リニアモーターカーはトルネシア南自治区のターミナルへと辿り着く。この施設はアルフィニアが主導で建設を行っている為に、そのデザインも正に向こう側と対になるように設計が成されている。

 その外観は大樹の切り株を彷彿とさせる様相をしており、数百本もの柱によって堅牢な造りとデザイン性を兼ね備えた構造で、車窓から見ると季節折々の第三知覚を提供してくれる。

「初運行が血塗られた惨事に穢されてしまったが、君たちのお陰で早々に火種を潰す事が出来た。トルネシア警察隊の代わりに礼を言う」

 ミハエルは俺とそれから今回の主役に対して首を垂れた。正直俺は全く何もしていないどころか的外れの推理を思考していた為に彼の礼を真正面から受けるのは憚られた。

〈いえいえ、また難解な事件が起きましたら是非フロンターゼ探偵事務所へご連絡くださいね♪〉

 リリネルの気楽な言い様に俺は顔を顰めた。容疑者はこれから犯行の理由についてアルフィニアへと移送された後にアルフィニアの刑法によって裁かれる。わざわざ自治区までやって来たリニアモータ―カーの復路は、結局殺人犯を乗せた状態で出発するのだろう。

 全く、中央紛争が終結したというのに未だにこの国は些細な事で血を流している。

 俺は自らの手を見据えていた。しかし不意にリリネルに袖を引っ張られて我に返った。

〈ぼーっとしていないでさっさと車椅子を押していただける?〉

 彼女は俺の方を向いて不気味な笑みを浮かべるから、そこから視線を離して背に回ってゆっくりと車輪を押し出した。

 トルネシア南自治区、皇居とみなされている敷地を分割している為に今やトルネシアは小さめの市程度の広さしかなく、住民も帝国の政変以前からこの土地に住まうフィリポノイドという肌の白く髪の色素が薄い者達が住んでおり、彼女もここの生まれなのだという。

〈ウォルターは見るからに旭国の血が入っているのね。もしかしたら祖先はそちらの人なのかしら〉

「知るか。俺は両親の顔すら分からないんだ」

 気付いた頃には俺は戦場に居た。それからアイズマンに保護されてからは王の一手の施設で育った。

〈その赤い瞳、光線退色特有の虹彩異常。アイコンダクターを長時間使用した兵士に起こる症状であり中央紛争時には若年層によく見られた〉

「よくしゃべる女だ」

 彼女は車椅子の上に膝立ちになってこちらを見やった。白い髪が揺れると否応なしに香るラベンダー系の精油が鼻を攫った。

〈あら、無口な貴方との対比で良く出来ているコンビだと思うのだけど?〉

「勝手にコンビ認定するな」

 楽しそうに頬杖を付いて俺を覗き込むリリネルを無視して彼女の自宅である郊外の森へと足を向けた。小さな市と言っても歩けば一日は余裕で浪費できる面積があるほか、彼女の自宅は舗装されていない道を長時間歩くから俺は流石にへとへとになっていた。

 目的地は一軒家であり近代の建築様式を思わせる白を基調とした外壁の平屋に、ガラス張りのリビングと、丁寧に整えられた花壇と芝生の映える外観を見せる。全く自分よりも年下の少女がこんなにも立派な家に住む等恐ろしい事だ。

 そんな暫時浮かんだ感慨を捨て、俺は入口まで彼女を送る。

「俺は近くのホテルに泊まる」

〈あら? この近辺にそんなものは無いわよ? 元皇帝の居城を使った豪華なホテルは確かにあるけれど、そこに泊まるには少なくとも一泊二十万共通円が必要になるわね〉

 口を閉じた俺は頭の中であらゆる叱責の単語を考えてから、小さく言う。

「なら野宿する」

〈この辺は熊が出るのよ? しかもめっちゃ大きいのよ!〉

 両手を仰ぐように振るうリリネル。

「クソっ!」

 思わず漏れた暴言にリリネルは扉の鍵を着物の袖から引っ張り出してガチャリと開けた。

〈安心してください! 最初から泊まる事を想定していたのです〉

 そんな風に玄関に入って両手を広げるリリネルのどや顔に俺はむしゃくしゃしたが、背に腹は代えられないとばかりに玄関の戸を勢いよく閉めた。その音に反応するようにキッチンとなっているスペースの奥から顔を出した少女は俺達を壁から覗き込んだ。

「うわっ、びっくりした。なんだリリネル帰ってたの?」

 銀の短髪とタンクトップの腹だしルック、ボトムの緩い作業ズボンをベルトで止めた少女の瞳は薄青く、この辺に住む者の特徴を表していた。

〈ただいまクラリス。紹介するわ。この人はウォルター・アイズマン、私の相棒よ〉

「俺はそんなんじゃない」

 ぶっきらぼうに断言する俺をクラリスは酷く不快そうに口を閉じて見据えた。

「私はクラリス・クラリネット。この子の世話人。アイズマン? ふざけてんの?」

 そう言うと握手を求めるでもなく彼女はリリネルの車椅子を押してリビングへと向かった。全く何故俺がこんな目に、と嘆息しつつも彼女等の後を追うが早速違和感が頭の中に駆け抜けるのだ。

 この空間は何だかおかしい。そのおかしさというのは自分が数年間閉じ込められてきたあの独房のような感覚に近かった。

〈好きな場所に掛けて、さぁクラリス貴女ご自慢のコーヒーを人数分淹れてくれる?〉

 肩を竦めて彼女はキッチンへと向かった。すれ違い様にこちらを睨むのを忘れていない所が、全くの信用の無さを物語っていた。

〈ごめんなさい。これまで二人っきりで過ごしてきたから少し人見知りなの。けど本当はすっごく可愛いのよ?〉

 目を細めるリリネルと、キッチンから「余計な事言うな」と釘を刺すクラリス。余計に情報過多で分からなくなった俺は本懐である自らの使命について考えた。

 王の一手はこの十四歳の少女を何故脅威だと考えているのだろうか。それは彼女の目的と関係があり、彼女の現状とも何か接点があるのだろうか。そしてこの違和感は何なのだろう。

〈妙な感覚かしら?〉

「あぁ」

 不意に口を衝いた同意に俺は驚いた。けれどもきっとこれは此処に来る者にとって共通の疑問なのだろう。周囲を見渡した事でようやくその理由について判明する。

「何故この空間には第三知覚が存在しない」

 そう、彼女の住む家の敷地内に入ってから、第三知覚は成りを顰め目に見えるモノが実体として存在する空間に放り込まれたのだ。これが普通だったのは凡そ半世紀程前の事で、東西戦争が終わってからはラインによる第三知覚が物を見るという主流に変遷していった。

〈そうね。まず貴方に説明しなければならない事があるの。私は一度情報被爆を引き起こしている〉

 微笑みを象った少女の言葉に俺は即座に否定の言を担う。

「有り得ない」

 彼女が情報被爆を受けた事が有り得ないと言っているのではない。受けて尚正常に生活が出来ている事が有り得ないのだ。

〈普通はそう思うでしょう。けれど本当〉

 俺は脳内で情報被爆とは何かを再確認する。ラインや第三知覚と言った技術が登場して以降、問題が表出する。物理的な問題としてサーバーの確保であろう。個人がPCの演算処理を代行する事は可能になったが、大本を司るデータが全てサーバーという単位に集約されると、必然として維持するためのコストが莫大に跳ね上がった。

 これは近年までそれを続けていたならば天文学的な数字になるだろうと試算されており、『既存の技術』が如何に成功を収めたかという点を象徴するように語られる。

 そして、その技術こそが『テティスの箱舟』である。

 その施設は海洋上に建造され電制液化記憶流体によって満たされ、囲われた海がこの世界にもう一つの世界を作り出した。

 この星はその七割が水で出来ていると言われており、持て余す広大な海に情報を流し込めば半永久的に拡張できるサーバーが完成する。なんてイカれた考えが実現されてしまったのだ。

