〈一つ、絶対に人を殺さない事。二つ、無理をしない事。三つ、お使いも忘れない事〉

 俺は夜闇を彼女からの約束を鼻で笑いながら駆けていた。あの日ミハエル中佐と落ち合い、彼に俺が願ったのはアルフィニア軍の基地への侵入だった。無論口を開けてノーを放り出していた彼であったが、これ以上軍の帰還兵に被害者を産むのはアルフィニアにとっても不利益だろうと交渉したら、精々協力出来て見取り図位であるというからそれを貰い受けたのだ。

 加えて中央紛争時における第十八師団の作戦指揮にまつわるデータの有無を訊ねたら、それらは紙媒体にて記録されており電子的には残していないという回答が帰ってきた。

『君ならばハッキングとか、出来るのではないかね?』

 そう笑いながら訊ねた中佐はリリネルの、〈試した結果見当たらなかったので〉という言葉に阿鼻叫喚としていた。

 リリネルはこの国に対しての協力者としてミハエル中佐を信用すると言って、彼女の身体の事情を打ち明けた為に前述の会話と発展したのだが、俺は未だに軍関係者とは心情的には折り合いが悪い。

 とは言え……。

 探照灯が過ぎ去った段階で壁に手を掛け、勢いを付けて登っていく。

 警備の穴を突く為にリリネルは偽の配置情報を兵士一人一人に配布し、それによって生まれた十分が俺に与えられた時間だった。

 壁から芝生の上に転がって哨戒していた単独の兵士の首に手刀を叩きいれる。彼を物陰に寝かせてブロック型の施設の扉をリリネルが解除した。

〈ここから先は別行動よ〉

 なんて事を言うが、最初から彼女はホテルの一室で後方支援中だ。

 機密情報保管所へは直通で進む事は出来ない。高速エレベーターにて地下百メートルまで向かう必要があり、此処が唯一の侵入方法で他の排気装置などは俺が微粒子レベルにならなければ通過出来ない設計となっていた。

 リリネルによる配置の改竄。そして監視カメラ映像の固定。人感センサーの三十秒間の停止。それら全てが寸分の狂いも無く行われた。

 俺はリリネルが眼前の扉を遅延無く解錠して開く様子を想像するに、電脳の海を泳いだ人魚が財宝へ向かう洞穴の岩礁を除けて案内するかのような、そんな安心感を抱きながらも進んで行った。

 故に機密情報保管所へ向かう廊下を駆け抜けても警報の一つも鳴らなかった。

 コツコツと金属の床を叩く俺の足は分厚い鉄板に窪んだ取っ手の付いた壁面保管場所から、彼女の指定した棚を引っ張り出す。

 グッと力を込めると自然にレールの上を棚が転がって中にある資料を表す。

 と思っていた。

「何だこれは」

 そこに有ったのは物理補助具。だが一般的な物ではなくアイコンダクターと言われる軍事用品である。これは随分と旧世代の物で俺も馴染みがあった。

「君たちが欲しがっているのはこれだろう?」

 声、俺は咄嗟に腕に格納した刀を取り出してその方向へ振り返った。そこに居たのは第三知覚で面相をぼかした男だった。

「誰だお前は」

 俺は出来るだけ平静を装う。その男はアルフィニア軍の正式装備の恰好をしているが小銃などの装備が見当たらない。恐らくは見掛けだけを偽る為に身に付けたのだろう。ではなぜ? 何故彼は俺が欲している物を知っているのだろう。

