第4話
例えば、彼女は映画が好きだ。
彼女が自分の持ち物以外で何かを好きだ、と断言するものは少ないが、映画はとても好きと言える。
彼女はとにかく蔵で過ごす時間が長いのだから、そこで何か時間を費やす必要がある。なにも彼女も蔵にいるからといって、四六時中ニコニコしているわけではないのだ。蔵にいる、というのは彼女にとって酸素がある、とかその辺の必要十分条件的なもので、蔵での時間をより有意義に過ごすため、何かをそこでやる必要があり、蔵での時間の過ごし方の一つに映画がある。
第一に、彼女がどんな映画を好きなのかというと、これは古い映画を好む。彼女は誰かに見せるために無理して古いおしゃれな映画を見たりするような人間ではないが、通ぶったようなドイツ印象主義のころのドイツ映画や全盛期のロシア映画のようなものを好む。グリフィスやアイゼンステインなどを見て「タイムレス」「普遍的である」とどこかの評論家のようにいったりもするが、内容をわかって言っているのかは不明だ。
おそらく、彼女のこれらの映画への評価は、時の洗礼を経たものへの信頼と経てないものへの不信からくるもので、これは自分が一生を持って好きだと言えるのか、といった視点で判断している節もあり、普通に最近の恋愛映画を見て感動したりもするが、それは一応客観的な評価を待つまで、無理に感想を控えたりもする。本当は普通に女子高校生が好きそうなべたな恋愛ものが好きなのを僕は知っている。
また、映画館には諸事情あって殆ど行かない。諸事情というか、映画は蔵で見れるので、行かない、だ。なので、基本的にはDVDやBDをレンタルで借りてくるが(プレイヤーは僕のものを使う)、とても良い作品などがあると、それは本のように買って所有したいと思うようで、BDの購入を考えたりもする。しかし、問題はその購入媒体でDVDやBDは30年後存在しているのか? レーザーディスクのようにはならないだろうな、次世代メディアは何なのだ、ストリーミングはパソコンが必要だけど誰が用意するのか、などと再び家電量販店の店員のあずかり知らない領域の質問と恫喝を繰り返している。必ず次があるはず、と彼女は油断しない。
そしてこんな闘論の後、彼女は決まって、いや、だからフィルムなのよ、と言う。
○
ここで本題に入るのだが、彼女の祖父のコレクションに、フィルムカメラがある。
ボレックスというスイス製の16ミリカメラで、作られたのは80年も前になる。構造が基本的にはゼンマイ仕掛けのシンプルなものであバッテリーや電池なども必要とせず、フィルムさえ製造中止にならなければ、カメラはいつまでも使い続けられるということもあって、彼女からの信頼は絶大である。そして彼女の持ち物であるカメラを使える、フィルムは百年以上前のものが現存しているから保存も問題ないなど、これらを総合すると、彼女がフィルムを愛するには一石二鳥以上の意味がある。
しかし、一方でそのカメラが使う16ミリフィルムは現像代を抜きで一つ数千円するようなもので、しかも取れる映像はやり直しなしで一分半程度、しかもフィルムの扱いを間違えるとフィルム全部が簡単にダメになるというおまけ付き。コストパフォーマンスという点から考えると常人が手を出すようなものではない。しかしそこでも前述の理由に加え、祖父の残したフィルムがすべて再生可能であることなどが彼女の支えとなっていて、時間の価値を考えろ、と僕は常に説得を受け、僕はそのカメラを構えるに至る。
僕が。
驚くことだが、彼女はフィルムを買い、それをカメラと一緒に僕に渡す。僕はカメラを持つ。僕は彼女のカメラマンに任命されている。
これについては、昔、一生使うのであれば自分で作ればいいのだ、と自作でラジオを作ったということがあったのだが、常に本格志向である彼女は真空管アンプにまで手を出し、それは初心者が最初からうまく作れるわけもなく、完全なる失敗を期したという経験からである。今でも蔵には、まるで自分を戒めるかのように、失敗した真空アンプが並べておいてある。だから彼女は何かを作る作業については、自分を信用しない。
だから僕がカメラを持ち、撮影をし、僕がフィルムを編集し、自分が見たい時に見せてもらう、という僕には迷惑極まりない妥協点を見出されることとなった。
○
そして、僕がなにを撮るのかだが、これは本当に僕にもアイデアがない。誰かに聞きたいくらいに。近所の犬を撮ってみたり、空を撮ってみたり、交通量の多い道を撮ってみたり、本当に彼女も僕にカメラを任せた甲斐がないような過去の作品が僕の部屋に並んでいる。
彼女は自分のぬいぐるみなどを積極的にとってもらおうともするが、しかし動きもしないぬいぐるみを僕の震える手でとっている場合でもない。また、被写体として彼女は撮っているだけでドラマになると言う点でも、僕のフィルムに収まるにはふさわしいのだが、これについては彼女はとても嫌がる。
別に動画でなくとも、彼女は写真も撮られるのを嫌がり、自分が何かに残るのを極端に嫌がる。クラスの集合写真でさえ、結果的に右上に乗ることがなければ欠席するだろうと思われる。魂を抜かれると思っているのか忍者なのか、記録にも人の記憶にも残らないでおこうとしているのか、自分にそそぐ愛が無いのか、理由は定かではない。
