「ちょこまかと動き回るネズミさぁん! 早く出てきてちんこちょん切ってやりますから!」

 厄介な事になった。火を付けたような赤い髪を振り乱しながら俺を索敵する少女は恐らくは王の一手の人間だ。兵装の是非が俺と同一であることからそれは間違い無いだろう。

「此処に居ましたかぁ」

 舐めるような震えた声音に少女がパイプの上部に乗っ取り俺を目下の視野に置いた。

 振り落とされた白刃の剣戟を躱しながら俺はどうにか退路を確保しようと試みる。

「この私からここまで逃げられた事は褒めて上げます。けど、やっぱり最後は捕まっちゃうんですよね。悪者さんは」

 距離を取った分だけ、彼女は身を低く保ち俺を追随する。右の一閃を躱すと更に踏み込んで追撃を加え、これを避けられないと判断して受け止めると肉弾の間合いになって蹴りが俺を打ち据えた。

「ほんっと、つまんねぇ。やる気あるんですか? 避けるばっかならさっさとおっ死んで欲しいんですけど、それともMですか? ドMですかぁ?」

 年齢は俺よりも若い事、けれども訓練は十分に受けている。だが……。

 俺は自らに掛かった蹴りの圧に殺人者の重みを感じなかった。

「初陣か?」

 初めて発した俺の意見に彼女は暗視装置を持ち上げる。その瞳はエメラルドグリーンで発色の美しい様子を湛えていたが、アイコンダクターによる退色ではない事は明白だった。

「は? てっめぇ、舐めてんじゃねぇぞ。この私を誰だと思ってる! 黒鎌と呼ばれた私を! 処女(未経験者)と一緒にすんじゃねぇ!」

 大口を開けて感情を乱した彼女に俺は不思議な感覚を覚えた。黒鎌、それが通り名としてアルフィニアにおいて定着したのは、自覚として並べるつもりはないが俺の事を指していた筈だ。

 ならば俺は彼女が王の一手お得意の記憶改竄の影響を受けていると考えた。彼女の容姿を第三知覚で視認しリリネルに送信した。後で彼女に確認してもらうか。

 さて、取り敢えず殺さずに無力化すれば良いんだ。

「お前、名前は?」

 彼女は呆けたがやがてコチラが本気になったと考えて自身のコードネームを開示した。

「ベレッタ・F・マーキュス」

 俺はベレッタの自己紹介を受け取って両腕の刀を抜刀した。

「俺の名はウォルター・アイズマン。本物の黒鎌だ」

 その挑発にも等しい俺の開口に彼女は歯を食いしばって怒りを滲ませて、殺意を表明する。アイデンティティの上書きなど彼女にとってはそれこそ未経験なのだろう。

 けれど、その重責を負うのは俺だけでいい。

 駆け出した少女の刺突は本気で俺を取りに来ている。しかし、余りに安易で単純であり回避と共に腕を取って投げ捨てるのは容易だった。

 怒りに単純、まだコチラを追い回して居た頃の方が動きは洗練されていた。そんなにもこんな称号が大事か。人の可能性を奪った挙げ句に得た不名誉の契がおめでたいか!

 俺は自分の課された贖罪の導きを彼女を通して実感する。

 お前みたいな奴を一人一人折る事も、俺の使命の一つなんだ。

 投げ飛ばされて転がったベレッタ、彼女はパイプを蹴って飛びかかる。俺はゆっくりと歩みを進めたままに左腕の振り降ろしを顔を反らせて回避し、二撃目の袈裟斬りが放たれるより前に歩み寄った。

 少女と目が合う。この血に塗れ戦争が終わった後も消えない赤が綺麗なままの彼女の双眸を見据えた。そして俺は右腕の刃を翳す。本気の殺意を以て立ち向かう者へと。

「何なんだよ、何なんだよお前!」

「避けろ」

 俺の刺突は彼女の急所を狙った。間一髪で身体を後方に倒す事で回避したベレッタは続けざまに放たれる斬撃を見上げた。

「避けろ」

 純粋な縦の振り降ろし、たかがその程度の攻撃を体幹を余す事無く使用して飛び退く。だが、そこに既に俺は到達している。

「避けろ」

 遂に少女は竦んで両目を瞑った。腕が緊張を示した折に俺は彼女の首元に刺突を放つ。

「いやっ!」

 少女はへなへなと倒れる。俺はパイプに刺さったその切っ先を引き抜いて、拭き上げる蒸気に少女が巻かれないように安全な場所にまで運ぶと、もうこの施設に用はないと判断して脱出した。