 この試みが始まって直ぐにある事件が起きた。これが情報被爆と言い、テティスの箱舟の中に男性作業員が落下するという事故が発生した。一命を取り留めた作業員の男がその後どうなったのか。

 これはまるで都市伝説のように末路を改変されて伝えられているが、そのどれにも共通しているのが、廃人となり行方不明になったという部分である。

「情報の海に落とされて普通に生活出来ている訳が無い」

 俺の言葉にリリネルは悲しそうな顔をして車椅子をこちらに近付けた。

〈これが普通に生活しているように見えますか?〉

 彼女は白のハイソックスを脱いで白い肌に包まれた足を見せた。そこに浮かんでいるのは幾何学模様のインプラント回路であり、軟骨部分に接合する事で電気信号を末端部分に送り込む作用がある。

〈私の身体には何か所も脳内の電気信号を制御するラインと同じ機構が埋め込まれていて、それが無ければこの身体は意図しない動きを誘発してしまうのです〉

「車椅子なのは何故だ」

「リリネルはインライン手術を受けた唯一の人間だからだよ」

 俺の質問に答えたのはクラリスだった。

 また有り得ないという言葉を準備しようと試みたが、リリネルは白く淡雪のような髪を退かすと着物を肩まで下げる。クラリスはその所作を見て急いでそれを止めようとするが、俺は首の付け根と脊柱の浮かぶ辺りに、埋め込み式のライン潤滑剤投入口が複数あるのを視認してしまった。

「リリネル、男に簡単に肌を見せるもんじゃないよ。こんなどこの馬の骨かも分からない相手には猶の事ね」

〈あら、彼は私の相棒になるのだから、これくらいのサービスショットは許容範囲だと思うわ?〉

 勝手に論理を展開する彼女の事は置いておき、俺はリリネルの来歴を洗い直していた。

「情報被爆を受けた少女が、今度はインライン手術の成功者だと……? 余りにも出来過ぎている」

 俺や、その他大勢のラインを搭載している者は背中の一部を開いて脊柱に沿うようにインプラント回路を埋め込む。その手術は普通一時間程度で終わり術後の傷も小さく二センチ程度のライン潤滑剤投入口を残せば、全く無傷で終える事が出来る。これを本来『アウトライン』と呼び、ラインの構想当初に存在した『インライン』よりも性能では劣るが簡単で危険性が少ない為に実用化された。

「それしかリリネルが普通に生きる術が無かったのよ。とはいえ私も直接目にした訳じゃないけど、技術者(エンジニア)としては彼女の身体には興味がある」

〈あら♪〉

 お茶目に振舞う彼女とは裏腹にクラリスは真剣な目をしていた。

「インライン手術は脊柱支の内側に回路を通す荒業で、成功例は一例も無い。そもそも第三知覚は便利な代物だけどインライン手術をしてまで情報と繋がる意味が分からない。だからリリネルに施されている物は情報被爆という状況無しには語れないの」

 目の前に差し出されたブラックコーヒーを一口、芳醇な北部原産の豆が丁度頃合いの湯で花開き、そして味わい深い酸味と油の口触りが舌に流れた。

 思考の整理にはうってつけで、クラリスの腕前がかなりの物だと評価した俺は彼女に感じていた違和の正体が繋がっていく事へ納得八割、新たに噴出した疑問が二割と言った風情で思考のテーブルが再展開した。

〈ラインによる脳機能の活性化は幾つかの機能障害を緩和できます。私のこれは情報による情報の管制と言った所でしょうか〉

「0と1。バイナリ信号によって生かされてるって事か? 不気味な奴め」

 俺の理解にクラリスは眉を顰めてリリネルを見た。

〈もう少しロマンティックな言い回しが良いですね。巷では私は『電脳人魚』なんて呼ばれているのだから〉

 夕刻を告げる鐘の音が鳴り響き、腕時計を確認したクラリスが夕飯の支度をすると言ってソファーから立った。

 リリネルは何をするかと思えば車椅子の上でぼーっと俺に向けて視線を投げるだけで、正直居心地は悪い。

「なんだその顔」

 すると彼女は首を傾げてニコリと微笑む。夕日が差し込んでキラキラと輝く彼女の髪留めや、夕焼けの色の中で更に強調される白と深い蒼の中に現れたグラデーションを見るに黙っていればそれなりに映える容姿だと思った。

〈黙っていれば可愛いのに、とか思っていそうだな。なんて考えていませんよ〉

 前言撤回する。気にくわない女だ。

「電子音声なのも、情報被爆の影響か?」

 俺は周囲にある物が第三知覚を使用しないデバイスによって支えられている事と彼女の人工的な声音が同義であると考えた。

〈一応この可愛いお口からも声は出せますよ。でも私の脳内は常にテティスの箱舟と繋がっているので、そこから生じる全ての言語が私を介して発生してしまいます〉

「なんだよそれ」

〈今度街に出た時に見せてあげましょうか。ここではクラリスに怒られてしまいますから〉

 そう言ってほくそ笑んだ彼女に、こちらにやって来たクラリスは夕飯の支度を手伝うように俺に命じた。厄介になる以上それは覚悟していたから、俺は彼女の指示通りにナイフで野菜を切り分けてカレーの完成まで立ち会った。

 夕食後クラリスはリリネルを連れて部屋の奥へと向かう。

「覗いたらレンチでぶっ飛ばすわよ!」

 と言い捨てて、それで彼女等が風呂に入るのだと理解する。そんな悪漢のような真似はするか、と考えながら手持無沙汰な時間で手持ちの残金を確認し組織のせこさ実感した。

「たった二日分の旅費にしかならない」

 そんな事で彼女の危険性などが判明するのか? 疑問が混在する俺は浴室から聞こえる二人の鼻歌に耳を欹てた。

 歌は歌えるのか。なんて思いながらも、俺は腕を組んでこれからの事を考えていたら不意に眠気が襲い。気付いた時にはソファーの上で居眠りをしていた。

 


 ヒーローに憧れてた。勇敢で悪を挫き弱気を守る背中、誰も俺達子供を守らない世界で一番必要な存在だった。

 俺達は親を知らなかった。ただ土壁でこしらえた冷たいたこ部屋に押し込められた子供達は、親の使っていたであろう言語が使えるからという理由で兵士という肩書をたった一丁のライフルと共に与えられた。

 昼間は訓練、夜は暴力。そして決められた日数が経過した者達から戦場へと出荷され、その者達は二度と戻ってこなかった。遂には俺もその日が来た。

 俺は商品価値として定められた役割を負うために、団子になった子供らの中から引っ張り出されて手足を拘束される。そして次に凄まじい激痛で失神して、目が覚めるとトラックに積まれていた。

「目が――たかい?」

 耳に響くのが声と分かったが、不明瞭な音を出している。俺が疑問を呈したのがその声に伝わったのか、彼は注射器を手渡してきた。

「あぁ、――の使い方――――なのか」

 彼は俺の手からそれをひったくると首筋にそれを差し込んだ。奇妙な感覚が頭の中に流れ込んできて、不意に急激な眩暈が襲ってきて暗闇をひた走るトラックの外に嘔吐した。

「これで聞こえる筈、チャンネルも合わせて」

 頭がガンガン鳴いている俺の眼に妙な印や図形が浮かんできた。そして俺は腕を動かされるままにチャンネルとやらを合わせた途端に彼の声が鮮明になった。

「大丈夫? ライン手術をした人間は少しの間こうなるって部隊長が話してた」

「部隊、長?」

 彼はトラックを運転する男を指差す。そして俺の前に人差し指を指して言った。

「僕の名前は――――、君は?」

 顔にインクを塗りたくられたような少年の容姿。景色は移り替わり、俺達はスラムに居た。そこにもその顔が塗りたくられた少年がおり、彼の顔を確認すると景色が更に変わる。

 施設から逃げる俺達、追って来る大人。前を走る少年に俺は言った。

「先に行け!」

 彼は立ち止まるが俺の必死な声音に「必ず迎えに行くから!」と叫んだ。


 夢? 違う記憶操作による思考の明滅だ。俺は汗を掻いて目を覚ました。耳に響いているのは先ほど聞いた鼻歌だ。きっとトルネシアの民謡であり聞いた事のあるメロディだった。

