ってきた。

「またやったんですか?」

「ええ。」

ジョチさんに言われて、由紀子はそう答えるしかなかった。

「最近、災害が多いのもあるんですけど、水穂さんも確実に弱っていくようですな。先程、杉ちゃんからたくあん一切れしか食べなかったと聞きました。」

「そうなんですよね。せっかく丹精込めて作ってくれたのに。」

由紀子は、がっかりと落ち込む。

「杉ちゃん本人は気にしないような顔をしていますけれど、そういうわけにもいかないでしょうね。本当は、栄養を取らないと体が持ちませんからね。」

ジョチさんは水穂さんを困った顔で見た。

「それに、由紀子さんが一生懸命世話をしてくれるのはありがたいんですけど、由紀子さんは仕事が休みの時しか来られませんし、誰か手伝い人をずっと募集しているんですけど、まず応募してくれる人はいないし、応募があっても、数日で辞めちゃうんですよね。みんな水穂さんに音をあげて。」

「ずっと女中さんを頼んでるんですか?」

由紀子がジョチさんに聞くと、

「そうなんです。もう半年くらい求人サイトとか、そういうところに出してるんですけど、まあ無理ですね。そういうところが、やっぱり同和問題も関与してくるのかな?」

ジョチさんは、大きなため息をついた。

「そうですか。そんなに、誰も来ないんですね。あたしじゃ、確かに、手が行き届かないこともありますものね。あたしからしてみれば、同和問題なんてどうでも良いんですけど。」

「まあねえ、一般の人は、同和問題がどうのというと、嫌がりますよ。そうするように、教育受けてるんですから。でも、今の状況から判断すれば、少なくとも女中さんは必要ですし、まあ、根気よく探すしか無いんですかね。」

ジョチさんは、眠っている水穂さんを眺めてそういったのであった。

それから数日後のことである。由紀子は、駅員の仕事が早く終わったので、製鉄所によってみることにした。製鉄所と言っても、鉄を作る場所ではなくて、居場所のない女性たちに、勉強や仕事をする部屋を貸している福祉施設であった。中には水穂さんのように間借りをして生活している利用者もいるが、大体の利用者は、決まった時間に通所して部屋を借りているというやり方で利用している。

「こんばんは。」

由紀子は、インターフォンのない玄関の引き戸を開けて製鉄所に入った。でも誰からも返答はなかった。どうしたんだろうと由紀子は急いで製鉄所に入ってみる。

「水穂さんいますか?」

とりあえず四畳半に行ってみると、水穂さんは眠っていて、枕元にジョチさんが座っていた。四畳半の畳には、朱墨をこぼしたような汚れがついている。足が悪いジョチさんはしゃがんで畳を雑巾で拭くということができないんだということを察した由紀子は、すぐ拭きますと言って、雑巾をとりに、掃除用具入れまで走っていった。

「どうもすみませんね。やれやれ、こういうふうに派手にやられちゃうと、畳の張替え代がたまらないです。」

ジョチさんは、大きなため息をついた。

「そうですよね。畳の張替えは、確かに高いですよね。それでは、より一層深刻になったということですね。」

由紀子が言うと、ジョチさんはハイと言った。

「昔みたいに、療養所があったとか、そういうわけではないですからねえ。今は、自宅で治せる時代ですから、もう、こういう派手にやるのは過去のものだってみんな笑うんでしょう。だけど、それは身分によるという一番大事な事を忘れています。銘仙の着物を着ている人間をうちの病院にいれるのはだめって、断られちゃいます。」

由紀子は、ジョチさんの言うとおりだと思った。由紀子も残念ながら、お医者さんへ連れて行っても、見てもらえずに他へ行ってくれと言われてしまった経験は何度もしたことがある。日本にいる限り、そういう差別は続いていくだろう。そういうわけで海外へ連れて行くという方法も考えられるが、それは由紀子には辛いものがあった。つまり、自分たちにはても足も出ないということかと由紀子は思った。それを言いたいのを我慢して、