 彼女の言うネズミというのは果たして俺の事だったのか。それにしては容易の周到さが無く、取って付けたようだ。

 最後に王の一手と相互通信をしてから三日以上。痺れを切らすより前に彼等からの接触があっても良いはずだ。この施設をアイズマンが調査していた事とジョンの漏らしたラインズフレニアという文言、そしてブックマンの残した記録が結び付ける物は何か。

 ホテルに戻りリリネルと擦り合わせる事で導き出される答えがアイズマンに繋がると俺は信じて足早に断崖に立つ屋敷へと戻った。

 しかし、暗がりがホテルの明かりを灯した頃、帰り着いた俺を待っていたのは口を開いて俺を出迎える少女だった。

「おかえりなさいウォルター、夕食には間に合いませんでしたが、私のハグを召し上がれ」

 彼女が両手を広げるものだからそれを無視して耳元に近づいた。

「事件か?」

 部屋の中でも彼女が口を開くという事は、此処は既に事件現場である可能性が高い。

「そんなに近寄られると照れてしまいます。ポッ」

 わざとらしく桃色の唇をすぼめた少女を俺は呆れ声で何故連絡をしなかったと問うた。

「電脳都市景観の固定を行っている者が近い程、ラインの通信に不備が発生するみたいです。例えるなら冷凍庫の中に放り込まれているような、これでは人魚も型無です」

 そう微笑んだ彼女は愉快な笑みを浮かべながらベッドの上に寝転がった。

「犯人の目星は付いているのか?」

 俺の問に彼女はフッと小さく息を吐き出した。

「恐らく今日の夜、また犯行に及ぶでしょう。そのためにウォルター貴方が帰ってきてくれてよかった」

 転がった彼女は俺の方に向く、着物の袖がめくれて白い肌が顕になると純白のシーツですら不純物が混じっているかのように感じられる。

「なら、現行犯で捕まえられそうだな。けどなんで犯行を待つ必要があるんだ? 誰かが被害に遭うかも知れないんだろ?」

「遭わせませんよ。けれどウォルターこう言ったら私に失望しますか? この冷え切った氷の中でしか歌えない人魚がせめてもう少しその中で歌を聞かせられるように、凍えた人間を繋ぎ止めようとしていると知ったら」

 俺はジャケットを脱いで背筋を伸ばした。それから不安げに深い蒼を転がした彼女に向かって断言する。

「誰かに被害が及ぶならまだしも、そうはさせないと言うのなら俺はアンタの奏でるシナリオに乗っかってやってもいい。それくらいの情はある」

 彼女はシーツに顔を埋めると「そう」と小さく呟いて俺にマッサージを要求した。細い肩に指を埋めながら少女の想像以上に硬い筋肉を解す。やはり体質的にこういった施術も定期的に行う必要があるのか。俺はインポートした彼女の説明書を確認しながら、リリネルの好きな場所を重点的に指圧した。

「んっ……」

 普段聞けないような色っぽい声音に俺は勘弁しろと思いながらも何も考えまいとして、指圧していく。すると少女は不意に身体を反転させて上向いた。

「手を」

 言われた通りに彼女の前に両手を出した。リリネルはそれを細い指先で掴むと左胸に宛がうから俺は声を上滑りさせて抗議する。

「心臓の音、聞こえますか?」

「あぁ、だから辞めろ」

 俺の声が届いているのかと不安になる程に彼女は一方的に両手を首筋に当てた。

「もし、私を殺す時が来たら、こうして首を締めて下さい。最後まで貴方の顔を見て死にたいから。ふぅ、ようやくちゃんと口で言えました。刻んでください」

 奥歯を噛み締め俺は彼女の手を振りほどくと大粒の汗を垂らして震える手を抑えた。俺達は近づく程に反発し、同じ時間を過ごす程に別れに近づいてしまう。

「なんでだよ! なんでそんなに死にたいんだよ」

 少女の胸に額を乗せて子供みたいに言食んだ。彼女の髪を掬い上げ背を抱き上げると軽すぎる身体には馴染があった。それは受け取り難い記憶という流体であり、砂嵐のように俺の思考の合間に滑り込む。

