私は終ぞ、殿下と呼ばれるような生活を求めた記憶はない。幼い頃から母と二人で暮らし、それがフィーネとイシマツ理研の人々となり、やがてはクラリスになっていった。彼等との生活は質素だったが、とても楽しかった。知識や新たな発見に満ち、私にとって探偵の火付け役となったアイズマンですらも、私を皇族のような扱いはしなかった。悪い事をしたら叱り、良い事をしたら褒めてくれた。

〈貴方は祖母に普通の暮らしを与えんが為に、逃がしたのではなくって?〉

「ご冗談を、私は軍人です。国家に忠誠を誓い、その矛先は何時どんな時でも狂い様が有りません」

 昇降機が昇っていく。私を期限まで逃がさない為かと思えばそうでもないらしい。彼等軍人がこのビルを制圧して以降、このVIPルームに居を置いている者はいない。彼等の事だから多分今頃何処かで冷たくなっている事だろう。

〈トルネシア王朝を復古させた貴方達は名誉軍人としてきっと何処かへ奉られるでしょうね。けれど、それまで王朝が保てばの話ですが〉

「ベールリッヒは王朝の再来を喜ぶでしょう。貴女にとってもそれは恵まれし事なのです」

〈一体何を言っているのかしら、私の幸不幸を何故貴方が決める事が出来るのです〉

 彼は私を見下すと成りを初めてじっくりと眺めた。

「日銭を稼ぐ為に下らない殺人事件を解決する日々を送らなくても良い事はお約束しましょう。貴女の身分はご自身で思っているよりも尊い。今にそれが分かります」

 彼は私が探偵を商っている理由をなんと心得ているのだろう。少なくともウォルターは私が何故殺人事件の現場に赴くかを遠巻きな理解に落とし込んでくれていた。やはり、彼等では私と言う存在を御しきれない。

 ベルナルドは寝室に私を案内する。そして冷凍設備から密閉容器を取り出した。

「このビルに忍び込んでいるネズミの正体は把握済みです。貴女の事を助けようとする者が幾ら手練れだと言えど彼の向かう先に居るのは闇です。そこに光は差しません」

 てきぱきと準備を進める彼は何かの錠剤と水を私に手渡す。

「ご安心を、睡眠薬などではありません。我々は悪漢ではない。ベールリッヒ諸侯は貴女の御身を競売に掛けよと申し出ましたが一掃しました。そのような事を企む者に貴女は手渡しません。それは排卵薬です」

 にべも無く言い切った彼を上目で睨む。そしてケースの中に入った白濁の液体達を見据えた。

〈成る程、皇帝一家は伝統的に自然妊娠によって代を繋いでいきましたからね〉

 私はその錠剤を飲み込んだ。

「えぇ、仰る通りです。これは皇帝一族と血縁が深く、志の高い者達の種です。殿下には酷かも知れませぬが最低一つの家の子を宿していただきます」

〈これを貴方が私に?〉

 彼は息を吐き出すと首を横に振るった。

「やんごとなき貴女様の身体に触れるなど……亡き皇女殿下に顔向け出来かねます。だからこその交換条件です。貴女の元へ彼を生かして連れてくるか、死して顔向けを行うかを選んで頂きたい。前者なら貴女自身の手でそれを御身にお宿し下さい」

 ピペットを取り出した彼に私は笑った。

〈最後の最後で確実性の欠ける事をするのね。自信かしら? それとも、今が貴方を変えた事にまだ納得していないのね〉

 国家が南北へと別れ、そして皇族の威信が消え去ったトルネシアと言う国。最早それは抜け殻に等しく旭国やエルビリア帝国に支配された形無し国家と成り下がった。

「その通り、願うなら貴女様にもご平穏に余生を送って頂きたかった。だからこそ、この卑劣な交渉と言う材料を燈す事で少しでも可能性を引き上げたのです。さぁ、お選び下さい」

 私はピペットによって常温に戻ったそれを吸引する。彼は顔を背けた事でこれが紛れようの無い事実だと判断に負えた。手が震えているのが分かった。そして自分の感情がちゃんと動いている事が分かる。嫌なんだ……。

 良かった…………。私が着物の裾を捲ろうとした瞬間、ガラス張りの恐らくは強化ガラスを割って鳴り物入りのような様を見せ、少女が踏み入った。

「気色ワリィ! おえ吐きそう。どこの馬の骨かも分かんねぇ男の放り出したモノで科学実験ですかぁ? そんなに良い子振りたいんだったらさっさとマスターをアタシにくださぁーい!」

