第6話
「私はそんな風には考えないわ」
例えば、彼女はその日言った。
ある春の日、僕と彼女がいつものように蔵で何もしていない時だった。僕はソファーで巨大なくまの出てくる極端に分厚い本を読み、たぶん本の感想か何かを述べたのだろう。彼女はその本を無論とっくに読んでいて、僕の感想を聞いて言ったのだった。その前後の会話は何一つ覚えていないし、もしかしたら彼女の独り言だったのかもしれない。
「時計がないと時間がわからないでしょ」
そういえば、そんな事も言っていた気もする。
そんな日の午後だった。
彼女の蔵が燃えた。
ボヤとかいうものではなかった。
一つの火の玉のように、命が燃え尽きるように蔵は最後まで燃え尽きた。
いわゆる全焼というもので、外の側も中のモノも跡形なく一つ残らず燃えた。
その時、彼女は幸か不幸か、買い物に行っており、彼女は全くの無事だった。
僕は文句なく幸運で、全然違うところにいた。
その火事によって、彼女のモノはすべて燃え、唯一残ったのは、僕と蔵の外の桜だけとなった――かと思いきや、しかし、彼女は実は、彼女の家に銀行通帳や、彼女の祖母や母の貴金属類や、その他重要な不動産等の権利書類等、所謂『家族にま つわる彼女のモノではない貴重品』については、丸ごと家に置いてあったということが判明した。結果として、彼女が生活するのに必要なものはそのまま残っていたし、離れにあったトイレと風呂も無事だった。
つまり、燃えたのは客観的に見れば彼女の取るに足らない私物のみで、周りの大人たちは、「良かったわね、大事なものが燃えなくて」と口々に言った。また、彼女は警察に念入りに取り調べを受け「燃えやすい物はあったか」、「ちゃんとそうならないようにしていたか」、など彼女にとって最大限に屈辱的な質問を受け続けた。最終的には、老朽化した電気系統が発火原因だったということで、何事もなかったかのように近所でもすぐに忘れ去られる事件となった。
そして蔵を除き、全ては元通りとなった。
ただし、それは彼女を構成する大部分の消滅を意味していた。
その日から一週間、彼女は学校へ来なかった。
僕にも連絡がなかった。
唯一残った彼女のモノにさえ、全く声がかからなかったのだ。
○
そして、一週間後の早朝、彼女の家の固定電話から僕の携帯電話に着信があった。
「今日の放課後、私の家に来なさい」
それはしっかりとした声だった。
なにか唯一残った彼女のモノである僕に対する甘えや懇願みたいなものも一切感じられなかった。
僕が彼女の家につくと、彼女は普通に玄関に出てきて、髪が全て白髪になっているとか目の下にクマができて栄養を取っていない、みたいなことになっているということもなかった。着ているものは制服で、学校へは来ていないが、これは今後どうあれ必要だから新たに購入したのだろう。
僕は彼女の後ろについて廊下を歩いているときに、ちらっと例の仏間を見たが、四人の隣に、蔵の写真が飾ってあったわけでもなく、彼女が持っていたモノをデッサンした紙が部屋一面に散らかっているということもなかった。
というより、家はいつもよりも綺麗に、それこそ彼女の蔵のようにいつもより綺麗に掃除をされていた。おそらく、この一週間の間、掃除を主にしていたのだろう。それは、ここに住むことにした、という覚悟のようにも思えたし、全てを整理し終えて、これから部屋を出て行くようにも見えた。一週間というのは、掃除だけをするには、少し長い。
彼女は僕がここに来るときに、一つだけ条件をつけた。それは僕の持っているフィルムを全て持ってこい、というものだった。そういえば、僕は編集のためフィルムを自宅へ持っていくことも多く、フィルムのいくつかは僕が自室に保管していた。それを持ってくるように言われたのだった。
そして、彼女と僕はいつもの映写室に入り、そのまま特に会話をすることもないまま、それを次々と写していった。
その中に写っている映像は、やはり蔵の映像がメインで、必要以上に昔の映像という感じがした。全ては失われ、この作品を撮るカメラすら存在しない。ここに写っている全ては既に失われている。全ての映画には死人が写っている、といったのはどの監督だかは忘れたが、そこに写っている彼女のものは、白黒なのも相まってか、既に死んでいるように見えた。
