第2話
「なんか最近冷蔵庫の調子がおかしい」
数日前に彼女が言ったときにはすでに彼女の調子もおかしく、例の掃除を一日七度実施するなどで気を紛らわしていたことが記憶に新しい。
その異変は日曜早朝に起こった。
僕の携帯が鳴り、大変なことになった、と彼女からこれ以上ないくらいの深刻な声で電話があった時、僕はまさか冷凍していたイカが朝起きたらダメになっていた、ということがその大変なことだったとは知らず、急いで駆けつけたものだった。
僕が現場に到着した時、それは本当に殺人事件が起こった時のような、第一発見者のような表情で彼女はふにゃけたイカをこれ以上なく動揺した面持ちで見つめていた。
「冷蔵庫の冷凍室が壊れたの。そしてイカが……」
そしてイカが。ショックのあまりその言葉の後を継げなかった彼女に僕は笑いを堪えたが、しかしそのイカを我が子のように抱きかかえようとした彼女を冷静にひとまず止め、イカを処理するところから始めた。
「どうしよう、メーカーに電話をしたんだけど、もうこの冷蔵庫は生産していなくて、20年前に保証も終了しているんだって。どうしよう、一生冷凍室がない生活って可能なのかしら? どうしよう」
新しいのを買った方がいいんじゃ、というアドバイス以外が思い浮かばなかった僕は沈黙したが、明晰な彼女の頭脳もずっとその結論には至らなかったようで、僕と彼女はしばらく二人でその場に立ち尽くした。
もちろん彼女にとってこれは当然で、前述の性癖を持つ彼女は、自分の冷蔵庫を捨てる、そんな結論には至らない。至らないというか、論理の外にある。小指が折れたから引きちぎればいい、とはならないのだ。このままだと確実に数年後には冷凍に頼らない暮らしというのを実践しているだろう。
なので僕は僕で頭を捻って解決策になるようなものを考えたが、怪盗か何かが来てこれを奪い去ってくれる、というアイデアを思いついたくらいで、何の目的があって怪盗がこんな大型ゴミを盗むのだろう、と口には出していないが少し笑みをこぼしてしまい、彼女に不審がられた。
一時は、壊れた冷凍室のスペースを収納として活用する、ぬいぐるみをしまう、というファックな案も彼女から出たが、そんなところにいれられるお前の大切なものは幸せなのか、という僕のフォローに彼女は心を動かされたらしく「そうね」と断念した。
しかし、納得はしたものの、冷蔵庫ほどの粗大ゴミを捨てられない、というのは彼女の性格をよく知る僕ですらなかなか驚く事実だったというのがある。たとえ新しいものを買うにしても、おそらく新しい冷蔵庫の隣に、あの柱時計のようにこいつは残り続けるのだ。それを見越して新しいのを買うのを躊躇しているのであれば、彼女には先見の明があるとも言える。
大して重要性もない話なので、早くも事の顛末を話してしまうが、結局、彼女は問い合わせに問い合わせを重ね、おそらくどんな薬物でも手に入るくらいのリサーチを重ねた結果、滋賀にある型番は違うが似た部品を使用している冷蔵庫の部品を代用して冷凍室は動くこととなった。
どうでも良い出来事だったが、ふと思い出したので書いてみた。
○
彼女が祖父から蔵を受け継いだ時には、蔵はひどい有様だったという。彼女の祖父は特に収集家というわけではなかったものの、しかし物欲と所有欲が孫から伝染したのか、財力に任せて買ったのであろう骨董品やアンティーク調のあれこれが、脈絡も調和もなく蔵の中にはちりばめられていた。結果、特にひどくどうでもいいものが大切そうにしまわれていたり、誰にとっても大切なものがむき出しになっていたりしていたりと、当初は悲惨な状態だったらしい。
そんな蔵の中の物の配置は、蔵を受け継いだ彼女によって適切なものに変えられるかと思われたが、しかし彼女は自分の持ち物については博愛主義を貫き通していて、そこに重要性などの分別を設けることはない。結果として、やはり高価なものや貴重なものが特別待遇を受けることもなく、結局まともな配置換えは行われなかった。そしてそこに彼女の私物、彼女の両親や祖母の遺品なども加わって、複数の玩具箱が衝突したような、混沌とした物群が現在の蔵の全容となっている。
その中には、先の冷蔵庫のように、すでに購入から十年以上が経過した家電製品もあり、問題も起こりやすくなっている。その一方で、彼女が自分の持ちモノとする、とチョイスをしたものは、一生もの、という冠が付くくらいの長期使用が最初から想定され購入されているという事実もある。