 煙幕を投げた黒スーツに緋色の髪を靡かせた少女が翡翠のような瞳をぎらつかせて私の手を止めた。手首を掴む力強さがピペットを離させ、それが試験管の内壁で回る。

「ロストヴァージンの相手位自分で選べってんだよ物分かりだけは一丁前のお利口さん」

 私は直ぐに車椅子を方向転換させて、彼女にベルナルドの観察データを送信した。

「了ぉ解~。さぁお爺さん、手前の相手はアタシだ。この前どてっぱらに開けた傷の報いを受けさせてやる」

 逃げる私を追うベルナルドの前にベレッタは立ちはだかった。

〈任せましたよベレッタ。ウォルターの寝顔パート2は貴女の手に掛かってます〉

「はっ! やる気出て来たぁっ!」

 一足飛びで駆け出したベレッタの痛烈な蹴りがベルナルドを吹き飛ばして試験管たちを地面にぶちまける。それを惜しそうに手を握り込んだベルナルドを彼女は嘲った。

「おいおい爺さん、男の踏ん張った物に執着しちゃって、そいつらもイキ甲斐があったってもんだなぁ」

 ベルナルドは腕の発信機をいじると我が窓ガラスからドローンが飛び込んできてジェラルミンケースからレールガンを引っ張り出した。

「小娘が、戦場の忘れ形見に望愁の恐ろしさを教えてやるのも年長者の務めだ」

「言い得て妙だな爺さん。アンタも亡国の忘れ形見じゃねぇか」

 レールガンの初速を先読みしたベレッタの斬撃が振り下ろされた。

「行きな! ここはアタシがどうにか抑える!」

 私は彼女の言葉を信じて先に進む。



 最上階へ行き着いた俺は壁が骨抜きとなった吹き曝しの空間で一人の少年と相対していた。

「思い出してくれたかい? 僕の事を」

「あぁ、思い出した。何もかも……。ジョン、お前の目的はなんだ」

 彼は第三知覚で覆い隠した顔を取り払うと、俺の見慣れた容姿が明らかになる。白銀の髪色に抜き身の狂気を孕んだ瞳。それが俺に向くと同時に駆け出した。

「勿論、君に戻って来て貰う事さ!」

 初段の蹴りを屈んで躱して振り下ろされた踵を両腕で防ぐ、数舜の攻防で彼の身体能力は明らかに高く研ぎ澄まされている事が分かる。彼はずっと戦って来たのだ。俺が居ない間もずっと。

「俺を置いて行ったのはお前だろ! 何言ってんだよ」

 彼の刺突を上下左右に頭を揺らして避けると一挙に寄って鳩尾に肘を入れる。しかし、そこに対応するように膝のガードからの顎に向かった打撃を避けるのが精一杯だった。

「あぁ、そうだね。けど折角準備が整った僕は抜け殻の君を見た。そこに居たのは牙の抜けた皇女の犬となっていた君だ!」

「だからそれが許せないって?」

「当然だ!」

 体術のキレは互角、だがリリネルと言う駒がある相手には既に分がある。このまま時間を稼がれたら、彼女はきっと俺抜きの回答を導くだろう。

「僕だって頑張ったんだ。君と再会した時に成長したって思われるように! けれど君は、君はあんな少女に首を垂れて僕の事なんか忘れてしまった。許せる訳無いだろうがぁ!」

 踏み込まれ腕に打ち込まれたそれは、二段蹴りの威力ではない。大きく揺らいだ俺の懐に踏み入った白色の眼光が腹部を穿った。血を吐いて後退を強いられた俺は一瞬で判断力を失って、踵蹴りによる強打を手の平を挟んだこめかみに食らう。

「やっぱり、君とアイズマンを長く向き合わせたのが失敗だった。あの男のせいで、僕の神であった君は死んだ。レベッカの理解は正しかった。君は牙を抜かれたんだ」

「俺はそれでも良かった。お前はどうして彼女に従うんだ!」

「従う? 僕は正したいだけだよ。ひた隠しにされたこの国の暗部を」

 瞬間的に開いた間合いの合間に彼は俺の中に情報を送り込んだ。

「ゴコウレンギョウ。モクセイ科の小低木植物で旭国原産のこれには他と類を見ない科学的作用があった。それが第三知覚への働きを高める脳内麻薬的な作用、これの化学合成は困難で、マギスライナー社のように類似物質を作る事はできるけれど、その質は低い」