〈あら、目を覚ましたのですね? 残念、もう少し可愛い寝顔を鑑賞しようと思っていたのに〉

 俺は寝巻姿のリリネルを見上げている。これがどういう状況か確認するために、後頭部の裏側には生暖かい感触が触れ、骨ばって硬いという印象を受けた俺はそこに手を付いた。

「ふっ」

 不意に彼女から声が漏れて深淵のような蒼が揺れ動くのが分かる。そうして俺が膝枕をされていたのか、と理解して頭を上げると車椅子ではなくソファーに座っている彼女は元の表情に戻っていた。

〈私の膝の眠り心地は如何だったでしょうか?〉

 どうしてそんなにも自信に満ち溢れているのか分からなかったが、背筋を伸ばした俺はにべもなく告げる。

「恐ろしく硬い枕だった」

 するとリリネルは一丁前に頬を膨らませて不服を表明する。

「俺はアンタと馴れ合うつもりはない。アンタが組織にとって不利益を齎すならば始末するのが目的だからな、余り俺に干渉するな」

 どうせ、そんな事は始めから知っているだろう。なにせ俺を此処まで連れ寄せたのは彼女なのだから。

〈そうですか、ならばもっと私の事を知って頂く必要がありますね。提案ですウォルター〉

 急に彼女の顔が迫る。風呂上がりで体温の高い彼女の周りは暖かかった。

〈もし、この先私を不要と判断しその手で始末することを決めたなら、私を最後の殺人として下さい。そしてもし、私を有用と判断したならば貴方はこれ以上手を汚さないで下さい〉

 提示された二つの条件、俺はその意味を測りかねる。耳の中では森で鳴く虫たちの声が響き、彼女の目を見入る程にそれが輪郭を深めていく。

「意味が分からない。何故アンタを最後にしなきゃいけない」

 すると彼女は指先を頬に充てて考える振りをした。

〈だって私の中で犯人を突き止められる最後の相手が、これ以上私の関知出来ない犯罪に手を染めるだなんてどうにも我慢できないのです〉

 歪んでる。彼女の中では自分という命すらも犯罪を解くという行為の担保として乗っかっているのだ。

「前者はアンタがイカれてるって部分で理解した。では後者はどうしてた」

 すると彼女は座っていたソファーから腕の力で車椅子に移り俺の前を通り過ぎる。そうして彼女は顔だけコチラに向けて言った。

〈だって、これから相棒となる人が罪を犯すとしたら、それは私の為ですもの。そんなのは探偵の矜持が許さないわ♪〉

 俺は二重の意味で当惑の目で彼女を睨む。だが、決してそれで眼前の遠ざかる背中から答えを引き出せるとは思っていなかった。

「ふざけんなクソ」

 俺の小さな叱責の声がリビングに予想以上に響いていた。

 翌朝、鳥たちの慌ただしい声音に目を覚ます。鼻腔に抜けたベーコンと卵の焼ける匂いと音は俺を完全に朝の雰囲気に染まらせる。腰を上げてクラリスが野暮ったい部屋着で調理しているのを見た俺は彼女に問う。

「手伝う」

 すると昨日よりも険しさの増した瞳でターナーとフライパンを器用に操ってサニーサイドアップの目玉焼きを皿に盛り付けた。

「私はアンタの事全く認めてないし、あの子に手出したら地の果てまで追い掛けて殺すから」

 俺はクラリスの覚悟に、リリネルはまずは身近な殺人の芽を摘んだ方が良いと思った。

「俺にも目的はあるんだ」

 バン、と彼女はグリルに焦げ付いたフライパンの底面を押し付けると油を引き直す。

「それとあの子の命、なんの関係があるのよ」

 確かにその通りではある。だがそれを真正面から向き合うにはムカつき過ぎる事が多いんだ。どうして俺の何かを知りたいという欲求の中には、他者を害するという手段を肯定しなければならない。

「だから俺も迷ってんだよ」

 この答えが意外だったのか、クラリスは一瞬手を止める。そうしていると部屋の奥からドガシャっという音が響いて彼女は頭を抱えた。

「ちょっとこれ、見といて」

 俺はフライパンとその上で焼ける目玉焼きを預けられる。クラリスはきっとリリネルの部屋に行ったのだ。そして聞こえる何かを咎める声が何往復かした後に車椅子を伴ったクラリスはリリネルを連れてきた。

 あの自信満々な顔は何処へやら、まるで溶けたマショマロのようにふにゃりとした状態のりリネルが運ばれていきテーブルに着く。俺は焼けた目玉焼きを皿に移すと人数分の食事を手にテーブルへと向かった。

「この子朝弱いから……、起きたら水桶で顔を洗って歯磨き粉の付いたブラシとコップに水、それから事務所宛に来ているメールのチェックをして、火急なものは要約して歯を磨いている時に音読すること」

 つらつらと感情を廃した声音でクラリスは朝の要件を他でもない俺に告げた。リリネルは水桶の中に顔面を没し、あぶくを吐いてる。そして顔をふわふわのタオルで拭かれると幾分か何時もの彼女となった。

 そうして歯磨きへと移行した折にクラリスの顔色が変わった。

「フロンターゼ探偵事務所リリネル・フロンターゼ殿、先日の事件解決お見事でした。さて、付きましては現在都内で発生している連続磔殺人事件の捜査を行っては頂け無いでしょうか? 概要に付きましてはおいおいコチラから説明させて頂きます。アルフィニア陸軍中佐ミハエル・カーマックより。追伸、あの目つきの悪い青年も同伴されたし」

 口を濯いだリリネルはシャキッとした顔で目を動かした。

〈まずは朝ご飯にしましょう〉

 そう言ってテーブルに並んだ朝食に彼女は向き合う。俺はクラリスの方を見ると何時もの事というようにソファーに腰掛けていた。俺も習って座りフォークで目玉焼きを先に始末する。するとニコニコとベーコンを切り分けていた彼女が続いて目玉焼きにシルバーの食器を差し込んだ段階になって硬直する。

〈この目玉焼きを調理したのは誰〉

 静かな怒りが滲み出ていた。そしてクラリスはハッとして俺の方をジトッと睨む。俺は理由のわからない彼女の視線にリリネルの目玉焼きを見た。俺好みなじっくり火の通った黄身が輝いていた。

「俺だが?」

 フォークとナイフを握った状態で彼女の見せたいじけた表情は実に多彩に変化して俺にどうして半熟でないのかを懇々と説いた。しかし、それは俺の好みであり事前に把握していなかった事はさておいても仕方なの無い事だろうと切り返した。

「どうしても半熟が食いたいなら自己紹介に加えるこった」

 ふんと俺もムキになり、それから出発までの間彼女とは口を聞くことも無く。旅行の準備を行ったクラリスは前途多難さに俺に彼女に付いて世話の手順を綴ったノートを手渡した。

「言っとくけど、貸しただけだから。ちゃんと返してね。それからリリネルを傷つけたら第三知覚にずっと化物が映り続けるマルウェアを開発してやるから」

 恐らくは彼女とは永久に分かり会えないだろうと判断しながら、俺達の姿が見えなくなるまで外で見送り続けるクラリスの献身と言うのが、一体何処から来るのかと考えながらも俺は車椅子を押してミハエル中佐と待ち合わせをしているリニアモーターカーの駅まで戻った。