「この声を聴いても思い出せないなんて、王の一手の記憶改竄技術は本当に、忌々しいね」

 男はファイル一式を俺の前に放り投げる。そして資料棚に背を預けると心底失望したとでも言うように肩を竦めた。

「トルネシア北自治区インメタリーフェノーで君と共に過ごし共に血を流した者達」

 俺の記憶の中に血痕がボトリと流れ出す。しかし、それは血痕ではなく、俺が不意に流した涙だった。

「あの場にいた子供達は君の帰りを待っているんだよウォルター」

「何なんだお前は!」

 俺は腕を振って彼に乱雑な手刀を繰り出す。それを軽快な身のこなしで回避した男は最後に告げた。

「僕の名はジョン。僕に近付きそして、アイズマンの事を知りたかったら調べる事だ。『ラインズフレニア』という言葉を」

 そう宣言した後に彼は駆け出した。俺はファイルを手に取るとジョンを追いかける。しかし、一台しか存在しないエレベーターは音を立てて昇っていった。

 クソッ! 自身を叱責しながらも再度エレベーターが来るのを待つ。

〈ウォルター、兵士が数名そちらに向かったわ。作戦は失敗よ〉

 いいや成功だリリネル。それ以外は許されない。

 俺はあのクソッタレの残したアイコンダクターを装着する。この感覚、懐かしい。両目に照射された人工光が俺の毛細血管を刺激する。そして脳にラインを通じて眼前のオブジェクトに対して様々な戦闘時スケールを表示した。

 俺は常々アイコンダクターの事を、余計なお節介を焼いてくるつまらない物という認識だった。けれどもこの廊下、何の特色も無い暗い廊下においてはコレの示す選択肢は有用だった。

 俺は天井に張り付いて兵士が来るのを待った。エレベーターが開いて四名の兵士が異常を検知したこの施設に入り込んできた。

「リリネル。警備システム復旧まで後何秒残っている」

〈百八十秒よ〉

 エレベーターの昇降には三十秒掛かる。二分半……、ハッ、十分だ。

 俺は一人目と二人目の間に着地して手の平で二人目の喉を打った。思わず仰け反って三、四人目に肩を抑えられた隙に俺は一人目が振り返った股下を潜って背中に取り付く。

 一斉に銃口が一人目に向く。

「待って!」

 そう宣言する名も知らない兵士とは裏腹に、トリガーを引いた瞬間に放たれたのは非殺傷性のテーザーだった。俺への電圧の流動が自身を害するか分からなかったが、彼の背を蹴って資料室の扉を足場に両足の力を込めた。

 電圧によって倒れた仲間を気遣う暇も与えず、俺は突貫する。そこに来て小銃の利用を決めた者が明け色のマズルフラッシュを湛えて5.56㎜弾を発射した。アイコンダクターの訴える脅威に俺の心臓の血が湧きたった。

 この感覚、銃口から導く弾道を先読みし、眼前に俺が現れた時に抱いた敵の恐怖! 俺は腕から刀を伸ばして一閃で振り払おうと考える。

〈一つ、人を殺さない事〉

 咄嗟に床を蹴って膝で二回目の顎付きを食らった者は昏倒する。後二人。並んでアホ面下げた右側の兵士の首を両の太ももで圧迫して気絶を促す。彼を寝かせ、ゆっくりと地面に付いた足、俺の動きを追従するように放たれた弾丸の軌跡は既に芯を捉える余裕はない。

 相手は近接戦闘を予期してナイフを取り出した。けれども俺の放った峰内の方が早い。

 頃合いのように閉まろうとしていたエレベーター、俺は駆け込んで上階を目指す。後四十秒、そして扉が開いた瞬間に駆け出す。残り十秒というタイミングで俺は芝生の上を全力疾走して壁に向かって一直線に駆けた。

 その頂点を乗り越えようとした時、俺は壁の上に立ったジョンの姿を捉える。あの野郎は俺を待っていやがった。ふざけやがって、と俺は彼の方へと足を向けて夜闇の追いかけっこが始まった。

「なんだ、誰も殺さなかったのかい!」

 彼はグラップルガンを用いて曲線状の動きで俺を置いていく。両腕から刀を出して、それを使って壁を登りながらアパートメントの屋上からジョンを追った。せめてアイズマンの居場所だけでも聞き出せば、俺はこの任務を終えて…………、終えて?