 その子供達もこんな風だった。糸の切れた人形のように腕を後方に垂らして、どうして抱き上げてもぬくもりが帰ってこない。首の座らぬように回った顔面は虚ろで鼻血を垂らして口と目を胡乱とさせただけに成り代わった。

 この前まで必死に生きていたのに、生きようとしていたのに。

 だから俺は彼等と似てはいるが非なる態度の少女が憎らしかった。そして抱きしめた身体に腕を回せる彼女を恨んだ。

「ウォルター貴方は本当は優しい人。だから最後にその優しさに抱かれて死にたいの」

 確実に訪れる別れという事象に俺は唯只管に自分のこれまでの道を呪うしかなかった。

「俺はお前みたいな奴は嫌いだ。死んで良かったなんて思えるような奴願い下げなんだよ」

 彼女は俺の抱擁を一糸に受け入れ時間が許すまで俺達は互いの心臓の音色を聞き確かめるのだ。そうして事件発生を予見するノックの音が響き渡り顔を上げたリリネルは何時もの薄ら笑いを浮かべていた。

「さて、事件解決の時間です」

 俺は彼女からの命令通りに崖下に先回りしてロッククライミングの準備をした。夜半の満月を反射する水面は凪いで美しい星空を演出していた。そんな俺の元にドサっと落ちてくる存在に驚いて足を滑らせそうになった。

 それは遺体であり、その遺体は俺の瞬きのタイミングで消失する。

「なるほど、これが『原因』か」

 そう呟きながらクライミングよろしく崖を登って縁の前で集音マイクのスイッチを入れる。もしかしてアイツは俺の体力を宛にしてないか? なんとか道具の中にグラップリングフックがあったからそこにワイヤーを通して俺は崖に足を付き身体を地面と水平にすることで支えとした。

 一体何が始まるのか俺は知らないが、ホテルの方から一人の少女がやってくるのが見えた。その間にも俺の隣を女性が落下していくから若干ホラーな雰囲気であった。

 彼女はその光景を初めて見たようで「お姉ちゃん!」と悲痛な声を上げている。しかし、手で彼女を捉えようとしても、腰を反るように落下していく女性は少女の手を避けるようにして姿を消してしまう。

 少女の声が悲痛から嗚咽に変わった頃、男の声が聞こえた。爽やかな青年の声音をしており聞き覚えのある声だった。

「貴方は……」

 少女の疑問に男は酷く楽しそうに眼前の状況を観察しているような間を持たせていた。俺の肩にはいつの間にか飛来したコルリが止まっており、丁度良いとばかりにこれを飛ばして視界を得る事でタイミングを計った。

「どうして貴方が此処に?」

「素晴らしい月夜ですね、ラウラ・クラインさん」

 月明かりに浮かんだ男の顔はこのホテルの支配人エリック・ホフマンであった。

「貴方にはこれが見えないの?」

 ラウラの疑問に彼はまるでそれを含めてこの夜闇が演出されているかのように口元を抑えて笑った。

「勿論見えていますとも、美しい物ですね。人の死に際ってのは」

 呆れた物言いだと断じ直ぐにでも取り押さえる事も出来るが、これでは彼女が身体を張った意味がない。

「アンタが、お姉ちゃんを? なんでよ、どうして!」

「フフ、フハハハッ、おっと失敬。笑うのは良くない、悲劇的な事故なんですから」

「事故ですって?」

「カイアさんは自らの軽薄さを案じ命を絶ったのです」

「ふざけないでよ。お姉ちゃんが自殺するわけ……アンタが殺したんでしょ」

 ラウラの言及に彼は周囲を見回して、彼女の罵声が何者にも届いていない事を確認するように納得を秘めた。

 そう、だからこそ彼は自供を口にした。

「全く馬鹿な女ですよ。僕が愛しのエリオットだと偽って此処に呼び出したらノコノコとやって来てしまうんだから。貴女も同じです。此処に来なければ知ることも、死ぬことも無かったのに」