「……っ、それが、どうしたって?」

「この植物から取れる精油には複雑な合成過程を負って作られる成分が配合されている。それだけで物質的な価値はとてつもなく高いんだ。だけど、副作用も同時に弊害としては高確率で現れる」

「ラインズフレニアか。アイズマンはそれを解き明かそうとした。何故それを邪魔するんだ。俺達に与えられた救いの手だろうに」

「遅すぎるんだよ何もかも! 認めろっていうのか、納得しろって? ならば何故! 実験場となった戦場でバッカス酒を振る舞った悪意を直ぐ様糾弾しなかったんだ!」

 彼の悲痛は理解出来た。

「だからって俺達が今も尚殺しから手を洗わない理由にはならないんだよジョン!」

「何を勘違いしてるんだいウォルター。確かにあの狂乱は一企業によって生み出されたと言って良い。だけど、僕はねぇ、ウォルター。その時相手が何を求めているか理解する才能があって、その時最も利用できそうな人間と手を組む知性がある」

「四年前がレベッカで、今の飼い主は北部帝政復古派閥か」

「そうっ。帝政が戻り、再びアルフィニアはトルネシアに対して圧力を講じなければならない。そして旭国のダイラー社が隠してきたこの事実を明かす事で人々はアルフィニアの独立を求めるだろう。そうなったら! もう訳わかんなくなるよねぇ? 戦いが戦いを産んで、君もどうしようもなくなる筈さ! その手を再び血で染める事も厭わないだろうねぇ、だってリリネル・ルイン・トルネシアを守る騎士なんだから! そして彼らは知る事になる。引き金を引かれたのは救われるべき者達の声を無視したからだと」

 狂ってしまった。俺の知るジョンはもういない。

「俺達の戦いは終わったんだよ。あの時、アイズマンが救ってくれた裏路地で」

「違うだろぉ? 君は本当は殺したいんだ。あの夜に僕と誓った解放の赤い視線は今だってホラ! 光っているじゃないか! だから、だからぁ用意したんだよぉお。君がもっと輝けるステージをね!」

 走り出したジョンは俺の懐に飛び蹴りを放つ。その軌道を目で追いながらに次手を両腕で防いだ。着地を狙った俺の右拳を彼は掴んで顔を引き寄せる。

「黙れ! 俺はアイズマンのお陰で変わった。奪う事で得る物の虚しさを!」

 拳と拳が交差し、互いの汗が飛び散る中、彼は巧妙に囀った。

「あぁ、そうだね。僕の企みは何時も彼が阻んだ。あの裏路地だって、本当は君の覚醒を促す為のステージだったのに。本当に彼は鬱陶しいよ、人一人の心すらも見抜けない分際で」

 俺は血を吐きながら笑った「お前がっアイズマンの何を知ってんだ」と……。すると彼は俺の背後に回り肩の傷を舐めて笑みを返す。

「あぁ、そうなんだ。あの犬は君じゃなかったのか……。だったら知る筈も無いねぇ、アイズマンは僕が撃ち殺したんだ」

 俺の視界に闇が潜む。彼の身体から中心として湿った街道の電脳都市景観が映し出された。そこはベールリッヒの街道、雨の降り注ぐ夜に少年がアイズマンの背に向けてハンドガンを構えた。振り返ったアイズマンは驚愕に顔を染めるが何かを察した表情をする。

『王の一手から逃げ出した坊やは君か。てっきりウォルターだと思っていたんだがな。まぁ良い、依頼者はレベッカか?』

『随分、饒舌なんですね。命がそんなに惜しいですか?』

『ん? あぁ、そうかもな。必ず戻るって約束した連中が多すぎて焼きが回ったかな……。だがね坊や、俺は君達が殺人以外でこの国の役に……いや違うか。有体に言えば死んで欲しく無かったんだ』

『今更懺悔等要りません。貴方が居なければウォルターは僕から去る事なんて無かった』

『いいや、アイツは今の坊やからはきっと離れていくさ。そいつは俺が保証する。信じらんねぇなら撃ってみな、その後の事はアイツに任せてある。俺の意思を繋いだ優秀な子供たちにな』