 リリネルの処断を行った後に、俺はアイズマンを探す? 否、けれども王の一手が俺に示した報酬はアイズマンの情報だった。それが叶うかなんて知らない。現状彼の情報を握る人物は王の一手とジョン、そして彼の情報を求めるのは俺とリリネル、それからフィーネも勘定に入れよう。

 ならば、そこに掛かるリスクを考えた。例えば俺がリリネルを殺したとして王の一手が素直に情報をくれるだろうか。それならここでジョンを縛り上げて情報を引き出し、尚且つそれを元にリリネルを何時でも殺せる状況を作れば王の一手との交渉材料に出来るのではないだろうか?

「悩んでるね! 僕を捕まえれば君の欲しい情報は全部手に入るよ」

 俺の脳内を見透かすような言葉に、扁平な屋上を蹴って彼に刀を振り下ろす。しかし、直前で彼の顔が見知らぬ男の恐怖に歪んだ物に変容すると、俺の手は寸での所で止まる。

 ジョンはガイドライトの示す磁力推進車の軌道の描く青を見初めて俺に対面する。

「君は変った……。僕の欲する君はこんなんじゃない筈だ」

 そう言うと彼は屋上から飛び、グラップルガンで落下速度を調整しながらトラックの上に着地する。遅れてアパートの壁面に切っ先を立ててジャンプした俺に向かってジョンは、液体貨物車のタンクを叩いた。そこに亀裂が生じて飛び出した赤い液体に俺は塗れるのだ。

「じゃあねウォルター、ちゃんと思い出して、僕の事を」

 液体に押されてアパートのベランダに転がった俺は過ぎゆく彼を睨んで奥歯を噛んだ。

 


 中央紛争時、一人の少年兵によってアルフィニアの小隊がまるまる一つ壊滅した。当時の報告書の中には明確な記載は控えられているが、全員が喉を裂かれて死亡している事から黒鎌(リーパー)という異名を与えられた。だが、彼を保護したアイズマンが当初抱いた感想は大きく違っており、子供達からはまるで親のように慕われていた。

 この二つの乖離した真実、そのうち彼が秘めているのは何方だろうか。私にはまだその確証は無かった。けれども、彼が約束を違えるとは思えないのだ。だって、あの人に似ているんだから。

 私はホテルの一室でそわそわと両手を摩っていた。アルフィニア軍の施設という巨大な岩礁から抜け、電脳の海の凪に身体を任せて彼が来るのを待った。

 そして、ウォルターが扉を開けて部屋に踏み入るのに合わせて私は車椅子の向きを変える。それで見やった彼の姿を見て私は愕然とした。そして失望と怒りの両面が私に叱責の文句を紡がせるのだ。

〈私の、言葉を守らなかったのですね!〉

 彼は赤い液体に塗れてそれを滴らせてこちらに歩いてくる。恐怖は無かった別に彼にならいつ殺されても良い。そう思っていたから、だけど違う。約束を守ってくれなかった事が何よりも、何よりも悔しくて仕方ないのだ。

 どうして私は彼に固執しているのか分からない。だけど!

「何言ってんだアンタ」

 ウォルターは私に寄る。赤が私の着物を汚す。彼は何か納得したようにアイコンダクターを外して、暫時煌めく光線退色を示す赤を輝かせた後に、何を思ったか私の指先を取って頬に付着した赤い液体を指で拭わせて自分の口に含んだ。

「はうっ????」

 困惑と共に彼は私の指を舐り終えると腰を上げた。

「散々飲まされて、俺嫌いなんだよな、これ……」

 私は当惑のままに自分の着物に落ちた赤の液体を指を使って舐めた。

〈トマト、ジュース?〉

 大きく背を伸ばしたウォルター、そして彼はスーツと素肌の間に仕舞ったファイルを机に置いて言う。

「シャワーを浴びるぞ」

 その段になって、私はとんでもない勘違いを起こしている事に気付いて、頬が羞恥で染まる。こんな事に気付かないなんて! 私のバカバカバカ! だって、だってウォルターが遅いから心配だったんだもの、仕方ないわ!