「あれ?杉ちゃんは?」

と言ってしまった。

「はい。先程畳屋さんへ張替えの申込みに行ったんですけど、帰ってこないですね。」

ジョチさんが答える。

「まあ車椅子ですし、他の人より足が遅いことは確かなので、もう少し待ちますかね。」

それと同時に引き戸がガラッと開いた。由紀子が、杉ちゃんが戻ってきたのかというと、

「おーい!手伝ってくれそうな人材を連れてきたぞ。こいつに、水穂さんの世話をさせようぜ。」

と、杉ちゃんの声が聞こえてきた。それと同時に、ほら入れという声も聞こえてきて、お邪魔しますという女性の声といっしょに、杉ちゃんが車椅子で戻ってくるのがわかった。

「よろしくお願いします。仁村と申します。仁村真希です。」

そう言って、一人の女性が杉ちゃんといっしょに入ってきた。

「畳屋さんへいった帰りにな、ため池に向かってなにか考え事してたんで、ああもしかしてと思って、声かけたんだがね。なんでも就職活動が難航していて、いつまで経っても仕事が決まらないので、悩んでいたらしい。だったら、ここで働いてくれといったところ、引き受けてくれた。」

杉ちゃんはそう説明した。

「就職活動が難航ですか。確かに、世の中人手不足な割に、求める人材の理想が高すぎて、就職活動ができないという状況のようですからね。それで、仁村さん、どんな仕事を希望していたのですか?」

と、ジョチさんが仁村真希さんと名乗った女性にそう聞いた。

「ええ。看護師をしていましたが、まわりの看護師さんの態度についていけなくて、やめてしまいました。他の病院に勤め直そうと思ったんですけど、三回くらい落ちてしまって、もう私はだめなのかなと思って、自分でも追い詰めてしまいました。」

仁村真希さんは、小さな声で言った。

「そういうわけだから、水穂さんの世話をしてくれ。何よりも、ご飯を食わせるのを手伝ってくれたら、本当に助かる。」

と、杉ちゃんがいうと、

「そうなんですか。ご飯を一人では食べられないということですか?」

と、仁村真希さんは言った。

「まあ、ね。この汚れがその時の証拠品。お前さんはこういう病気の患者を相手にしたことがあるか?」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、

「いえ、ありません。看護師と言っても私は整形外科にいましたから、骨折などで入院してくる方が多くて、こんな重病な方は見たことがありませんでした。」

と、仁村真希さんは答えた。ジョチさんは不安そうな顔をしたが、

「そうなんだね。まあ科が違うとかそういうことはどうでも良いや。とにかく、こいつの世話をしてくれ。よろしく頼むよ。」

杉ちゃんが強引に話を持っていってしまって、仁村真希さんは、製鉄所で水穂さんの世話人として来てもらうことになった。

翌日から、真希さんは、製鉄所にやってきてくれた。もう看護師の制服は処分してしまったというので、とりあえず割烹着を着てもらって、水穂さんの部屋に入ってもらう。水穂さんの前で簡単に自己紹介すると、真希さんは早速、水穂さんの世話を始めてくれた。確かに、看護師という立場上、世話をするのは上手だったが、ずいぶん無口な女性だという印象を感じさせた。

お昼の時間になって、食事担当の杉ちゃんは、水穂さんに食べさせるため、米粉麺を、ゴマダレであえて、野菜をたくさん乗せ、冷やし中華のような料理を作った。

「じゃあ頼むよ。頑張って、水穂さんに完食してもらおう。」

杉ちゃんがいうと、真希さんはわかりましたとしか言えなかった。

「ずいぶん自信がなさそうな看護師だな。もうちょっと、笑顔で患者さんに接しなくちゃ。」

杉ちゃんがそうからかうと、

「ご、ごめんなさい。」

真希さんはそれしか言えなそうであった。とりあえず、四畳半にお皿を持っていって、

「お昼ができたぞ。食べろ。」

と、杉ちゃんは水穂さんを揺すって起こした。すぐにサイドテーブルを用意して、布団に座ってもらう。そしてその上に、先程の麺料理のお皿をしっかりおいた。

「ほら、食べようぜ。今日は可愛い子ちゃんも来てるんだからよ。彼女のためにも、頑張って食べような。ホイ、箸。」

杉ちゃんに箸を渡されて水穂さんはハイと言って、箸をとり、米粉麺を取って口に入れようとしたのであるが、それと同時に咳き込んで吐き出してしまうのであった。

「ああまたやる。頑張って食べようよ。ほら、もう一回。」

一生懸命食べさせようとしてもだめだった。何回も食べ物を口に入れさせても、吐き出してしまうのである。しまいには、朱肉みたいな液体も漏れてきてしまう始末。その間、真希さんは、驚いた顔で、それを眺めているしかできないのであった。