そして僕は、仕様がなく、桜の木を撮ったりする。
蔵のすぐ隣に一本桜の木がある。
これは彼女が生まれたと同時に庭に植えられたもので、それは蔵の外にある彼女の唯一の所有物となっており、言わずもがな、彼女に大事にされている。
桜が咲いている時などは、毎日見に来いと言われ、一分咲きの大分前の「咲く予感がする」、と彼女が言い始めてから見ることになり、毎日、花見のリハーサルのようなものを長時間強要されることも毎年の恒例行事となっている。
「私の両親がね、これを植えた次の日に、私が生まれたんだって。だからこの子は私のお姉さんなの」
とこれは毎年彼女に教えてもらうことである。
実は彼女のさくらという名前も桜好きの両親からつけられている。そして一心同体の姉妹のように、彼女はその桜が咲き始めると気分が高揚し始め、散ると少しの間だけ気分が落ち込む。桜前線と全くおなじテンションの上がり下がりをすると考えて貰えばいい。
話をフィルムカメラに戻すが、僕は桜の季節になると、フィルムで桜を定点で毎日数秒間だけ写し、桜の開花と散りゆく様子までを毎日収める。それをつなげて見ると、学校で見せられる植物の成長動画みたいな何のひねりの無い作りではあるものの、やはり桜のパワーで一本の作品としてある程度見られる仕上がりになったりする。それを観るのを彼女は毎年とても楽しみにしており、自宅で編集作業をしている僕に、まだかまだかと映画プロデューサー並みの催促を受け続ける。
毎年、それが出来上がると二人でその年の桜を見る試写会が開催される。桜が散ってテンションが下がっている彼女にはピッタリのイベントである。この試写会の唯一の問題は、映写機だけが彼女の家にある、と言うことだ。
○
フィルムを見るとき、僕らは彼女の家に行く。
彼女の家、というのは恐らく最初に触れた以来だが、もちろん彼女には家がある。それは彼女の蔵の隣にある、お屋敷と呼べるような和式の豪邸を指す。蔵というのは本来、彼女の家の広大な敷地にある、おまけのような建物だ。
彼女は普段から極力家には近寄らない。誰か嫌な人間がその家いると言うわけでもない。家には誰もいない。しかし、今まで散々述べてきたように、彼女は寝泊まりは蔵でするし、料理も蔵でする。風呂とトイレは僕もここでしか見たことのない離れにあるため、彼女が家に入ることはほとんどない。
そんな彼女の家、そこにある無数の部屋の一室を暗室にして、僕らは現像したフィルムを見ることにしている。
フィルムを見るには映写機が必要であり、映写機自体が場所をとることに加え、蔵の中ではスクリーンも含めた場所は確保できない。そこで、部屋は余ってるんだし、といって彼女の家の一室を映写室にすることになったという経緯だった。
そこで先に述べた桜を含めた僕の作品を僕らは二人で見る。見終わり、各々感想を述べると、
「ついでに掃除でもしていきましょ」
と彼女はいつも言う。
蔵の掃除は前述の通り彼女一人で行うが、ここでは僕は掃除に誘われる。
蔵での掃除と愛でる作業を同時にできるのでこれ以上ないくらい楽しそうだが、ここでの掃除はそうではない。
広いものね、一人で掃除するには、とそれは独り言のように毎回言うが、手分けをするというわけでもなく、一部屋一部屋同じ場所を二人で掃除していく。その丁寧さ、掃除にかける熱情は、蔵と遜色は無い。
そして平行世界のように続く連続した和室の掃除が終わると、最後に四人の写真が飾ってある部屋にたどり着く。
ここでは彼女は一人で掃除をし、僕はそれを見ているだけになる。それは、最初にここを二人で掃除した際に「ここは私が一人でやるわ」といい、僕がそれならと他のところを掃除しようと行こうとしたら「そこにいて」と彼女が言ったことが最初だった。それからというもの、彼女が一人で掃除をし、僕がそれを部屋の外から見ている、という構図で掃除を行う。
今まで、彼女がこの家を自分のもの、と呼んだことはない。この家のことを指すとき、「ちょっと行ってくる」とか「待ってて」とか、彼女はそのような言葉をつかう。彼女の帰る場所はいつだって蔵だ。
空白、というのがあの家の意味で、それは蔵の空きスペースとは違う、永遠に失われてしまったものの象徴。彼女はあの家に足を踏み入れるとき、否応なく喪失と向き合う必要が有る。それは今後も永遠に変わることのない。しかし彼女は家を壊すこともできない。だって、それは彼女の家族が住んでいた家なのだ。
掃除をし終えて、彼女は仏壇の前に座り、ロウソクに火をつける。手を合わせ、それほど長くない時間、彼女は何かを報告する。それが「いつもありがとうございます」なのか、「やすらかに」なのか、「ごめんなさい」なのか、僕にはわからないが、ともかくそれほど長くないのが印象に残る。
それが終わると僕も初めて部屋の中に入ることを許される。僕はついでに手を合わさせてもらう。しかし僕は彼らに何かを報告することもないし願うこともない。無言、というのが彼らと僕との対話で、僕がなんとかします、などとも言うこともできないのが自分でも悲しい。
そうして僕らは掃除を終える。また蔵へと二人で戻る。
彼女の家から、彼女は帰る。
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