 そうよ、私じゃなくって落ち度はウォルターが私を心配させたせいだもん。

 だから、私には嫌味を言う権利がある。

〈じゃあ、ご一緒〉

「一緒に入るか? 冗談だよ、そんな顔するな」

 私は鏡に映った自分の紅潮した頬を見据えて顔を覆った。

 もう! 何なのよ!

 ――――とは言え。私は咳ばらいをして気を取り直す。

 ファイルは整った。

 ウォルターがシャワーを終えて、昇って来た朝陽を見定めた瞬間に私は第四の犯行は今日起こるだろうと予見した。

〈さて、向かいますか。ウォルター〉

「寝なくて良いのか?」

〈ショートスリーパーなので、一日に十分程度の分眠すやすやで十二分に思考が働くんですよ?〉

「ペンギンかよ」

〈その代わり休日は十時間以上ぶっ通しで眠れます!〉

「ワーカーホリックが……」

 そう断言する彼は私の車椅子を押してホテルからある場所へと向かった。そんな折、ある人物から電脳への招待が届いた。

〈では、おやすみなさいウォルター〉

「あぁ、位置情報だけは表示しとけよ」


 彼の声が遠ざかり、私は深海の中に案内される。主である私を歓迎する電脳、ここでは私は誰よりも自由だ。

「リーネちゃん、ごめんね。こんな時に」

〈いいえ、問題ありません。それにそちらも災難でしたね〉

「うん、けどジェイデンも目を覚ましてちゃんと復帰したよ。本当に手のかかる後輩だよ」

 眼前に据えられたテーブルにはチェス盤が置かれており対面するフィーネは濃紺の瞳と同じ色のドレスを纏って私を待っていた。

 彼女の視線には決意を感じ、私はそのテーブルの前に付く。

〈お茶会に御呼ばれした。という訳では無いのでしょうね〉

「そうだね。私はやっぱりリーネちゃんと先輩が一緒に居る事は認められない。彼が中央紛争時にどんな事をしたか。知ってる?」

 やはり、彼という存在を紐解くには、八年前に起こり一年半で三十万人の死傷者を出した戦争を遡らねばならないだろう。

〈トルネシア北自治区で少年兵とし従軍した記録でしょう? 私もその事については知り得ています〉

「だったら!」

 彼女は両手をテーブルに付いて焦りを露わにした。けれども私にとってそんな事は些細な事なのだ。

〈フィーネ。ウォルターは貴方の考えているような人間ではないのよ。それにね。私達は利害関係で共に居る。それを妨げられると思うのは満ち足りた貴女の幻想よ〉

 私の吐き出した性格の悪い言葉に彼女は一瞬怯むが、それで決意が歪む事は無かった。

「だったら、この勝負に私が勝ったら彼から離れて」

 チェスの盤面に出現した三十二個の駒たち。

〈勝利条件は、先にこの事件を解決した方。良いですか?〉

 これは単なるチェスの勝負ではない。互いに有効な手札を開示しあい、それが犯人に結び付いた瞬間がチェックメイトだ。

 まず初手を飾ったのは私の白のポーンだった。

〈犯人の職業は?〉

 回答するフィーネは対するポーンを提示した。

「医師。それも軍医ね」

 彼女の言葉の裏付けをするように、私は中央紛争時における被害者の所属部隊について情報を提示する。

〈さて、中央紛争時に彼等の所属していた部隊はどこか〉

 次なる一手に彼女は明瞭に対する手合いを講じる。

「第十八師団、第二歩兵分隊」

〈それは何故?〉

「被害者の自宅に残された電脳都市景観にある花の栽培地が表示されていた。キネアフィデラ。トルネシア原産のユリ科の植物で周辺を高い山に囲まれた位置に群生する事から通称『高山の白化粧』と呼び称された。そしてその花を栽培している町は東部地域に限定されている」

