第5話

 例えば、それは、ただの好奇心だった。

 小学校の時から彼女は近所では評判のお嬢様で、広い庭を自慢のバイタリティで駆け回っていたのが僕の記憶にも残っている。両親も非の打ちどころがなく品行方正で美しく、すごいですね、としか言いようのない職業をしていたということだ。祖父や祖母もいつもにこやか、幸せを絵に描いたような完璧さで、羨むこともできないような美しい世界の中に彼女はいた。

 しかし、隣に住んでいて二階からそれが見えたりしていたものの、僕らのつながりと言えば、幼稚園と小学校の入学の時に、彼女の両親が僕の両親と挨拶をしている記憶があるくらいだ。そして、彼女の両親が死んでからは、彼女が庭を走り回る姿も見なくなっていた。

 そんな幸福も悲劇も他人事でしかない程度の距離感にいた僕らだったが、ある日、近所の駐車場の入り口で、彼女が傘を差して、一人立ち尽くしているのを見かけた。それがきっかけだった。

 その時、彼女の足元には一つのダンボールがあり、その中からは彼女より小さな生き物が、うー、と鳴いている音がした。彼女は名探偵のように、うろうろと、どうしたものかと、しかし結論はもう決めているように、何度もそこを往復していた。

 そこで僕も彼女に見つかった。

「この場所は、私のモノしか入れないの。貴方が、私の持ちモノになるなら、蔵に入ってもいいわ」

 子猫の入ったダンボールを持ちながら蔵の前で言う彼女。

「わかった」

 とわかっていないのに言ったのは、あれが最初で最後だったと思う。

 僕はそれ以来衝動的な返事はしないと決めている。当時の僕は、ただ、猫が心配だったのだと思う。そして、彼女を全く信用していなかった、というのが完全に正しい。そうして僕らは蔵の片隅で猫を育てることになった。

 その猫は、すぐに死んでしまった。

 もともと病気を持っていたらしく、自分の手でその生命を終わらせるのを拒んだ人間が、その責任を誰かに負わせるために駐車場に置いていっただけなのだった。短命に終わるのは必然だった。だからなるようになったのだ。

 その時のさくらのことは、申し訳ないが、語りたくない。


                ○


 そうして、残った僕は彼女のモノとして、彼女と蔵で一緒に時間を過ごすことになった。

 唯一残っていた彼女の家族、彼女のおばあちゃんは、彼女に初めて友だちができたことをとても喜んでいた。「友達じゃなくて、私のモノなの!」という彼女の言葉を、いつも微笑んで聞いていた。

 彼女のおばあちゃんはとても優しく、彼女の人格形成に好影響を与えた人物だったといえる。

 僕にもとても優しく、遊びに行くといつだって僕にお菓子を出してくれた。しかし、彼女が私のモノだもん、といいながら時に僕のお菓子を食べていた。結局食い意地が強いのだあの女は。絶対に忘れない。

 ともかく、当時、おばあちゃんだけは唯一彼女のモノではなく、彼女の家族だった。

しかし、ここでもやはり彼女は完璧に正しいのだが「一生もの」というにはおばあちゃんは足りない。

 おばあちゃんは彼女が中学に上がるとともに亡くなり、結局、彼女の手の届く世界全てが、彼女のモノと、それ以外、となった。


                ○


 それ以来、僕はいつだって彼女のモノであり続けた。

 おばあちゃんが死んでから、いろいろな選択肢が取れただろうが、僕らは結局そう落ち着いた。

 そうなった一番の理由は、彼女がそれ以外になることを極端に嫌ったからだった。自分の物以外は、失われていくもの、そういう風に思ってしまうのだろう、一時期は僕をも遠ざけようとした。僕が彼女のそばにいるには、そうするしか方法がなかった。今でもそれに関しては他の選択肢があったとは思えない。逆に「お前は俺のものだ」なんていうセリフがはければよかったのかもしれないが、そうなったらそうなったで後々ややこしいことになっていただろうし、何より「違う」と一言言われ終わってしまっただろう。現実とは時に思い描くロマンスが入る隙間もない。一度心が閉じてしまうと、そこに他人が入るのには不可能になることもある。その時の彼女は、完全に心を閉ざそうとしていた。だから、僕も持ちモノとして蔵に滑り込みで入る必要が有った。しかし結局、僕が入ったという些細な事実は後への影響を残さず、結局扉は閉じてしまった。


                ○


「貴方は私のモノなんだから」

 そういえば、これを言われたのは、実は二度だけだ。いや、高校生で二回は多いとも言えるかもしれないが。

 一度目は例のきっかけともなった猫の時。

 そして二度目は、おばあちゃんが死んだ時だ。

 猫が死んだときのことは話さないが、おばあちゃんが死んだときのことは話そう。

 あの日、お葬式の帰り、僕らは家まで何も話さなかった。

 話さず、ずっと家までの道を二人で歩いた。

 月までもが彼女の空白を照らしていて、世界全てが彼女の敵だった。

 僕は彼女の隣にいて、何一つ話さないまま、小さな女の子のお守りのぬいぐるみのように、彼女がその夜を乗り越えられることを願った。願うことしかできなかった。

「貴方は私のモノなんだから」

 そして、二度目で本当の契約をした。

 それまでの僕らは、ただの気の強い女の子と気の弱い男の子だったが、あらゆる意味で全ては反転した。僕らは気の弱い女の子と気の強い男となっていたし、彼女のことを全く信じていなかった僕が、完全に彼女を信じるようになった。

 非難覚悟でいうが、あれだけ美しい夜はなかった。

 あのときほど、僕は世界の美しさを感じたことはない。

 何も持っていない彼女に握られている僕が、とても大切なものに感じられた。

 その時、僕はずっと彼女のそばにいようと、固く決意した。

 本当に、僕ぐらい矛盾した人間はいない。

 彼女は僕がいなければ、彼女は今日にでも世界を完成させると思う。僕がいなければ、彼女は蔵の中で一人、幸せな日々を過ごすことができるようになるだろう。それに関して、優しい異論を唱えたくなる人もいるだろうが、それらはすべて間違っている。彼女の世界は閉じることで完成をする。これは間違いないことなのだ。

 しかし、僕は誰よりもそれがわかりながら、あの猫のようになってはいけない、いつだってそう思っている。本当に、自分でもよくわからない不完全な人間である。そんな時に僕は彼女の完璧さを思う。そして僕はさくらの所有物へと思考をスライドさせる。なにか彼女を構成しているパーツのように。僕は彼女のモノで、彼女にとって持ちモノは何よりも大切なもので、持ちつ持たれつ《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》、なんて言葉を使いながら。僕は彼女に必要なものだと錯覚をさせる。

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