「お前さんは、看護師なのに、なんで、黙ってるの?なんか言ってやってちょうだいよ。看護師なら食べないやつをおだてて、食べさせることだってできるんじゃないの?」

不意に杉ちゃんにそう言われて、真希さんはハッとした。

「ごめんなさい私、整形外科だったので、そういう方は全く経験がありません。」

「そうだけど、看護師なら、食べないやつでもほっとかないで、食べさせることくらいできるじゃないの?」

と杉ちゃんが言うと、

「でも私は、精神関係ではなくて、本当に整形外科だったので。」

真希さんは言うのであった。

「だからあ、科が違うとか、そういうことばっかりじゃないよ。そうじゃなくて、看護師なんだから、なんとか水穂さんにご飯食わせること手伝ってよ。それは、看護師という仕事であればできるんじゃないの?」

杉ちゃんはそう言うが真希さんは、できないといった。

「他のことはできるのに、ご飯食わせることはできないのかい?」

杉ちゃんが聞くと、

「ごめんなさい。私、精神関係の方は全く縁がなかったので。どうやったら良いのかわからないんです。」

と真希さんは言った。杉ちゃんが再度、水穂さんに麺を食べろというが、水穂さんは、やはり食べられなかった。

「もう横になる?ずっと咳き込んでいると苦しいもんな。」

杉ちゃんに言われて、水穂さんは倒れるように横になった。真希さんが、掛ふとんをかけてあげようとするが、水穂さんは自分で掛ふとんをかけた。

「もうちょっと科が違うとか、そういうことにとらわれずに柔軟にやってくれると嬉しいんだけどなあ。」

杉ちゃんが残念そうに言うと、

「仕方ないじゃないですか。杉ちゃんよく利用者さんたちに言ってるでしょ。人間は、経験に基づく思考や感情でしか動けないって。それを業というとか、良く言ってましたよね。その業は一人ひとり違うわけだから、はじめから言葉も通じるはずはないから諦めろと言っていたのは杉ちゃんでしょ。それは、明らかに認めなくちゃ。」

水穂さんが、静かに言った。

「お前さんは黙っててくれ。咳き込んだ後だし少し眠った方が良い。」

杉ちゃんは水穂さんにそう言って、真希さんの方を向き直し、

「まあ確かに業というものは違うんだということはよく分かるが、でも、食べさせるのを手伝ってくれたって良いじゃないか。やったことある、やったこと無いだけでは人間済まされないこともあるよ。それを飛び越えて、なんとかなることもあるんだ。だから、できないじゃなくて、お前さんも、頑張って手伝ってくれないかな?」

と、言ったのであるが、

「ごめんなさい。私、そんな自信はありません。」

と、真希さんは言った。

「今まで、本当にご飯を食べられない人に、ご飯を食べさせるなんて、経験したことなかったんです。お医者さんでも無いから、そういう病気の人を見れるわけでも無いし。私はただ整形外科で看護師をしていただけですから。」

「うーん自信がないって言ってもさ、ここへ来たわけだから、手伝ってくれると嬉しいんだけどなあ。」

杉ちゃんは、でかい声でそういったのであるが、

「でも私、昔の映画に出てくるような病気で、なおかつ、拒食症の人を見たことは、本当になかったので。私、やっぱりこの作業は無理かな。水穂さんだって私が無理だということは、わかってくれたじゃありませんか。だから私ではなくて、他の人を探してください。」