 たった一日振りにこの超高速リニアでジュレミントンまで戻るのだから彼女にとってつかの間の休日だったのだろう。

 俺はライン上に表示された彼女に付いての報告書を纏め上げると本部へと提出した。その間もリリネルは白と黒のベルジュールで日陰を作り、肘掛けに頬杖を付きながら不服を前面に出していた。

 駅でミハエル中佐と再開し、更には都市鉄道連盟の会長が直々に彼女の元を訪れると流石に外面を取り繕う。ぴっしりとしたスーツ姿の壮年の男にリリネルは恭しく頭を垂れて自己紹介を告げる。

〈私は私立探偵のリリネル・フロンターゼです。古今東西何処へでも小さな事件から巨悪蔓延る難事件までなんなりとお任せ下さい! ちなみに目玉焼きの焼き加減は半熟でないと推理力が二十五%減退します〉


 雑記 大陸暦897年四ノ月壱七日 トルネシア南自治区。

 ――嫌味な女、目玉焼きの焼き加減如きでうるさい。――


 これ見よがしに付け加えられた彼女の紹介文、俺は本当に嫌味な女だとリニアモーターカーでジュレミントンに戻る際に客室として充てがわれた個室でミハエル中佐から今回の事件について説明がなされた。

「最初の事件が起こったのはジュレミントンの公共広場で、多くの者が遺体を何かの現代アートだと思っていたらしい」

 リリネルは車椅子用に空けられたスペースで手のひらを重ねて静かに彼の言葉に耳を貸していた。

 事件の概要は四ノ月の初旬、ジュレミントン大統領府が置かれる街ペイルデラにおいて発生した。ペイルデラは東海岸有数の紡績工場が軒を連ねた地帯であったが、南部に工場拠点が移された事によって東西戦争時には軍事基地として扱われた。

 その名残りとして摩天楼ひしめくジュレミントンにおいてペイルデラのような街は高さ規制が厳しく大統領府の周辺は植林が成され、国家の国民奉仕の一巻として造られた公園が殉職した兵士の名を取って憩いの場所となっている。

 そんな国の繁栄と維持を司る由緒あるフランク・ベニー国立公園で遺体が発見された。それは子供らの遊ぶ遊具の中心に鉄の杭に吊るされる形で発見され、その周りには赤い花が咲いていたという。

〈赤い花?〉

 彼女の疑問にミハエルは現場のフォトデータをリリネルへと送信する。十四歳の少女に対して見せる遺体の状況とは思えなかったが、確かに一見すると現代アートのように見えなくもない。

 そう見えるのは恐らく本来この公園に表示されている電脳都市景観を全く無視する形でこの男の死体と花畑が演出されているからだろう。

「ジュレミントン市警のサイバー対策係はこの改竄技術は素人の物ではないと結論付けている」

 そこで俺は疑問に感じた。

「何故アンタがリリネルに事件の依頼を? 市警が捜査しているだろう」

 そうなのだ。本来であれば軍は殺人事件といえども刑事事件には関与出来ない。それは飽くまでもアルフィニア軍は防衛省の管轄である為だ。

〈刑事事件全般の管轄は総務省でしたよね? 火加減の分からない彼でも分かるような説明をして頂けますか?〉

 何時までいじけてんだよっ。

「それが、現時点で判明している被害者二名はどちらとも退役軍人なのだよ」

 これは彼女よりも俺の領分と言える。つまりは面子の問題だ。俺達の口から言ってやる事を俺自身が断じて反対したために彼女を見る。たがリリネルは微笑みを象ったまま身動きを取らない。それが気に入らなくて彼女を睨んでいるとゆっくりと視線をコチラに向けた彼女はようやく音を発した。

〈中央紛争以降旭国はアルフィニア国軍の縮小と自国からの駐屯兵の増員を求めているでしょうから、退役軍人の不始末をこれ以上広げたくないというのが軍内部の意識、という事ですね?〉

「いやぁ、その通りです。何分この国は建国からまだ五十年、古い歴史の中ではやはり面子の維持が重大なのです」

〈中佐はその頭を下げることも出来ない情けない連中の為に、恥じを偲んで私達に依頼として助力を求めたと〉

 ミハエルは驚愕と本心を射抜かれた事に皮膚を引き攣らせながら終いには頷いた。

「ま、まぁ仰る通りなのだがあけすけが無いね……。とは言え自国の自治がままならないとあれば旭国は喜んで内政への干渉を申し出るだろう。それは我々の勝ち取った筈の民主主義とは程遠い。けれどもお上は自ら重い腰を上げるよりも自然に解決されることを望んでいる。全く呆れて物が言えん」

 思わぬ彼の本音、口を抑えたミハエルであったがリリネルは彼の杞憂を払拭する。

〈この空間はあらゆる傍聴対策を講じています。壁に耳を押し付けていたとしても、周囲のラインに私が干渉しているので会話の意味を理解することは不可能でしょう〉

 それは初耳だ。だから副局長は傍聴をしないとまで言い切ったのか?

「それは心強い。ならば上官の陰口でも聞いてもらおうかな」

 そう言って笑った彼に対してリリネルはニコリと笑って釘を刺す。

〈それは是非お聞きしたいですね。アルフィニア陸軍中佐の弱みを握るチャンスですから〉

 この女は本当に、と俺はすっかり萎んでしまったミハエルに同情した。

「成功報酬は出るんだろうな?」

〈あら、どうしてウォルターが交渉を? もしかして私の相棒として隣に立つ覚悟が出来たのかしら?〉

 俺はフンと唸ってからこれが彼女の処遇を見極める絶好の現場である意思をアイブラウジングを通してリリネルにのみ送り付けた。

〈なるほど、よほど私と一緒に居たいみたいなので、そうですね報酬はウォルターに決めてもらいましょうか〉

「私は構わんが、是非良識の範囲にしてくれよ? こう見えて小遣い制なんでね」

 洒落っ気のある中年管理職は身の内の物悲しさに俺は少し考えてから報酬は事後に考えると告げる。

 そして辿り着いたジュレミントンで彼から事件資料を粗方送信されると、構内では完全にたまたま乗り合わせた風を装うように言われて解散する。

「まずはペイルデラに向かうか?」

〈……〉

 沈黙が送り付けられる。そう言えばコイツ不貞腐れてたんだった。ならば現場で最も近い殺害現場へと足を向ける。バスに乗ってジュレミントン中心部へと向かう。ターミナルからコチラへは半時程の移動となり、その間に景色は一変する。

 景観法上バス等の車体の大きな貨物車両は磁力推進装置を付けられるがそれを行えない。一部の軍事車両や貨物車両にのみ許されており、つまりはバス移動の際は空をマス目上に区切るビルとビルの合間を縫って目的地へと向かうのだ。

 そしてバリアフリーのバス停を降り白いスロープを下っていくと途端に電脳都市景観が俺の第三知覚を刺激した。

 俺はリリネルの車椅子を押しながらこのパステルカラーに浮き立つサイネージを横切り洋菓子のCMを手で払った。通勤時間帯のジュレミントンでは多くの人々が第三知覚を用いて情報の海から取捨選択を導く。

「第二の事件現場はマーカシー国立公園、ここだ」

 公園内部は今も封鎖線が敷かれていた。それはそうだ。何故ならばたった数日前に陰惨な殺人があったのだから出来立てほやほやだ。

 封鎖線の前には制服の警官がおり鷲を象ったエンブレムを身に着けている。彼にミハエルから頂戴したデジタル腕章を表示させると彼は敬礼をして俺達の通行を承認した。

「周りは植林された木々で芝生が敷き詰められた公園の内部は見えないか。ランニングスポットとしても…………ここは人気らしい。だから遺体は……ったく、今朝は悪かったよ」