 やはりエリックはラウラを害する為にそこに立っているのだ。

「私も殺すの? お姉ちゃんみたいに」

 彼は落下を繰り返すカイアを見据えて恍惚を浮かべる。

「理屈は分かりませんが僕にはこの素晴らしい景色が常に目に焼き付いていた。彼女を押して断崖に消えていく姿が……。貴女が此処に訪れてから、僕の目には彼女が現実に映り始めた。だから気づいたんです。貴女がカイアの妹だと」

 にじり寄るエリック、ラウラは次第に崖へと追い詰められていく。

「お願いです。姉妹共々、その崖の下で僕の劣情の餌食になって下さい」

 少女に手が伸びようとした瞬間に俺は勢いを付けて崖を登りきった。そしてエリックの手を取ると彼女から遠ざけた。

「素晴らしい手際ですウォルター」

 リリネルがユルゲンと共に現れる。彼の背後には他の従業員も顔を揃えていた。

「どうして、眠ってる筈!」

 給仕を担当したエリックならば睡眠薬を仕込む事も可能だろう。

「貴方が再度犯行に望むと分かってから行動を予測することは簡単でした。ならばどうやって被害者以外を連れ出すか、言わずとも貴方が口ずさんだ事が証左です。睡眠薬を盛ったのでしょう。四年前の事件当時料理人のフレジャーが眠気を訴えた事で料理に細工がされていた事は分かりました」

 エリックはリリネルの蒼い深海の眼差しに射止められ目を見開いている。自分のテリトリーであるはずの氷漬けの海を優雅に泳ぐ者が居るならばそれを恐れぬ筈がない。

「最初は常備薬から薬を抜くつもりでしたけど、貴方は用意周到そうでしたので諦めて視界に少し細工をしました」

「視界?」

 彼は当惑に身を染める。

「あたかもスープ皿に熱々のスープが注がれているように、視界にインサートさせて貰いました。そうしたならば粉末状の睡眠薬等は全員嫌でもわかりますからね。ですが四年も前の手際を今更行使するなど、お粗末と呼んで相応しい行いです」

「四年前? さて、何のことでしょう。彼女は事故で亡くなった。それが真実です」

 飽くまでも白を切るつもりか。まぁ、カイアの件が自殺と片付いているならば今この状況さえ乗り切れば彼の平静は保たれるだろう。成る程、だからこそ現行犯である必要があるのか。

「今も尚落下し続ける彼女を前にしても飽くまでも無実を主張しますか。ならばお答えしましょう。四年前、十四歳の貴方は彼女を崖に呼び出しそして崖下に押しやった。状況的にそれが可能なのが貴方しかいないのです」

「何故僕が? そっちのフレジャーとかの方がよっぽど一物抱えてそうですが?」

 フレジャーは怒気を孕んだ。だが、リリネルより前へ来ようとするのをエリオットが留めたのだ。

「落ちる彼女の身体は胸を開けて反るように落下を始めています。普通背中を押されたならば肩が前に出て次いで頭が下に来るように落ちる筈です。何故そうなったか、答えは単純です。身長が答えでしょう。四年前から成人である彼等とは違い、エリック貴方はこの四年間と言う時間は二次成長期の真っ只中だった。そしてその当時ではカイアの背後に立った貴方が押す部位には限界があったのです」