一方で、それを見ている自分たち、というのはとてもここに存在がいるとは思えないくらいで、もしかしたら自分もこの消失とともに失われているのではないかとも思った。僕だっておそらくあそこに人生の三年くらいはいたのだから。
そして最後に見たのが、ついこの間とった今年の桜のフィルムだった。こうして連続して見てみると、僕の撮影技術も多少は向上を見せているようで、何もかもが、何も変わっていないなんてことはなかったのだと思い知らされる。
「これをずっと取っておいてね」
全てを見終えて、彼女は言った。
まだ真っ暗な室内、その中でだった。
僕がカーテンを開けると、部屋に光が差し込み、。そこにいる彼女は思っているよりはやはり元気そう、というよりいつもと変わらないように思えた。
それはやはり僕をホッとさせもしたし、不安にさせもした。いつもとかわらない、という表現自体が彼女のどうしようもない変化を表現していることは間違いないのだ。
彼女は新品の制服を着ていて、彼女がいつも髪を結んでいた髪留めすらも全て失われ、長い束縛されていない髪形の彼女がそこにいた。
「終わった。終わった」
と二回笑って言った。
「これだけの喪失感はないわ。おばあちゃんが亡くなった時よりもだわ」
笑って言ったが、僕はまだ口を開かない。
「でも、落ち込んでいるわけじゃないの。すべてを失うと、開放されるしか無い。私の好きだった本に書いてあったわ」
一つの物を失うだけで最低二週間は機嫌が悪くなる彼女。
「朝起きるたびに、自分が自分で無くなっていくのがわかるの」
それはそうだろう。彼女を構成する全てが、完全に失われてしまったのだから。
「代わりに、いろいろなことを思い出したわ。パパのこと、ママのこと、おじいちゃんのこと、おばあちゃんのこと、どうして忘れてしまっていたのか、それも思い出せない」
彼女は懐かしげに言って、そして僕を見た。
「一応言っておくわ。私たちは、大事なことを言葉にしないで、わかったふりをしすぎていた。というより、お互いのことを信頼しすぎていたと思うから」
それは全くその通りだった。
「あんたでしょう? 蔵を燃やしたの」
あっさりと彼女は言った。
「何をしたのか、わかってる?」
僕は頷く。
「もちろん。僕ぐらいわかっている人間はいない」
「そうね」
と彼女は言った。
「でも、一週間考えてみたのだけど、いえ、これまでのことを全て思い返してみたのだけど、いろいろと思い当たりすぎて、理由が判然としないの。まあ、聞かないけど」
僕はうなずく。
「そうね」
と彼女は言った。
「そう」
僕の沈黙に、もう一度彼女は言って、全く異論もないように同意した。
「ねえ、さわらせて」
とさくらは言った。
言って、僕の了承を待たず、まるで赤ん坊のように僕に手を伸ばす。彼女は、自分の持ち物に触るときのように、優しい手付きで僕を触る。彼女は僕の頬に触れ、首に触れ、そこから少しだけ下にいきそうになって、しかし、もう一度頬に戻って、そこで終わった。彼女は僕から手を放す。
「……」
やはり、僕らは間違っていたのだろう。
最初から。全てが。
そう思って、今度は僕から話した。全てを。
僕が思っていた全ての言葉を伝えた。それは彼女が言った通り、聞くまでもないこと、言うまでもないことだったかもしれないし、言うことによって安っぽくなるようなことしかなく、感情的にもなってしまい、ひどくまとまらない話にもなってしまった。
彼女は終始穏やかに聞いていて、
「後悔はしていない。しない」
という僕の言葉に、
「そうだね」
やはり完全に同意した。そこからは、深夜近くまで、僕らはいろいろなことを語り合い、どうしてかはわからないが、二人共、人生で一番笑った夜となった。
そして翌日から彼女は普段通り学校へ来ることとなり。
僕に話しかけることはなくなった。
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