 俺の謝罪に彼女はこちらに蒼を向けて微笑む。そして庭園状の芝の上に立つ一本の杭、俺の目にはその周辺に咲く赤い花を見させた。

 光景に見入っているとリリネルは風に揺れる髪を抑えて顔を上げた。

「寿司寿司トロ沢ウニ軍艦! 大トロ中トロわさび盛り! さぁ、推理を始めましょう」

「おい、急に壊れるな」

 彼女の口がきっと明瞭に動く。既に遺体は降ろされ血で濡れた杭のみが立つその場に置いて彼女はハツラツとした笑みを湛えて言うのだ。寿司ネタに乗せ事件を解決すると。

「口の筋肉を整えていただけです。事件解決のご褒美を考えて等いませんよ?」

「そうか、てっきりまだ不機嫌だからふざけているのかと思った」

 質問すると愚問とばかりに彼女は車椅子の押手を握る俺の手の甲を持ち上げて抓る。

「勿論不貞腐れています。けれど今成すべきは事件の解決、そうでしょうウォルター」

 電子音声の時は棒読みで明瞭ではあるが抑揚のない声音は、こうして聞くとそれを素晴らしく補完しており、俺は暫時聞き入っていた。

「どうしたんです? 早く車椅子を押して!」

 むっと頬を膨らませた彼女の言う通りに俺はぐるりと円周を回る。

「ストップ」

 手で制された場所で止まる。彼女は芝の敷かれた地面を見据えて視線は公園の端に向かっていた。俺は無言でそちらに車椅子の方角を変えて押し始める。恐らくはこれが正解のようで彼女は暫く地面を目で追っている。

 これがようやく芝生の切れ目に差し掛かって、向かう先が舗装されたアスファルトになった途端に彼女は顔を上げてコチラを見て口角を上げる。

「なるほど、犯人像が少し見えてきました」

「ほんとかよ……。いや、聞こう」

 俺はこの推理に水を指すのは気が引けたから、合いの手を打つ事に注力する。

「犯人は男性。恐らくは被害者よりは小柄なのでしょう、普段から重い物を持つような仕事をしていない為に肉体労働者ではない」

「どうしてそんな事が分かるんだ」

 問う俺に彼女は芝生の切れ目から現場へと繋がるまでの導線を指でなぞった。

「等間隔に見える芝生の捲れを直した痕跡。恐らくはそうです、重い荷物の担ぎ方を知らずに背に背負ったは良いがどうしても背中からずり落ちてしまう。そうして芝生に接触しめくれ上がった部分を帰りに押し戻して帰ったと考えると、この芝生の倒れ方は納得できます。そして犯人がそれを成すだけの頭の切れが有る事も、容易に想像出来るのです」

「小柄なら女という線は最初から無しか? 物理補助具を使えば男位担げるだろ」

「ふむ、ならばこんな跡も残さずに済むでしょうね」

 俺は彼女の言葉を聞いてようやく地面に伏せてよくその場を観察した。昔の癖でそうした方が痕跡を辿れるのだ。

「あら、ワンちゃんみたいで可愛い」

 そんな無駄口を無視した俺は確かに一定の間隔で太陽光を受け取り芝生の放つ光が、反射を違えているのが見えた。きっと先の硬い何か、考えるに靴の先端で押し固めたのだろう。その様子を確認した俺はこの一瞬でそれを見極めた手際に感服しつつもこの洞察力を恐れる者達の考えは杞憂ではないという結論に一歩近付いた。

「あああああああああぁぁぁあっ! こらああああああ!」

 急に事件現場に似つかわしくない声が聞こえて俺達はそっちの方向に目を向けた。俺と同じ黒髪ではあるが、あちらはショートカットの裏側に青色のメッシュを入れた様で同じ色の濃紺の瞳は旭国とフィリポノイドの掛け合わせだろうと思えた。

 そんな混血の少女は黒いスーツを纏って、胸には市警察のエンブレムが自身の存在を表しながらその様は少し浮いて思えた。

 ずかずかとやって来た少女は俺達に近付いてその正体を見極めるや否や表情をころころと変えて指を差した。

「あっ! えっ? うっ…………」

 驚いたり蒼くなったり、そんな彼女の後方から俺と同じ位の身長の青年がやってくる。彼はアルフィニア特有の金髪に白い肌、碧眼は鷹の如く鋭い様であり、俺を見るや顔を顰める。

「イシマツ先輩、急に走り出さないで下さい、犬じゃないんですから」

 彼女を諫めた青年もまたスーツ姿であるが市警のエンブレムを胸に付けていた。

「だ、だって、先輩に……リーネちゃんがっ! って犬って何よ!」

 愛称で呼ばれたリリネルは顔を綻ばせて手を振り、先輩と呼ばれた俺はこんな奴知り合いに居たっけか、と思い出そうとして挫折した。

「お久しぶりですね、フィーネ。いつ見ても元気いっぱいで羨ましい」

 そう切り返したリリネルに対してフィーネと呼ばれた少女は訝しんで彼女に近付いていった。

「貴女、本当にリーネちゃん?」

 顔をペタペタと触る彼女を金髪の後輩は両脇を抱えて引き剥がす。

「失礼ですよ先輩。申し遅れました。僕はジェイデン・スノー、ジュレミントン市警察の刑事です。こちらはフィーネ・イシマツ刑事、僕の先輩です」

 よくできた後輩の自己紹介によって、ここに現れた闖入者の正体と理由すらもまた判明した。

「暫く会わない内に立派な役職に就きましたね」

 恐らくは年齢が変わらないであろうが、それは彼女、フィーネがもし本当に俺の後輩ならば有り得る話だ。

「積もる話があるでしょうが、ここはジュレミントン市警によって制限された区域です。御二方はどのような要件があってこちらに入場を成されているのでしょうか?」

 ジェイデンの公人の如き振る舞いは様になっており、俺達は腕の腕章を再び表示させようと試みる。しかし、何故かそれが上手く再現されずに困惑した。

「許可なく侵入したとあっては見逃すわけには行きません、拘束し署で事情を伺います」

 そう言うと彼はテーザー銃を取り出した。何故か慌てるフィーネを余所に事態が進行していく。仕方なく俺達は、説明もかねて事件の捜査状況を確認する為に彼等に付いていく事になった。

 市警の乗り付けた装甲車に通された俺達二人は共に手錠を掛けられる。そんな必要は無いと逆に説得を試みるフィーネ、だがリリネルは「構いませんよ?」と逆にノリノリで手錠を掛けられて装甲車の中に入っていった。

 俺も彼女に続いてきっと何かの作戦だろうと市警察署へと連行される。

「上手く内部に侵入して、捜査資料を確認するのか?」

〈はい?〉

 リリネルは両手を拘束する手錠をじゃらじゃらと鳴らしながら小首を傾げた。

「は? だから素直に市警察署に連行されるって事は、何か考えがあっての事じゃないのか?」

 俺の二度目の問いにやっと理由を話すつもりになったのか、彼女はドヤ顔を披露した後に言った。

〈何も? けれど良いじゃないですか。こういうのもたまには楽しいでしょ?〉

「なっ!」

〈そ・れ・に。名探偵が檻の中、何とも皮肉が効いていて哀愁を誘う状況。そこから始まる推理推理の快進撃、これで私の事務所の評判も爆発的急上昇を見せるに違いありません〉

 俺はまだ納得してなかった。この女はそう言って恐らくは何か隠しているのだろう。そしてこんな状況を打開するきっかけを既に持っているのだ。そう言う女だ、なんて思っていた俺達は無事、丸一日拘留されてしまった。