 沈黙がエリックの喉に敷かれた。

「加えて、岩礁に打ち付けられた遺体には移動した痕跡があった。ユルゲンさん、何かお分かりですか?」

 唐突に使命されたユルゲンは顎に手を据えて答える。

「引き摺った痕跡……ですか?」

 リリネルは正答に笑みを湛えた。

「そうです。平坦になった岩場へと岩礁から遺体を運ぶ際、血痕が身体を引き摺ったかのように横に引かれていた」

「だから、なんだと言うんだ! それが僕の犯行を証明しているとでも言うのか!」

「では、実際にそちらへと向かってみましょう。お付き合い頂けますか? 無実の証明の為に」

 そう言われたらエリックは従わざるを得なかった。そうして一同は崖の下へと向かった。

 生々しい遺体をラウラに見せないようにと、俺は彼女の前に立って事件の解明を急ぐようにリリネルに視線を送る。彼女も分かっている様子で言葉を続けた。

「岩礁に遺体が打ち付けられ、最終的にはこの岩場へと寝かせられます」

 信じられん、とは誰かの言った声だ。この現象が彼等にはにわかに信じがたい事象なのだろう。

「ならば、フレジャー。そこの岩礁に立って下さい」

 リリネルは彼にそう促すと、嫌疑を掛けられたフレジャーは岩礁の隣に立った。するとカイアの遺体は彼の腰付近に現れる。

「お分かりですか? 四年前の事件が成人男性が犯人なら、きっと彼は遺体を抱きかかえて寝かせた筈です。そして血痕は点々と零れ落ちたでしょう。しかし、四年前。成人女性の腰程に手を伸ばすしか出来なかった少年では、細見の女性であっても抱えるのは容易ではありません。だからこそ引き摺ったのです」

 彼女の証明にこれ以上の隙は無かった。犯行の告白から続いて動機までの道順を辿ったリリネルにエリックは既に自らの潔白を証明する手段を取る事を諦めていた。

「綺麗ですよねぇ、人間が死ぬ時って」

 彼の虚ろな眼差しはカイアの見開かれた瞳を見下ろした。エリックの深層心理が景観の固定を行い。仰向けの遺体と彼は見つめ合うのだ。

「貴方がお爺様と暮らしていた理由がそれですか?」

 リリネルの言及に彼は顔を上げる。

「僕の父は中央紛争で死にました。けど、駆け落ち同然で離れた生家を頼る事はしなかった。だから女手一つで僕を育てていた母は死ぬ間際まで病魔に侵され苦しみ続けたんです。それが死んで抜け殻になった途端にまるで眠ったように静かになって、夜中に苦しみ呻く事も無くなって、だから僕は気付いたんですよ。今苦しんでる人も、こうすれば安静になれるって、僕も気を張り続ける母よりも、死んで動かなくなった母の方が甘えやすかった」

 膝を付いて微笑みながらカイアの頬に手を触れようとするエリックをエリオットが掴み上げて殴り飛ばした。

「なんでカイアを! 彼女は何も」

 するとエリックは口元のねじが緩んだように笑い出した。

「貴方は本当に、本当に愚かですね。こんな、人の心の無い僕ですら彼女の思い悩む矛先を知って居たというのに」

「カイアは……クソ、俺だって分かってたんだ。けど、俺は所詮親のような庭師には成れねぇ、だから彼女の気持ちを受け止める度胸が無かった」

 リリネルは車椅子を移動させエリオットの肩に手を据えた。

「エリック、貴方は彼女を悩みから救ったつもりなのでしょう? それがご自身の悦楽の欲求を満たす助力になる事も同居しながら」

 エリックを拘束するように背後に回った俺は彼を適当なワイヤーで腕を拘束した。

「生きる事が苦しみを産むなら、さっさと死んで楽になった方が幸福ですよ」

 至って平常な人間とは一線を画した彼の言葉に、誰も打つ言葉を持たずにいた。けれども反旗を翻したのはラウラだった。

「お姉ちゃんは悩んでいても幸福だった! 私に好きな人の事を話すお姉ちゃんは何時だって楽しそうで、時には悩んだりしていたけどきっと乗り越えられる前向きな目をずっと持ち続けてた。アンタは、ずっと続く諦めの底で勝手に一人で死に縋ってなさい。私はアンタを認めない、今後の人生が苦難の先にある幸福を掴むための道すがらだという事を証明する為に、生きるわ」

 固着した死と言う救済のメッキ、エリックの行動の無意味さを説いたラウラの言葉はその場に居る誰にも明確にこの犯罪の正当性を否定させた。

「エリック、残念ながら貴方の信じる幸福はこんなにも少数ですらも肯定させられない事実を刻む事です。貴方はこの凍った海の中で生と言う希望を見出せないまま、静かに誰にも見つからずやがて窒息する哀れな命。そう、貴方が手放した生ですら貴方の大層な主張を存続させる為の酸素ボンベなのですよ?」

 嘲るようなリリネルの主張に、エリックは奥歯を噛みしめるのが分かった。否定の視線、俺は彼の背後に立っていたからこそ理解する。その少数ではあるが明瞭に打ち据えられた視線による否定が彼の深層にあった自らの行為の肯定を完膚なきまでに打ち砕いた。