〈成る程、それが部隊特定の証左という訳ね〉

 一手一手酌み交わされる情報の盤面、互いの心証を確かめるような所作の中に彼女の想いが募っていった。ポーンが隣合いそれが私達の行き先の違いのように示される。

「リーネちゃん。貴女は何故彼と行動を共にするの?」

 少女から放たれた疑問に私は口角を上げて相対する。

〈私の望んだ死神だからよ〉

 悲痛を秘めたフィーネの表情と共に意思の強さを触発した。

「まだ序盤戦。必ず私は貴女の考えを変える」

〈望むところです〉

 さて、被害者の所属部隊が判明したことである程度の予見が成り立つのだ。私がウォルターに望んだ資料は第十八師団の細かな行動分布と共に、そこで行われた作戦の詳細であった。後、最もこの資料の中で有力だったのは隠匿された事件である。

〈貴女は何故犯人が医師であると?〉

 私の疑問にフィーネは憎々し気に眉を顰めた。

「被害者宅から回収されたスナッフビデオの中には殺人現場の様子を示した物と共に司法解剖によって同じような状況。つまりはお腹を裂かれたりした遺体が出て来た。その顕著な特徴としては、殺人のプロは解剖のプロではない事。腹部を裂く際に脂肪を超えて小腸や大腸を摘出する際に生じる内臓への被害。それは圧倒的に殺人者の傾向と類似していた」

〈ふむ、では解剖のプロによる割腹は内臓へのダメージが少なかったという見解ですか〉

「そうね、特に戦地に赴く医師の執刀経験は短期間で多くの場数を熟す事がある。中央紛争という地獄ではそれは恐らく凄まじい件数だった」

 私は成る程、と感心した。私が遺体を見た時に感じた違和感はそこだったのか。内臓を取り出すというグロテスクな見た目に反した解剖学的に凛然とした所作が、その死体の中に存在していたのだ。

〈ならば、犯人はどうして被害者を選定し殺害に至ったのでしょう〉

「それが軍の隠匿している過去と付随している。初め、被害者に共通している項目として彼等には逮捕歴があった。一件目の被害者は強盗、二件目は違法ライン潤滑剤の売買。そして三件目は少年や少女に対する性的暴行。それらの粛清の為に動いているとも思えたけど、同時に彼等の共通点としては皆PTSDに苦しんでいた事よ」

 中央紛争の帰還兵には戦後のPTSDに苦しむ者が多く。その割合は六割という驚愕の数字を叩き出した。

〈それが犯人の直接的な動機と繋がっていると貴女は考えるのね?〉

「一端となったのは間違いが無い筈。中央紛争終結後に行われた軍事法廷の認知件数は東西戦争の五倍にも上っていた。そして今も尚闇に葬られたとされている事件がある」

 ラインの登場によって兵士の管理が容易にはなった。けれども心身に伴う影響というのがこの紛争によってケーススタディが完成した程に、この当時におけるラインの影響は不透明だった。

〈ブックマンレポート。戦後審判と現地調査を行った第三者機関のレポートの中には、特にラインが先行投入された第二歩兵部隊の犯罪行為について記述された項目が多くあった〉

 盤面の色合いが移り変わる。私は彼女の手が優勢である事をナイトが落とされ始めた事によって自覚する。

「第二歩兵部隊のレポートには黒塗りの部分が多く。凡そ国家の恥ずべき行為が羅列してあったと評論家は予想している。リーネちゃんは遺体の顔を覚えている? 皆、自分の害された部分を確認するように目が見開かれていた」