〈…………酷い目に遭いました〉

 へなへなになる自業自得のリリネル。

「ごめんねリーネちゃん、あの子の尋問しつこかったでしょ?」

 手錠を外しながらトホホと涙を流すフィーネ、彼女は続いて俺の方へ来る。確かにジェイデンの尋問は凄まじく執拗であり、それは俺の来歴に関する事も洗いざらい探ってくるのだ。取り立てて俺がフィーネの先輩にあたるという情報を彼女が開口に口走った事によって、俺と王の一手との関連を洗おうとしていた。

「すみません先輩……。私が余計な事を言ったばかりに」

 王の一手は政府の公認の民営組織ではある。そしてその表向きは内政の維持に関するエリートを育成する機関という名目があり、卒業生にはフィーネのように警察署へと配属される者も存在する。

 故に俺よりも年下の彼女がここで働き、俺が今も尚施設に与して仕事をしている可能性や、越権行為等の職務規定違反を行って事件現場に存在したかも知れない事を彼は疑っていた。

「何度も言うが、俺はアンタを知らない」

 手錠の感触が懐かしく手を摩りながら答える。するとフィーネは俺を見上げて宣言する。

「間違いありません、だってこの右手が覚えているんですから」

 フィーネの右手にはインプラント回路が組み込まれているのか黄色い幾何学模様が浮かびあがり、それはリリネルとよく似ていた。

 俺は不意に沸き起こってくる感情が彼女の顔を見る度に膨れ上がるのを感じた。それは怒りなのだろうか、それとも切望? どうして? という気持ちが徐々にふつふつと沸騰する窯の中で煮込まれて熟成し、やがて恨みへと昇華していく。そんな狭間の感情を抱く。

「その右腕はどうしたんだ」

 彼女の右腕は恐らくリリネルと同じ情報被爆を受けた人間の様に似ていた。

「王の一手から引き取られた後、それから私達は数年間テティスの箱舟で生活をしていたんです」

 俺は立ち上がるとリリネルの車椅子を押しながら彼女の回想に耳を傾けた。

「その時箱舟の中に落ちたリーネちゃんを引っ張り上げる為に右腕を情報の海に突っ込んでこの様になりました」

 彼女はその後数か月のリハビリを経て再び王の一手に戻ったのだという。

「何故戻ったんだ? 折角あんなクソな場所から出られたのに」

「思い残し? があったと思うんです。けど分かりますよね? 王の一手の卒業試験後は表向き認知改善プログラムと言う名の記憶改竄がされるって」

 声を潜めて俺に信念の籠った瞳を向けるフィーネ、きっとまだ彼女が思い残した出来事は補完されていないという証拠だろう。

「じゃあなんで俺の事を先輩って覚えていたんだよ」

 すると彼女は何度も言わせるなとばかりに右腕を見せつけた。

〈フィーネは任意の記憶をその右腕に記録し閲覧する事が出来るのです。つまりは第二の脳がそこにあるという事〉

 俺の足りない認識をリリネルが埋める。それは納得に落ちたが、加えて理解できない事が増えていく。リリネルとフィーネが同じ所に居た理由や、誰が彼女等を連れ出したのかという問題だ。

「俺達の嫌疑は晴れたんだろ?」

「はい、身元引受人のサインが届きました」

 彼女が表示した電子書簡にはミハエル中佐のサインが書かれており、恩を売る前に世話になってしまった事を後悔した。

〈それでは一旦〉

「捜査再会するか」

 俺とリリネルは顔を見合わせる。彼女は何を言ってんだコイツみたいな顔で俺を睨む。

「なんだよ」

〈仮にも乙女が一日この狭い檻の中でお風呂も入れず仕舞いだというのに……、それを何とも思わずに置くつもりですか?〉

 俺は彼女の方によって鼻を近付けて吸って見せた。別段変わらぬ精油の香りだ。

「ふぐっ!」

 またリリネルの声音が小さく鳴って、顔を赤く染めた彼女が俺に当惑に染まった瞳を向け震え出す。

「リーネちゃん! この人は危険っ! 破廉恥です!」

 フィーネも共に俺の行動を叱責する。そんな状況を拘置所の外から眺めていたジェイデンはため息を吐きつつ彼女を諫めて俺達を追い出した。メインストリ―トに位置する市警ビルはサイネージを排したデザインをしており、広告のド派手な無個性な建物群と見比べると見劣りするが、印象的な建物ではある。

「事件の捜査を行うのは勝手ですが、これ以上僕達の邪魔だけはしないように」

 正面玄関まで俺達を見送った二人はそれぞれ別々の反応を示した。

「そうそう! 犯人は三から四十代の小柄な男。早くそいつをとっ捕まえなきゃ行けないんです」

 フィーネがやる気満々に漏出した犯人の情報は奇しくもリリネルの言い当てた人物像と一致する。ジェイデンは今度こそ堪忍袋の緒が切れてフィーネを引き摺って行く。彼女は去り際に「私の方が先輩なのにーーーー!」と叫びながらリリネルに手を振りながら再会を約束していた。

 俺は手を振った彼女の後ろに付いて訊ねる。

「ホテルは何処を採ったんんだ?」

 リリネルはまん丸の瞳をこちらに向けてこの街が一望できるホテルを指差す。三ブロック程離れラグジュアリーストリートと呼ばれる高級な物理補助具が販売されている他、ラインによって演出される空間をデザインする専門店が軒を連ねている。そのどれにも専門性があって家具や内装、一軒家の外観等多種多様に取り揃えられている。

 俺はそんな場所に宿泊できる彼女の財力の謎が気になりはしたが、この性分だ。きっと色々なハッタリをかまして身銭を稼いでいるのだろう。

〈そうです。貴方の身なりも整えなければなりませんね〉

 彼女の提案に俺はその後頭部に「はぁ?」と息を掛ける。

〈だから、私の隣を歩くに相応しい恰好をして欲しいという事です〉

 正直俺は着のままでいるから全く気にならない。というかそれが普通だったし、施設でも風呂は三日に一度だった。

「俺はこれで別に」

〈臭います〉

「だから何だ」

 ムーッ! と怒り顔になったリリネル、俺は自分のスーツの臭いを嗅ぐがそう言うのは客観視が難しいと知っているから諦めた。

〈諜報員がこれでは組織の名も廃れですね〉

「別に俺はそれでいい。あんな組織何時ぶっ壊れても構いやしない」

〈王の一手は中央紛争終結後に両陣営の孤児を大量に引き取って面倒を見たとか。その中に貴方も居たんでしょう?〉

「恐らくな、あんまり記憶は無い。だから俺の育ちには期待するな、どうあっても生まれ育った世界が違うんだ」

 そんな諦めを含んだ言葉を吐くと彼女は、俺の袖を引いてホテルの前に新たな目的地を指し示す。そこは俺にとって馴染みのある露店市場であった。ジュレミントン北部には未だにこういった場所があり、少女が一人歩くには不安だが、俺が居ればまぁ、大丈夫だろう。

「どういう風の吹き回しだ?」

〈知的探求心でしょうか? ほら、テレビで映る別の国の市場って何故だか出す物全て美味しそうに映るでしょ?〉

「分からなくはないが、北自治区では有り触れてるぞ?」

〈良いじゃないですか。私の我儘で構いませんから、付き合ってください〉

 そう言って俺達は市場へと向かうと庶民的な、と言うには若干の不衛生さが蔓延る放置街の市場を巡った。

「良いか、熱を通してない物は食うな」

 彼女のワクワク顔には申し訳無いが、俺はまるで先進国の面影も感じさせない町の様子に懐かしい匂いを嗅いだ。リリネルはエビの踊り食いに目を輝かせているが、どこのドブ川から攫って来たか分からないそれを差す指に首を横に振る。