 この圧倒的で、そして徹底的に凍った海に漂う不純物を排除する人魚は、月明りに美しく浮かび上がる程に畏怖の対象として凪いだ海に旋律を響かせた。

 光都警察が回転させる青色と赤色の混合したライトでエリックを運んで行って、数分してリリネルは何時も通り俺に電子音声を響かせる。

「何時からエリックが犯人だと?」

〈彼は宿泊者名簿にない私の姓を言い当てた時です。聞き耳を立てる姑息な者だと判断が付きました。さて、ウォルター。事件解決です。ご褒美にハグをしてあげましょう〉

「俺はアンタのハグより、寿司ってのが食いたいね」

〈もちろんお寿司も食べますよ! ウニウニ、トロトロ〉

 俺は呆れながらエントランスで両手を広げる少女の髪を撫でた。少し呆けた彼女はムッと唇をすぼめて俺に抗議の意思を表明するも、俺は続く事柄の方が重大だと彼女に問いを漏らす。

「施設へ侵入した結果の報告が未だだった」

 そうすると彼女も思い出したかのように柏手を打つ。

〈ユルゲンの記憶を覗くんでした。忘れてました〉

 互いに本筋から逸れた事柄を元に戻し俺は施設内部の画像データを彼女に送信しつつユルゲンに事情を説明して部屋へと向かう。

「本当にこれで記憶が戻ると?」

 恐らくは何者かの手によって彼の脳内は記憶障害を起こしている。それを解決する為にはリリネルの手腕が必要だった。

〈問題はありません、貴方はベッドで目を瞑っていて下さい。必要ならばラウラの手を握っていても構いません〉

「いや、それは別に必要は無いが……。まぁ、やってみよう」

 何か重大な手術をするかのようにリリネルは両手をワキワキと動かしながら俺に向いた。

〈メス〉

 そんな風に執刀の真似事をする彼女に俺はケーブルを渡す。ライン潤滑剤投入口は溶剤の投入の他にトラブルシューティングの際には技術者がラインに並列で繋ぐ事がある。今回はその手法で彼に掛かった記憶の改竄を解決するのだ。

 何故記憶の消去ではなく改竄と言う手口なのかと言うと、記憶を根本から消去するにはその人間を廃人にするほか無いのだ。記憶とは経験による裏付けであり、単一のデータではない。複合的な感情や状況を選び取って合間を補完する。例えるならば……。

『今日イチゴのケーキを食べた』

 と言う記憶に対して。

『今日(日時の規定)イチゴのケーキ(甘いという情報の補完)を食べた(行動の同定)』

 これら短文の中にも無意識に人間は過去の記憶から現在の記憶を定着させる為に、想起と想定のプロセスを現時点の状況や行動に当てはめる。すると、

『今日〇ノ月〇日、何時頃。甘くて美味しいイチゴのケーキを食べた』

 と記憶される。それが無意識下に要らない情報を切り捨てながら最小限を構成し記憶が結ばれる為に、記憶の消去はアイデンティティの消滅に等しいのだ。

 だから改竄の方が簡単で、記憶違いと言う方法によって足が付きにくい。

〈ウォルター、汗を掻いたら拭いてください〉

 そう言われて俺は彼女に向き直ってため息がてら頷いた。そしてリリネルによるユルゲンへの侵入が始まった。

 彼の身体は硬直する。そして何かをうわ言のように紡ぎ始めた。

「中央紛争によって判明したラインの弊害の内、三つのフェーズにおいてその所見が確認された。フェーズ1『乖離人格による犯罪傾向』常習的に高い濃度の潤滑剤を投与した被験者において人格の乖離およびストレス状態からの脱却の為、異常な行為を正当化する傾向有り、この時点で薬物と同様の離脱プログラムを実施する事で緩和の所見有り。フェーズ2『乖離人格による犯罪の発生』上記プログラムによって改善されない。または治療を行わない状態が続いた際に、乖離人格による主人格の乗っ取りが発生。これらで行われる犯罪においては衝動的犯罪や計画的犯罪に関するプロファイリングに合致する行動所見が現れる。フェーズ3『乖離人格による犯罪後の完全分離』犯罪後に人格の乖離が顕著になり多重人格的な所見が見られる他、主人格との統合が行われ状況への肯定的な反応が起こる。主人格との乖離が起こった場合には犯罪後に心的外傷後ストレス障害のような症状が現れ、また脊柱支伝達器具。通称ラインにおいて識別空間の差異も確認された」