 首を絞められ、喉を裂かれ、内臓を引き摺り出された。その死体のどれにも共通していたのは、その光景を目に焼き付けるようにして彼等の眼球が固定されていた事だ。

「お前の行為を見ているぞ。私にはこう捉えられた。そしてブックマンレポートの執筆以前に現地に赴いたのはアルフィニア軍の軍医だった」

 私は犯人の見た光景を想像した。白く美しい花畑の有る街の中を彼は歩きながら、その町の惨状を目にした。縊り殺され、または凌辱されて死んでいる者達。夥しいまでの血液の海の中に没した花々は赤く染まり彼の心象を裏付けるきっかけとなった。

〈当時、トルネシア東部の町セリスポリで起こった惨劇。軍事法廷に立たされたとある小隊の所業に注目が集まった。けれど、彼等は皆心神喪失状態にあったとされ罪に問われる事は無かった〉

「そう、そしてその内小隊を指揮していた曹長が未だ生きている」

 私の喉元まで迫る彼女の手札の多さに私は驚いた。単なる情報の開示の場と考えていた私にとってフィーネが本当に私の事を案じている証左が手の内になって現れている。彼女はこの勝負に勝つつもりだ。

「私のナイトが彼の元へ向かっている。その内にクイーン(私)はキング(貴女)を獲る」

 明瞭に刻まれたチェックメイトの宣言に私は彼女を見つめた。濃紺のドレスをはためかせる少女の右腕、まるで金色のオペラグローブを纏い放たれる光彩が、私の前に純然たる敗北を刻み付けるのだ。

 フィーネは私の思っている以上に賢く、そして強くなったのね。

 いいえ、違う。あの日、私を引っ張り上げた時からずっと、ずっと貴女は強かった。

 けど……。

 ならどうして。

〈貴女は私の前から居なくなったの?〉

 私の感情の発露に彼女は双眸の濃紺を悲哀に染めた。深海の外形が崩される。それはある一室を映し出していた。


「イワン・サンチャスさん。これが事件の真相ですね?」

 口を開いて宣言する私。その目に映し出されたのは痩せた四十代の医師だった。彼は胡乱とした目を下に向けて頷く。くたびれたワイシャツ姿であり医師と言われてもピンとこない。白一色に染まったこの部屋において木製のチェストの上に置かれた家族の写真だけが、唯一彼の人間性を示すものとなっていた。

 その乾いた唇が開く。

「私は、あの地獄で何が起こったか。解き明かそうとした。けれど、それを望んでいたのは私だけだった。家族も友人も皆、終わった戦争の話等どうでも良かったんだ」

 孤独な男の独白が寂しい部屋に響いた。

「さて、ではこの場は警察にお任せしましょう」

 私は電脳空間と統合された場に居るフィーネに目配せする。彼女は悔しさを噛みしめながらも誰かに連絡を取っていた。その数分してやって来た頭に包帯を巻いたジェイデンによってイワンは拘束される。