 ケージに入った養殖のウサギ、四本足の鶏、食用ミルワーム。全部却下だ。

「懐かしいな」

〈おかしいでしょ! 私が食べられるものは何処なのおー!〉

 膝をどんどんと叩く彼女に俺は異国情緒の入り混じった旭国の出店を見つけた。そこは八十歳位の婆さんが営んでおり、子供等が集まっては小遣いを出し合って駄菓子を買い揃えている。

〈ほー、久しいですね。ねぇ、ウォルターお菓子パーティーと洒落込みましょう〉

「構わんが腹は膨れ無さそうだな」

 そう言って俺は籠を持つリリネルのそれに、昔懐かしい平たいカツライクな駄菓子や、旭国の魚類の蒲焼を思わせる物を籠に放り込んでいく。リリネルも升目状のタッパーに入った小さい餅のお菓子をわんさか籠に入れていく。ポテトチップスに細長いゼリー、それからそれから――。

 施設でアイズマンが持ち寄った駄菓子を貰う子供達を、少し羨ましいと思って見つめていた。そんな俺を見兼ねた彼はこれをくれたんだ……。

 そうして手を伸ばした俺の手とリリネルの手が重なる。

 豚の顔をした小さいカップ麺。

〈私の随一のお気に入りです〉

「……奇遇だな」

 袋一杯になったそれにリリネルは口元を抑える。

〈流石に欲張り過ぎましたね〉

「少しだけ、ここで食って帰ろう」

 提案する俺は沸かして置いてあったポットから湯を頂戴して、二人分のカップ麺を調理する。

〈ふーん、産まれた場所や環境が違っても、好きな物って案外似たりするんでしょうか?〉

「駄菓子は皆好きだろ。俺はこう言った物以外、余り味の付いた物を食った経験が無かったからな」

〈そう。じゃあ、これから食育も兼ねてしっかりと互いの好みを知って行きましょうね。まずは目玉焼きは――〉

「ほら、もう出来たぞ」

 豚の顔を付けたカップ麺は思い出の味相応で、ちゅるちゅるとそれを啜るリリネルの小さな口も満足したように上向く。それが施設の子供達を彷彿とさせて目を逸らしてカツの駄菓子を食い千切る。

〈見てくださいウォルター。贅沢です。ここにカツと蒲焼を加えると、とても贅沢な物が出来ます〉

「俺は別々に…………。いいや今回だけだからな」

 そう言って味変を楽しんで、買い物袋の中身を減らす頃にリリネルは言った。

〈やはり食事は誰かと一緒がとても楽しいのですね。思い出させてくれました〉

 リリネルの頬をハンカチで拭ってやる。

「その点には同意する……」

 俺の視線は少ない駄菓子を分け合う子供達に目が行く。リリネルは袖を引いて微笑むから俺は彼等に余った駄菓子を差し出した。小腹を満たした俺達は遂に彼女を本来の目的地であるホテルの正面に連れて行く。彼女はVIP専用の個別フロントから内部へと直接通される。

〈毎回ジュレミントンではこのホテルを利用しているのですよ〉

 と人差し指を立てて誇らしそうにしているが、どう考えても一泊数十万共通円は掛かりそうな様をしている。コンシェルジュは彼女を一室に通し俺にも恭しい首を垂れる。丁重に扱われる事に慣れない俺は遂にその絢爛豪華な室内に足を踏み入れて息を漏らす。

「庶民的な一面を見たかと思えば……」

〈フロンターゼ探偵事務所の福利厚生が充実している事を、求職者にアピールしているんですよ?〉

「あぁ、そうかい」

 一繋がりに配置された三部屋仕立てとなっており、一部屋一部屋が趣向を凝らした風情で意味不明な事に中心部にはガラス張りの中庭があって旭国の伝統的な庭造りである枯山水が演出されていた。

 全体的なレイアウトは後期トルネシア朝の雰囲気があり、高い天井に大きな窓は赤いカーテンによって切り取られた都市の全景を映す。白い壁の縁取りには惜しげも無く金箔が貼られており旧時代の名残のような一室を見せた。

 キングサイズのベッドの周りにはアンティークのキャビネットが、漆の光沢を吊り下げのシャンデリアから漏れる光によって齎し、足元に敷かれたラグの足ざわりはまるで浮かんでいるかのような体重の反発を起こす。

「全くこんな時代錯誤な」

 俺は呆れながら彼女が風呂の支度をしろというから、車椅子の下部に内蔵された衣類などを収納する引き出しから着替えを引っ張り出す。そしてバスタブに湯を貯めて少女を風呂場へと連れて行くと俺はそこで踵を返した。

〈ちょっと、何処へ行くんです?〉

「何処へって、俺は休憩だ」

〈この成りで一人で入浴が出来ると思って?〉

「忙しんだよ……」

〈嘘! いつもこの時間には『キャプテン・アルフィニア』のヒーローアニメを観ているじゃない!」

「――っ! 別に良いだろ! 風呂位自分で入れ」

〈ふんっ〉

 彼女は残念そうというか、初めからわかって俺をからかっている顔をしながら車椅子に備え付けられたボタンを押す。

 すると以前階段を登った姿になると彼女を抱えて着物を脱がせ始めた。俺はその段になって目を逸らすが、急に妙な音が響いた。

 ミューン、という音とモーターが空転する音が聞こえて車椅子が元に戻っていく。リリネルは首を傾げて何度もボタンを押すが沈黙を守った車椅子はうんともすんとも言わない。

「どうしたんだ」

〈こ、壊れました〉

 口元は笑っているが明らかに涙目で青ざめる彼女の顔がこちらを向く。

「なら風呂は我慢だな」

〈無理無理無理無理! どうにかしなさい!〉

 上半身が暴れた彼女は着物に絡まって地面に倒れた。一瞬案じた俺は直ぐに平静を取り戻す。しかし、リリネルは起き上がろうとしてもやはり上手く行かないようで、その様は流石に見て居られなくなって抱え起こした。

〈アニメが観たいんでしょ……、行けば良いじゃない〉

「どっかのサイトで観るからもう良い」

 帯が外され、着物の左右が重力に沿って垂れる。白い太ももから覗くレースの下着は白地であり肌と同化する様子である。そして華奢な胸回りを覆うブラジャーが見えたタイミングで彼女は手の平で身体を隠した。

 俺は思わず目をやっていた事が気付かれて気まずい沈黙を湛えたが、リリネルは優しい声で〈背中だけ、流してくれる?〉というので俺はそれに仕方なく応じる。

 大理石と木目を調和させた浴室には座椅子があって、そこに一度彼女を座らせる。俺はスルスルという着物の擦れる音から目を逸らし、彼女がそれを畳んで更に下着を脱いだのを添えた物を渡してくるから受け取って浴室の外へと移した。

〈まず身体から洗います。できれば目を瞑っていて〉

 彼女も緊張しているのだろう。電子音声は何時もの通りだが、手が震えているのが分かった。本当に俺をからかうだけでやはり少女の入浴に男が立ち会うのなんておかしい。

 だから俺も彼女を安堵させる為に後ろを向いた。

「安心しろ、アンタを害するのは決定が下りたその一度切りだけだ。それ以外は何があっても手なんか出さない」

 一瞬リリネルの手が止まって視線を感じるが、俺は知らない振りをした。

〈お人好しね。趣味の欄には人助けと記入しても良い位〉

「アンタの趣味が減らず口って報告書には記載しておく」

 彼女は泡を手の平で操りながら身体中に行き渡らせていく。俺は頭の中で別の事を考えながらリリネルが背を向けてボディタオルを渡してきたから、それを受け取ると狭い背中に塩梅を確かめながら擦っていく。