 つらつらと述べ上げるユルゲンの言葉に俺は冷や汗を掻いていた。これまでの事件がまるでそれらの事柄を証明するようであり、こんな事実が本来は白日に曝されていた事に脅威を示す。そして何よりも……、リリネルが固執する空間が犯罪によって担保される事実を知ってしまった。

「以上の見解から、我々はこれを複合的な精神疾患と同質の所見が見られる事から上述の疾患をこう呼称する。『ラインズフレニア』」

 そこで彼の中に踏み入っていてリリネルが震え出した。リリネルの頭に止まっていたコルリが俺の裾を引っ張って細かく鳴き出した。

〈う、ウォルター。防壁です。私の言ったタイミングでユルゲンのケーブルを引き抜いて〉

 俺は彼女の電子音声が歪んでいる事に気付き、これが非常事態だと理解した。そしてリリネルの数える数字がゼロになった時、ユルゲンのケーブルを引き抜き彼女を彼の電脳から脱出させた。

 二人が目を覚ましたのはそれから十数分後であった。

「何とも不思議な気分だ。頭の中がスッキリしたよ」

 ユルゲンの感想とは裏腹にリリネルは顔の汗で髪を張り付けせている。

〈私の手にかかれば当然です。本気を出せばこの国の全国民に『美少女探偵マーメイドリリネル』という記憶と共に華々しい活躍という偽の記憶を刻む事ができます。まぁ、当然伝説は自分の手で刻むからその必要はありませんけど〉

 軽口を叩くリリネル、だが少し疲れているように思えた。

「リリネル、大丈夫?」

 ラウラの案じる声に同調し、俺は彼女を寝かせると言って彼等の部屋を後にする。そうしてリリネルの様子が分からないが目を伏せて押し黙っているのを覗き込むと、強がったような笑みが帰って来た。

〈さぁ、お風呂に入れてください。一日の疲れを癒すのです〉

 今日何度目かの両手を広げる動作に俺は、まだ今日が終わっていなかったのだと考えると、密度の濃い一日にどっと疲れが押し寄せる。そして、彼女の要求を今度は飲んで真正面から抱き上げると「ひゅっ」と言う細い悲鳴と共に彼女の頬が近寄った。

「自分がやれと言ったんだろう」

 そう言いながら浴室へ向かい湯を貯めて後は車椅子に任せようと、変形して主の生まれたままの身体を優しく研磨し始めた所で出て行こうとするとリリネルが俺の袖を引っ張る。

〈怖い夢を見た時、クラリスはよく私の傍にずっと付いていてくれました〉

「怖い夢見たのか?」

〈はい〉

「どんな夢だ?」

〈貴方が居なくなってしまう夢〉

 俺は振り返ろうとして、彼女が裸である事を考えてそうせずに何を返そうかと思案する。それが彼女にとって自分の命が消えるよりも、怖い事なのか。

「心配するな。王の一手がお前の処遇を決めるまでは一緒にいてやる」

〈もし、私のことが許された時は、貴方はどうするのです?〉

「アイズマンを探す」

〈もし、それが私の望みでもあると分かったら……〉

「ガキの御守は御免だ」

〈ガキではありません、もう十四歳です。将来はナイスバディのレディになるんですから〉

「怖い夢見て一人で風呂に入れない奴が言うセリフかよ」

〈親愛の証です。むしろ喜んで受け取ってくれる物かと〉

「それは俺以外の変態に頼めよ」

〈貴方が良いのです〉

「どうして俺なんだ……」

〈お人好しな貴方の性格が悪いんです〉

「我儘だな」

〈えぇ、そうですね〉

 車椅子がぎこちない手つきで彼女の髪を梳き、綺麗に身体を洗った所でリリネルを担いで俺の背を通り過ぎる。俺は自分の番だとシャワーで疲れを洗い流した。

 そうしてキングサイズのベッドに寝かされたリリネルがこちらを恨めし気に睨んでいるから、仕方なく隣に寝てやると安心した様子で微笑みを返した。

〈いい夢が見られそうです〉

「そいつは良かった」

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