『試合に勝って、勝負に負けた……か。完敗だね』

 私は彼女の言葉を否定する。

〈彼を説き伏せた証拠の数々は、フィーネが開示した捜査の丸写しよ〉

『えっ! それって……ズルだよね?』

 私は眠そうな顔をするウォルターに目配せをして車椅子を押させる。この会話は彼等には聞こえていない。飽くまでも私とフィーネの後日談だ。

〈そう。ズル。けれど、貴女は最初っから圧倒的に不利な状況にも関わらず、犯人を特定する手掛かりを矛盾なく看破した。純粋な捜査能力で言えば貴女に軍配が上がるのよ〉

『だけど、結局私は負けた。それが全てだよ』

〈だって、ズルをしてでも勝ちたかったんだもん〉

 そう言うと彼女は何かを思い出したかのように上を向く。

『そう言えばリーネちゃんって、自分の好きなおやつの時私に黙って何かに理由を付けて自分で独り占めとかしてたっけ、うわ。思い出したぁ……』

〈ふふ、そんな事もありましたね〉

『じゃあ、彼は譲れない存在って事?』

 私は彼女の表情が悪戯っぽい笑みに変わったから目を逸らすのだ。

『図星、か。そっか、今のリーネちゃんは一人じゃないんだね。安心した』

〈心配、していてくれたんですか?〉

『当たり前でしょ! 王の一手に居る時もずっと手紙出してた。まぁ、今思えば多分検閲に引っ掛かって一通たりとも届いてなかったんだろうけど……』

 おっちょこちょいな所は今も変わってない。そうか。私が怖がっていただけなんだ。忘れられたと思い込んでいただけなんだ。

 彼女は電脳空間から去っていく。その後ろ姿に哀愁は無かった。だって、離れていてもきっと私達は友達だってたった今気付いたんだから……。

「事件解決して、嬉しそうだな」

 欠伸をするウォルターに向かって私はどや顔をした。

〈当然です。なんたって私は最強の名探偵リリネル・フロンターゼなのですから〉

「理由になってない、な」

〈お互いひと眠りしたら、一緒にヒーローアニメを観ましょ、貴方のおすすめが知りたいから〉

「無料視聴期間は終わった。お陰様で」

〈全くもう。フロンターゼ探偵事務所の福利厚生にはサブスク加入のオプションもあるんですよ? どんなアニメも映画も見放題!〉

ウォルターは思わず視線を私に降ろす。

「――ほんとうか?」

〈えぇ、なんならポップコーンも付けちゃいます。どうです? 入りたくなりました?〉

「…………少しだけな」

 うつらうつらする彼と私はホテルへと戻った。こうしてジュレミントンで起こった連続殺人事件は幕を閉じる。



 薄暗い一室には怯える男がいた。ジュレミントン南部の町の或る一室に、僕と彼は同じ空間の中に共存していた。

「お、お前、お前はなんだ! 何者なんだ!」

 叫んだ体格の良い男は、瘦せっぽちの僕の顔に慄き這いずり回った。しかし、僕が口を開くと彼は大人しくなる。

「僕はね、君の心を映す鏡なんだ。君が戦後にどれ程平和を望んだとしても僕の前では真実のみが写し出される」

 彼の前に僕は顔を突き出した。そこにはきっと多くの人間の表情が写っているだろう。果たして、それは苦痛に歪んでいる顔だろうか。それともある種の喜びだろうか。僕には分からない。

 だってこの心象は彼が思い描く他者への理解だから。

「何笑ってんだよ! 仕方なかったんだよ! あの当時、ラインを使った連中はみんなおかしかった。頭がどうかしてたんだよ……。俺だって!」

 それが正当化されるだなんて思っていないだろう。

「僕は君の鏡だ。本当の君はずっと後悔なんてしていなかったんだろう? こんな狭くて安いボロアパートの中で暮らしながら思ったはずだ。どうして俺がこんな所で落ちぶれてなければならないんだ。と」

「そんな事はっ」

 無いと言い切る事なんて彼には出来ない。

「もう良いじゃないか。君は十分に抗った。堪え切れない暴力衝動、遍く支配感情。そこから得られる得難い快楽。君は全てに逆らい続けた」

 男は顔を上げた。けれども僕は彼に許しを与えた訳では無い。単なる試しの手札を切ったのだ。

「僕は君の鏡だ。君はその罪を許してはくれたのかな?」

 ゆっくりと振り返る。僕の顔に刻まれた誰かは一体どんな風に見えるのだろう?

 彼の顔がゆっくりと驚愕の色に染めて、拒否を示すように左右に振られる。禿げた金髪の容姿が醜く変容して、そして。無に変わった。

 僕はそれだけを見届けてから彼の部屋を後にした。

 翌朝、高層ビルの隙間から頭だけを出して倒れている男性が発見された。

 彼は自殺でもしたのだろうか。

 やはり、花は咲かなかった。

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