 ゆで卵のように柔らかな感触は、間違って傷付けてしまわないか心配に成る程であり俺は軽く触れるだけで精いっぱいだ。

「ふっ、くふ――あはははは」

 リリネルは背を丸めて口からは笑いが漏れた。生意気さ引き出す時のようなものではなく単純に俺の摩擦によって生じていると分かる。

〈そんなに心配しなくとも、壊れたりしないわ〉

 俺はやや力を込めてリリネルの背を上下に泡で満たしていく。それが細い腰に向き、やがてそれよりも下を目指した時、俺は限界を迎えて彼女にボディタオルを押し付ける。

「あ、あとは自分でやれ」

 彼女は長い髪を自分の手で抑えながらにこちらを向いた。

〈お湯を出してもらえる?〉

 言われた通りにシャワーヘッドから湯を放出し、それが適温になったところで彼女の背を流していく。心地よさそうに吐息を漏らしながら髪を下ろしたリリネルは次に胸から順に泡を取り払っていく。

 シャワーヘッドの湯が湯気を立てて鏡を曇らせる。それに水を掛けたリリネルと俺は不意に目が合った。

 それは数秒だったかもしれない。彼女の深淵の蒼と目が合うと徐々に状況を俺は理解していく。鏡には彼女の背に感じていた華奢の前面が写し出されており、白い肌に浮かぶ桃色の正体を見たか見ないかというところでリリネルはお湯を俺の顔に掛けた。

「見てないっ! 俺は何も」

 俺の言い訳を聞かずに彼女は髪に湯を掛け始めた。その沈黙が次にどんな皮肉を言うのか確かめてから俺はここを出て行こうと思った。詰まる所贖罪のような要件である。

 しかし、リリネルは長く煌めく髪を洗髪すると湯船に浸かる段になってまで俺に何も言わなかった。

〈湯船に…………、入れてくれる?〉

 あぁ成る程、それでか。と俺は納得して膝立ちになる。

「目を瞑る」

〈危ないから良いわよ。こうなる事位予見の範囲だから〉

 髪を縛って括り上げたリリネルは胸元を抑えると俺が抱えやすいように足を投げ出す。

「だが……」

〈なら、私の顔を見てれば良いんじゃない?〉

 それは正鵠であり、リリネルの瞳に目を向けた。彼女は俺に目を合わせずに天井を見つめ、その度に揺れ動く瞳の海が揺蕩っているのに暫し見惚れていた。見惚れるという感情を及ぼす自分の不甲斐なさを恥じつつも、彼女に対する情をこれ以上抱かないようにと心得るのだ。

 だが、俺の決心など意に介さない少女は湯船に身体を浸されながら俺の頬に手を添えた。

 肩の少し下まで浸かった少女の身体は入浴剤の乳白色の中に沈んでいく。

「大丈夫か?」

〈そう思うのなら、このまま手を握っていて下さる?〉

「何時もこうなのか?」

〈クラリスの事? 私の取扱説明書を受け取ったのではなくって?〉

 という事ならばこういう事態についても記載があるのだろうが、それを読むチャンスというのがこれまで訪れなかった。これを乗り切ったら読破して対応を練ろうと決める。

〈今の所の私の見立てはどう? 殺すに値しそう?〉

 白と金に縁どられたバスタブから腰の稜線までを出した彼女が俺に向き合った。

「回答待ちだ」

〈良い回答を期待したいものね〉

 それがどちらか猛烈に気になった俺は直接聞き出す事への純粋な危惧を生じ、ならばと判明している事実から遡った。

「そう言えば、アンタはどうして事件現場では普通に喋れるんだ?」

 これは随分と気になっている事であり、彼女の本質的な情報だと思ったのだ。

「私の今日の天気は晴天につきアルフィニア株式市場は鉄道連盟会長のヒットチャートをラスト一周が長蛇の列となりました」

 彼女はその流麗な口調で訳の分からない事を口にした。

〈私はテティスの箱舟に蔓延る情報の中を泳ぐ人魚。インライン手術でそれが思考の乱流となって廃人にしない為フィルターとなっているけれど、普通に話せもしない〉

 俺は現状を類推してこの部屋の外面的特徴を見渡した経緯やリリネルの自宅の状況を含めて断言する。

「高層のホテルに泊まる理由は、電脳都市景観の影響外という事か」

 少女は驚いた後心底嬉しそうに口元を緩める。

〈あら、私への理解が深まって嬉しい限りです。そうね、私にとってこの街は少しゴテゴテし過ぎている。だからちょっと疲れるの〉

 腕を伸ばしたリリネルは入浴剤のミルクのような香り立つ指先で俺のこめかみに指を這わせる。

〈けれど、事件現場はね。そうじゃないの〉

 蒼く吸い込まれそうな海の中へ俺を人魚が誘った。足を踏み外したら深海の中に引きずり込まれそうに成る程の深い色の中に俺が浮かんでいた。

「そうじゃない?」

〈電脳都市景観の固定。昨今の殺人事件では同様の状況が多くみられる。けれど類似事例を報告している者も居なければ、それを扱った論文も存在しない〉

 固定と聞いて俺は二つの事件を思い起こす。

「リニアモーターカーの内部で見られた小麦畑や今回の花畑の事か?」

 少女は頷いて頬をバスタブの縁に乗せて俺を見上げ続ける。桃色の唇を見据えて思い出される事から目を逸らすとクスクスと笑う声が聞こえた。

〈そう。絶えず情報が更新され続ける電脳の海の中で、そこに表示される世界だけはまるで氷漬けにされたかのように、動かない。私の中に流れ込み言葉を犯す情報がその時だけは鳴りを潜めるの。だから口を開いて自分の言葉を発する事が出来る。変でしょ?〉

 そうか、だから彼女は電脳人魚と呼ばれているのか。

「氷漬けの海を泳ぐ人魚か。それとも氷山の上で歌うセイレーンか。どちらにせよ、アンタの生きる世界は血塗られる事で成立しているんだな」

 俺の穿った本質に彼女は目を伏せた。

「すまない」

〈どうして謝るの? 事実よ?〉

「いいや。アンタに対しての加害が決して行動だけではなく、言葉もそれに該当すると思わされた。だから俺の非だ」

 彼女はグッと俺の眼を見据えた。

〈なら、もうちょっと我儘を言っても、許してくれる? 残り少ない命なんだから〉

「駆け引きが上手いな」

〈それが私の特技です。ねぇ、ウォルターの事教えて、趣味は何? 将来の夢は?〉

 俺は少し考えて答えを出した。

「将来の夢……か。許されるなら普通の暮らしがしたい。休日に一緒に映画観るみたいな」

 彼女はうんうんと頷くから、俺は同じ質問を彼女に返す。

〈私は、この世界の美味しい物を全部食べ尽くす事、自分の足で歩いてね? 趣味はー、B級グルメの食べ歩きと、くふふ。陰謀論系の動画を見て『愚かですねぇ』とほくそ笑みながら牛乳を飲む事ですかね〉

「クソみたいな性格だな」

〈ねぇねぇ、じゃあ好きな映画は?〉

「ヒーロー物は大抵好きだ。後は不幸な境遇から立ち直る話とかだな」

〈素敵! 顔に似合わず良い趣味ね〉

「うるさい! そういうアンタは?」

〈ノンフィクション系とかを史実と照らして観るのは好きですよ。後はそう! 探偵物、先に犯人を見つけてしまうのがたまにキズですけど!〉

「はっ、微笑ましいこった」

 おかしな話かも知れない。殺すかもしれない少女に対して同情を産んでいるのだから。

「もう十分にあったまったろ。俺は出るからな」

〈もう、想像力は減点。これ以上説明せずとも分かるでしょ? 身体を拭くまでが貴方の仕事よ〉

 あぁ、そうだった……。俺は舌打ちして彼女の風呂の世話を仕方なく行った。

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