〜アイ・ハラ〜 完結
次の瞬間、目の前で起きた事柄に、ムギは自分の感情の居場所を失ってしまった。
じっとムギを見つめる相原の目から、ひとすじの涙が零れたからだ。
この事を自分はどう思えば良いのか。
自らの人生を賭してでも憎まなければいけない相手の涙を直視出来ず、ムギはギュッと目を閉じた。
そんなムギの様子を心配して、編集長が何かを言い掛けた時、面談室に全くもって相応しく無い笑い声が響いた。
笑い声の主は勿論相原であり、これには冷静を貫いていた編集長も不意を突かれ、大きく丸い身体を強張らせた。
ムギはゆっくりと瞼を上げると、畏怖と憎悪の入り交じった目線を、相原へと向けた。
「長年暇をしていると、こんな芸当も出来るようになる。
人間とは斯くも素晴らしい生物だよ」
込み上げる怒りに従い立ち上がろうとするムギを、編集長が何とか御したが、言葉迄は止める事が出来なかった。
「僕はずっと自分の名前に苦悩し続けて来た。
それは僕の両親も同じだ。
お前には他人の人生を歪めてしまったという謝意が微塵も無いのか?」
小刻みに震えるムギに対し、相原は即座に、そして最も簡潔に答えた。
「無いな」
どうにかなってしまいそうだった。
心の何処かで願っていた。
自分が憎む『相原 十四章』が、聖人君子であり、巨悪に立ちはだかった勇敢な戦士である事を。
そうでなくても、自分の犯した罪を心の底から悔いて、ムギの憎しみすら掻き消す程に、衰弱しきっている事を。
しかし現実はそのどちらでもなく、相手はムギの考えが及ぶような生物では無かった。
重たい沈黙が続く中、編集長が問い掛けた。
「せめてこの青年に謝って欲しかった。
お前という存在が歪め続けるこの男の人生に、ひとつの句読点を打ってあげたかったのだが。
どうやらお前は巷が思い馳せる正義の味方では無いようだな」
これに相原は含み笑いを浮かべながら応えた。
「名前が嫌なら変えれば良いだけだ」
再び口を開こうとするムギに、相原は言葉を被せた。
「態々言わなくても想像出来る。
お前は名前を変えない事で、己の宿命みたいなものと闘おうとしているとでも言いたいのだろう?
実に馬鹿馬鹿しい理念だよ」
自らの思考を見事に言い当てられたムギは、次に紡ぐ言葉が思い付かず、ただ硝子越しの死刑囚の言葉を待った。
「名前とはサインだ。
名前とは個々を判別する為の目印だ。
囚人番号よろしく、それ以上でもそれ以下でもない。
その為に人生を賭す等、甚だおかしな話じゃないか。
仮に私の名前が全く違ったのであれば、私の犯した罪とお前の人生が交わる事も無かった訳だ。
ただの偶然の為に、何故必死になる必要があるのか。
理由はひとつ。
お前にそれ以外の理念が無いからだ。
そもそも、凶悪犯罪者と同じ名前を背負って生きるという苦悩が、そのままアイデンティティになってしまっているのだよ。
人間とは波のようなもの。
自らと同じ悩みを抱く者とより親密な関係を築き、其処に安堵を見出す。
皆が平穏を望む一方で、人間は不思議と人生に波紋を欲する。
殆どの人間は波ひとつ立たぬ静水面に幸せを感じ得れないし、そもそも自分ひとりでは小さな波すら起こせない。
それ故人間は必死に人生を波立たせる。
苦悩を愛し、同調を求め続ける。
親、学校、仕事、家庭、更には犯罪や芸能。
他者が起こしてくれた波を、無理矢理に自分の人生と結び付け、さも自分自身の人生が豊かであると想いたいのだ。
だからこそ、1度も会ったことも無い、なんなら本名すら知らない〝何処かの誰か〟の不倫に一喜一憂する。
何故なら自分ひとりでは波ひとつ起こせないから。
所詮羨ましいのだ。
波乱万丈が妬ましいのだ。
波が立たねば他人との関係も築けない程に脆弱だから。
そんな連中の人生に波を起こして金に変えるのが、正しくお前達週刊誌の仕事じゃないか。
だからこそお前達は既にその答えを知っている。
奴等が欲しているのは波そのもの。
その波が高ければ高い程熱狂する。
波が落ち着いた後の凪など1円にもならんだろ。
それが週刊誌の本質であり理念である以上、今日私からお前達に話せる事など何も無い。
私の起こした波は、もう既に静まろうとしている。
もしお前達がそれでも謝って欲しいと言うのなら、幾らでも謝ろう。
そして記事にすると良い。
日本史上最悪とされる事件の凶悪犯の謝罪と銘打って、小さなさざ波を起こせば良い。
だが、お前が名前を変えない原因は私ではない。
いざ名前を棄てた時に全てを失ってしまうという、自分自身への恐怖だ。
己の人生が凪に戻ってしまう事への拒絶反応だ。
故に私がこの青年に謝る事は何もないし、人とは違うアイデンティティを持ち、人生に於いて最も重要な〝苦悩〟という名の〝幸福薬〟を捧げた事に、感謝をして欲しいくらいだよ。
きっと今までその御蔭で築き上げることが出来た、素晴らしい人間関係があるだろうからな。
お前は心の何処かでその関係を築き上げたものが、自分自身ではなく自分に付けられた〝名前〟である事に気付き、嫌悪と共に胸の奥で大事に護っているのだよ」
「そろそろ時間です」
立ち会いの警務官の冷めた台詞を合図に、編集長は最後の質問をした。
「貴方が死刑を宣告されてから、実に17年の時が過ぎた。
何故まだ自分に刑が処されないのか分かるか?