コストパフォーマンス、と言うのは彼女の脳髄に電車の電光掲示板のごとく絶え間なく流れている概念で、値段は安くすむほうがよく、しかし一生モノ、というのに耐えうるモノにはお金が必要で――と常に彼女は苦悶しており、加えて彼女は所持金を一円単位まで記録している超高校級の守銭奴ということも合わさり、彼女の買い物は想像を絶する綿密な計画を立てて行われる。
まあ、彼女のように、十代のうちから、そういった予期される持つことと捨てることに意識を配ることは、経済観念がしっかりしていると言えるし、本来褒められることもあることかもしれない。しかし家電量販店などに行って、保証は、その後の保証は、と店員に詰めよる様は見るに堪えない。店員も、親しい友人とだってそんな未来のことを語らったことはないだろう。しかし彼女はやめない。理想と現実の差は常に強い信念で埋めなければならない。
○
その図書館には、彼女の本がたくさんあった。
思い出したものを、特に脈絡なく話させてもらっている。
何にも助走というのは必要と思う。
例えば、彼女は、図書館を愛している。
諸事情からあまり本を買えない彼女が、図書館を特別な場所と感じるのに、これ以上説明は必要ないと思われるが、その図書館では、ふと手に取った本に、彼女の名前が書いてあることについては多少説明の必要が有るかもしれない。
近所に、彼女の両親が、彼女が小さい時からよく連れてきていた図書館がある。彼女はそこで、寒い日などは朝からマフラーを巻き、新刊をゲットするため、開店前のパチンコに並ぶおじさんのようによく待つことも珍しくない。そこまではギリギリ合法なので、僕も文句をつける気はないのだが、問題は彼女が借りた本についてだ。
彼女は借りた本に自分の名前を書いてしまうことがある。それはしてしまう、という表現が正しいのだけど、それはマーキングのように、気に入った本を見つけるとどうしても彼女は名前を書いてしまう。そして、その図書館ではそれが何年も繰り返されているのだから、彼女の名前が書かれた本については、既にかなりの量になっている。僕も彼女に付き合ってその図書館に行き、ふと手に取った本に「さくら」と書いてあると、ハッと、何か先回りをされたような恐怖感を覚えることがある。
もちろん彼女を出入り禁止にしたうえで、警察沙汰になるべき事案であるが、図書館に勤めている司書さんも全員、彼女のことをなまじっか小さな時から知っているものだから、みんな彼女に激甘で、それを黙認していると言ったことが起こっている。まあいい。その図書館が、閉館するということになったのだ。
もともとその図書館のヘビーユーザーといえば彼女だけで、その次が僕に来るくらいに市民に愛されない図書館だった。そこが自然の摂理で閉鎖されるということになったのだった。
「それはダメです、ここがなくなるなんて」
彼女は言う。おい、何を言い出すつもりだ、この女。と思ったのは僕だけではなかったよう。職員さんも反応した。
「さくらちゃん、だめって言っても仕方がないんだよ。もう決まっちゃったことだから」
「駄目です。私がなんとかします!」
それはそういうのだ。
「……」
僕はそれを隣で聞いているのだ。
「どういうことだい? さくらちゃん」
「だって、ここは私の大切な、私の図書館ですから!」
「はっ」
とその感嘆の声は僕の口から出た言葉だった。
私の、という言葉に反応した。
長年の図書館通いで、すでにこの図書館は彼女のモノになっていたのだろうか。見落としていた。そんな馬鹿な話が、と僕は思う。しかし、そうなると、もしかするととんでもないことになるぞ、と思った矢先、
「私買うわ、あの図書館」
彼女は言った。
「無理だ。固定資産税だけでも払いきれない」
と彼女が言い出したときには、僕の税の計算も終わっていた。僕もここで色々と本を読んでいるのだ。ありがとう図書館。願わくばさようなら。
「まずここを買ってどうするんだよ。少子化で地方の不動産価格は値崩れもするだろうし、こんな立地的にも使いどころのない物件は、テナントとしても使いにくいよ!」
などとどうしてか僕は不動産運用の視点からの話を主にしていたが、とにかく彼女に説得を試みていた。
「でも、ここがなくなるですって?」
普段ならこう言い出したときには基本的には手遅れで彼女の好きにさせるしかないところであるが、しかし今回はことの大きさも相まって、彼女も僕の話に耳を傾けていた。
「だっておかしいじゃない。ここにある本は全部読めるし、捨てる必要なんてないじゃない」
「それはそうだけど、本は読めるかよりも、読まれるかどうかが大事なんだよ」
「別に図書館なんだから、もともとお金なんてとってないじゃない。それだったら私が読むわ」