と、真希さんはそう静かに言うのであった。

「まあねえ。お前さんくらいの若い人は、本当に自分が必要とされた経験が無いってこともあるよねえ。」

杉ちゃんは大きなため息をついた。

「あーあ、せっかく、手伝ってくれるやつが出てくれて、すごく楽になれるなと思ったのになあ。これじゃあ、まるで、振り出しに逆戻りじゃないか。本当に今どきの若いやつは、壁を乗り越えるとか、飛び越えるとか、そういうことは、苦手なんだねえ。」

「杉ちゃん仕方ないじゃないですか。彼女は、そういう人だと思わなくちゃ。」

水穂さんは、そう言っているが、

「お前さんは、早く寝ろ。」

とだけ杉ちゃんは言った。それと同時に、12時の鐘がなった。

「ちょっと他の利用者さんにもご飯食べさせてこなくちゃいけないので、食堂に行ってくるけどさ。お前さん、せめて片付けだけはしておいてくれ。それくらいはできるよなあ?看護師だから?」

そう言って、杉ちゃんは車椅子で食堂に行ってしまった。確かに杉ちゃんの仕事の一つとして、利用者たちの食事を作ることがあった。それは、水穂さんの食事とは内容が違うこともあるし、同じこともある。

真希さんは、とりあえず、麺を飛ばして汚れてしまった畳を拭き始めた。水穂さんは眠れなかったらしく、

「看護師になろうと思ったのは、なにかきっかけがあったんですか?」

と、真希さんに聞いた。真希さんは、水穂さんにそう聞かれてしまって困った顔をした。そんなきっかけなんて一度もない。それより、高給取りになれるからということで、看護師になったのである。なり手が少ないから、すぐに資格も取れてしまうなんてそんなこと、水穂さんには言っては行けないのではないかという気がしたのだ。水穂さんはそれだけ美しかった。

「ええ、私はただ、人の役に立つ仕事がしたかったから。」

真希さんはそう答えておく。

「そうなんですか、ありがとうございます。」

水穂さんは、静かに言う。真希さんは意外な言葉を言われたような顔をした。

「ごめんなさい、私、何の役にも立たなくて。」

と、真希さんは、そういうのであるが、

「いえ、良いんです。銘仙の着物を着るしかできない人間に、あなたの事をどうのと批判することはできませんよ。ほんの短い間だったけど、嬉しかったです。ありがとうございました。」

と、水穂さんは静かに言った。それはどういうことなのか真希さんはよくわからないと思ったが、

「そういうことなんです。それに対して、どう思われるかに、僕がどうこう言うことはできません。だから、ただありがとうと言うしかできないんです。」

と言われて、それがなにか重大な意味を持っているのではないかとして、真希さんは、黙ってしまった。とりあえず、畳を拭き、サイドテーブルに飛び散った血液を拭き、丁寧に掃除するしかできなかった。とりあえず、水穂さんにご飯を食べさせるということは、自分にはできないんだと一生懸命言い聞かせていた。

水穂さんはそれ以上、何も言うことはなかった。真希さんは、その日事務的に製鉄所に分かれを告げて、急いで自宅へ帰っていった。でも、水穂さんの言った言葉と、水穂さんの美しい容姿が頭から離れない。真希さんは、帰りのバスの中で、スマートフォンで銘仙の事を調べてみた。確かに、着物の一つではあった。でも、そのウェブサイトの中に、こういう言葉があった。「貧しいものが着るもの」と。真希さんは、それを聞いて、涙をこぼして、泣き出してしまった。あんな事を言ってくれた人は、そういう身分の人だったのか。そういう人にそう言われて、悔しいという気持ちもあるが、何よりもありがとうございましたと言われたことが、非常に複雑だった。どうしたら良かったのか、あの反応で良かったのか。バスのアナウンスが、終点にたどり着いたことも忘れてしまって、真希さんは泣き続けてしまった。

「それなら、本当に頑張らなくちゃだめだ。」

真希さんは、そう思った。

バカにされたのかもしれないという考えもあり、あれだけ貧しい人にあんなこと言われて悔しいという気持ちも、非常に難しいものだったが、でも、そう思ったのであった。



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飛び越える 増田朋美 @masubuchi4996

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