また…いや、もう答えは分かっているが、この17年にも及ぶ刑を待つ時間が、貴方の心に何か変化をもたらし、死刑よりも重たい刑に変貌したと感じはしまいか?」
相原は淡々と答えた。
「私を刑に処すと、与党の支持率に影響でもあるんじゃないか?
何れにせよ、国にとっても触れられたくない事件なのだろう。
私の刑の執行は、きっと政治的意図の上で処されると思っている。
もうひとつの質問に関しては、もう分かっている通りだ。
〝何も無い〟よ。
何も感じない。
至って平穏な凪そのものさ」
警務官に誘導されながら退出していく相原の背中を、2人は静かに見つめた。
帰りのタクシーの中でも、殆ど会話は無かった。
2人共に、想像を絶する虚無感に襲われていたからだ。
移動手段を新幹線に移し、東京へと帰る途中、ほんの少し形式的な会話をした。
今回の取材についてや、東京の編集室に戻ってやる事など、会話はすれど、2人の心が元あった場所に戻って来る事は無かった。
東京駅での別れ際、編集長は実にこの男らしい言葉をムギに投げた。
「今回この取材を取り上げる決定を下したのは俺だ。
哀原にとっても良きものになると確信していた。
しかし実際は違った。
お前により強い心労を掛けてしまった事を後悔しているよ。
済まなかったな。
明日明後日としっかり休んで、実際記事にするかどうかは月曜日のお前に任せる。
それまでは一旦、今日の事を忘れろ。
良いな?」
必ず記事にしますし、大丈夫ですよと微笑みと共に返しながら、ムギは編集長と別れた。
そしてその足でそのまま、セイの店へと向かった。
仙台での取材で相原が言った台詞を、セイにも聞かせてやった。
ムギはセイが怒り狂う事を望んでいた。
相原の言葉を強く否定するのを願っていた。
実際には違った。
「確かに僕も名前を変えた時、解放感と共に、妙な喪失感に襲われたんだ。
今思えばそれからは必死に、何者かになろうとしていた。
そして僕は小さいながらにバーを開き、此処で〝バーのマスター〟と云う新たな自分の名前を手に入れた。
実際、僕の事を康司(こうじ)と呼ぶのは家族くらいだしね。
お客の話す苦悩に応える事で幸福を得ている点では、僕もソイツが言う様に、自分では波ひとつの立てられない人間なのかも知れないな」
家に帰ってもムギの虚無感は消えず、どんよりと曇っているムギの心の海原は、何故か驚く程静かな凪であった。
このまま一生、波が起こる事が無い気がしていた。
後日ムギは相原への取材の記事を無事に脱稿し、次週の週刊誌で見事なさざ波を起こした。
民放2社も、報道番組で軽く触れてくれた。
しかしその翌週には、おしどり芸能夫婦の壮絶離婚と、人気ミュージシャンの大麻使用という大波に、呆気なく呑み込まれた。
少しずつ波打ち初めていたムギの心の海原は、またしてもどんよりと曇った凪へと戻ったのだ。
それからと云うもの、ムギの心が波打つ事は無かった。
ただ無心に政治スキャンダルを追い、その結果や行く末など興味が無かった。
ある日ムギが手に入れた特大の政治スキャンダルによって、世間は荒れに荒れた。
ムギはそれをただ傍観していた。
遂にはこの波を利用して、野党第一党は政権交代を成し、前政権の諸悪の根源として、またその象徴として、相原 十四章への刑を執行した。
あの日硝子越しに取材した男が死刑に処されたニュースを耳にしても、ムギの心は晴れる事も荒れることも無く、編集長に「良くやった」と声を掛けられても、政治デスクの仲間にこれでもかと褒め称えられても、寧ろより一層に、ムギの心は凪となった。
あの日止んだ風が、再び吹き始める事は無かった。
その夜、ムギは新たなる波を自らの力で起こすと、自らの部屋で自らに誓った。
次の朝、ムギはその右手に、日本刀を握りしめていた。
ハラス・メメント 三軒長屋 与太郎 @sangennagaya_yotaro
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