彼女は自分の都合でモノを語る人間でしかないのだが、こう言われると困る。図書館に限らず、利用する価値が保てなくなくなったから無くなる、それは世界のルールに近い。燃えるゴミはもやされ、燃えないゴミは燃やされないが、人目のつかないところに埋められる。本は燃やせるのだから燃やされるのだ。
さて、当然これも小話であり先を急ぐ必要もあるため、その後の図書館職員や市をも巻き込んだ『図書館戦争』と僕が名付けた彼女の闘争についての詳細は割愛するが、彼女が一人で五千名の署名を自分の名前だけで埋めたり、一度取り壊しに納得した彼女がやはり納得できないと、もう一度図書館の保存に乗り出すという『後期図書館戦争』なども勃発したりと、本当に無駄なやりとりがあった。最終的には閉鎖を一緒に惜しんでいた図書館職員一同も、やっと閉められる、と涙を流して喜んだ。
そうして、戦争は何も生まないという普遍的な事実を再認識することになったものの、しかし、戦争の唯一の成果として、図書館のほとんどの本は近所の学校や幼稚園などに寄付されることになり、本の喪失自体は避けられたということがあった。
彼女は自分の名前が書いてある本が送られる際も、朝早く図書館に見送りに来た。
「これで良かったのよね」
彼女はトラックで運ばれていく本を見ながら言う。
こういったのは、自分に言い聞かせるためだったので、別に僕が返事する必要もなかったのだが、
「良かったんだよ」
と僕は言った。僕も朝早く起こされ来ていた。
「さよなら、私の図書館」
「……」
私の、と言いながら建物を見つめる彼女が、やっぱり建物だけは自分のモノにする、と言いださないかどうか不安で、僕は今直ぐ図書館を爆破解体したいくらいだったが、ありがとうございます、さくらの名前の入ったものが大切に扱われますように、と小さなお祈りもした。うん、僕が何に祈ったのかはわからない。
○
図書館って。
と書いていて思った。
そういえば、当然かもしれないが、彼女は携帯電話なども持っていない。
これは現存するスマホには一生の使用に耐えうるものがないため、というのが理由で、基本的には彼女の周りにはタブレットやPCや、その他最新機器と呼ばれるものはない。最新機器はいずれ最新ではなくなり、流行りは終わっていく。すべてを極端な長期スパンで考える彼女には、それらは価値のないもの、として最初から持たれもしないといったことだ。
他にも、ファッションについても同様で、彼女は時代に流されないといえば聞こえはいいが、おしゃれはおしゃれなのかもしれないが、たまにモダンガールのような格好をもしており、昔は良かった、全ては消費されるためにではなく、みたいなことを言って、完全に痛い感じになっている。
どこで止まるのだろうか。止まらないのだろうか。しかし彼女は全くめげる気配もない。彼女は一生モノを探し続けている。
しかし、一生モノ、という観点でいけば、このまま宝石などに手を出し始めたら終わりだな、とたまに思ったりもするが、彼女はそういうモノには、あまり惹かれない傾向があったりもする。欲しがっているのも見たこともないし、そういえば彼女の祖母や母親が持っていたと思われる宝石類も今まで見たことがない。
遺品については既に処分済みなのかもしれないし、興味を惹かれない理由については宝石類は、一生モノを過ぎて、自分が死んだ後に誰かに渡ることを考えて嫌なのかもしれないが、理由は定かではない。ただ、彼女は失われるのがわかっているからこそ大切にする、というのが本当のところかも、と近くで見ている僕は思ったりもする。それは彼女がこれまで失ってきたもののせい――なんて僕の推測でしかないが。
僕。
そういえば、余談ではあるが、彼女の持ちモノは僕以外全て無機物であって、動くものだってカエルのおもちゃと僕くらいのものだ。昔はシンバルを叩く猿もいたが、あいつは度重なる延命措置の甲斐なく、ついには活動を停止した。たぶん、ご主人よりも先に遊ぶことに飽きたのだろう。
そして、未だ闊達に動き続ける僕は、それほど持たれている、という感覚もなく、彼女の蔵にしまわれることもなく自由に歩き回り、加えてそれほど大事にされている、という風でもない。僕のケアは僕に一任されているし、彼女が掃除の際に、僕の体を撫で回したり、手を持ってよく遊んでくれたりするわけでもない。あのクタクタの人形たちよりは可愛い自信もあるのだが、そうはなっていない。
ともかく、これは彼女の話なので、続ける。
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