 銃声が二発。その後に川に落ちていくアイズマン。彼の血液で染まった川を眺めたジョンの顔は嗤っていた。

『ほら、貴女の代わりに撃ってあげましたよ。レベッカ・プレスコット』

 傘を差し物陰からその状況を見ていた女はアイズマンの身体が濁流に流されていくのをただ見送っていた。

「アイズマン、貴方の言葉は正しかった。けど許せるかなぁ、アイズマンを殺したのが僕って知ったらウォルターは僕を許せるかなぁ!」

 俺はアイコンダクターを外して本能に従った。両腕から伸ばした仕込み刀がジョンの首を襲う。それを皮一枚でやり過ごした彼の笑みが俺に刺さった。

「いいよぉ、ウォルター。昂って来た。その眼で僕をもっと見て、君の手でイカせて、そして、そして君は血みどろの神となって僕たちを導くのさぁっ!」

 第二ラウンドが幕を開ける。



 レールガンの射線、大分慣れて来た。けど老兵は駆け引きが上手い。

「そろそろ投降したらどうですかぁ? もう軍が此処を包囲しているのは知ってるでしょ?」

「こちらには皇女殿下が居る。いざとなればそれを公表した上で交渉をすればいい」

 揺さぶりも効かない、か。ならばやる事は決まっている。分からせるしかないこの時代を作っていくのはこれからの子供達だと。

 走り出す。レールガンの冷却に合わせて床を踏んで飛んだ。その単純な突貫に彼は取り回しの悪いそれを捨てた。やっぱり肉弾戦に自信があるよね?

 義手に備えられたナイフが手の甲から現れてそれを振りかざす。重なりあった仕込み刀とのギラ付く火花に合わせてアタシの目に確かに捉えられた彼の弱点、きっと彼も無自覚で前回からの戦闘でも変わらなかった感性による補完。それが悪手となっている。

 交差した刃がアタシの頬を切った。そして着地した瞬間に次手の切り上げを講じる。

 と彼は思っただろう。アタシはその場で右足を後方へ上げるとそのまま肩を超えて顔面に蹴りを向ける。切り上げに対応した防御を貫いたその蹴りにベルナルドはただただ後方へと転がった。

「痛ったそぉ」

 彼の弱点はラインと義手の間に発生する入力遅延に対して経験から予測される先読み、それをアタシ等のようなアイコンダクター無しで感覚で行っている。そればかりは恐ろしいが、この場限りでは仇となって降りかかる。

 更にクロスして斬撃を加えようとするアタシに瞬時に反応した義手でのガード、アタシは仕込み刀を仕舞い今度こそ腕を取ると背負い投げて完全な破壊へと繋げる。

「芸が、無いな。それだけか。小娘」

「孫のやんちゃに付き合うお爺ちゃん。焦り過ぎて心臓爆発しないように気を付けてくださいねぇ?」

 彼の腕を外した。此処までは前と一緒、生身の片腕だけで防げる程アタシの連撃は柔じゃ無い。痛烈な蹴りは徐々に選択を狭めていく。そして縋るんだ。

 彼は最後の右拳を振り抜いたアタシの腹にリボルバーを抜いて放った。しかしそれがアタシの腹に穴を開ける事は二度と無かった。回避でもガードでも無く、カウンターの為の弾丸はあのいけ好かない少女特注のスーツの表面で潰れたトマトのように留まる。

「アハッ、防弾性でしたぁ」

 そのまま芯を捉えた拳。

 顔面を打ち据えた拳を引き抜いて気絶した老体から銃を取り上げてベッドに寝ころんだ。防弾性でもイテェものはイテェのだ。けど、後はコイツを拘束してっ……。居ない?

 アタシが目を離した隙に彼は横合いに這い、レールガンをこちらに向けた。死ぬ、銃口を彼に向け、チャージの始まったそれを止めるには殺すしかない。殺せるの? アタシに。

「こっちだ!」

 直後、響いた声にベルナルドは銃口を入口の方に向けた。だが、それよりも早く声の主の銃弾が彼の右腕を粉々に粉砕する。見ると、やって来たのはアタシの命の恩人だった。

「ミハエル中佐?」

 右腕を粉砕されて割れた窓のフレームに寄り掛かるベルナルドは、最早戦闘不能だと判断して銃口を彼に向けた。けれど、それを大きな手で留めた男は言った。

「殺しは軍人の仕事だ。君はただの少女だ。だけど、よくやったね」

 その言葉にアタシは今度こそベッドに身体を預けて唸った。

「最後の最後でカッコつけられちゃった。大っ嫌いな軍人に」

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