引きこもりになるには

残機弐号

第1話

 自己啓発書を三百冊読んだあと、私は引きこもりになろうと決意した。あらゆる自己啓発書に書かれていることは、煎じ詰めれば次のことに帰着する。


・なりたい自分をイメージせよ

・そのために自分の行動をコントロールせよ


 私は引きこもりになりたい。お金持ちにも、有名人にもなりたくない。美しい妻もいらないし、利発な息子と娘もいらない。ただひたすらに、私は引きこもりになりたい。


 そのために私は何をすればいいのか? 廊下に積んであった三百冊の自己啓発書の中から『残酷な世界を生き延びるための幸せ地図帳』という一冊を取りだし、巻末の付録についてある「幸せ白地図」をハサミで丁寧に切り取った。そして、「幸せ白地図」の任意の場所に赤鉛筆で自分の名前を書いた。これがスタート地点になる。次に、少し離れた場所に「引きこもり」と書いた。これがゴールだ。そしてそのあいだに障害をいくつか箇条書きしていった。いきなり引きこもりになるのは難しい。しかし、障害を細かく分類し、ひとつひとつ解決していけば、私はきっと引きこもりになれるはずだ。


 まず問題は、私に家族がいないことだ。両親は数年前に他界した。兄弟はいない。結婚もしていない。だらだらと続いている恋人はいるが、最近は会えば「人生設計」の話ばかりされる。引きこもらせてほしいとお願いしたりしたら、冗談だと思われるか、聞こえないふりをされて終わりだろう。


 引きこもりは一人ではできない、という事実に私は愕然とした。一人になりたいから引きこもりたいのに、一人では引きこもれない。引きこもらせてくれる相手がいるのだ。私は引きこもりをヤドカリのようなものだと思っていた。どこかでちょうどいい貝殻のようなものを見つければ、すぐにでも引きこもりになれるのだと。しかし、その貝殻には他人も住んでいなければならない。そして、生活に必要なもろもろをその他人がどこかで見つけてこなければならないのだ。


 新しい恋人を見つけるのはどうだろうか、と私は「幸せ白地図」に可能性として書き込んだ。そしてそれは、存在し得ない幻の大陸としてすぐに×を引かれた。私はまったく社交的ではない。日常的に会話のできる相手は今の恋人だけだ。


 彼女とは大学のときにゼミが一緒だった。そのころはほとんど話さなかった。私は無口で、ゼミでもほとんどいつも発言しなかったし、彼女には存在自体認識されていなかったのではないかと思う。ところが卒業して就職し、たまたまふたりの会社が近いとわかってから、一緒に食事をしたり、飲みに行ったりするようになった。私から誘ったことは一度もない。いつも連絡をくれるのは彼女の方で、行きたい店を見つけるたびに私を誘ってくれた。友だちから恋人への一線をどのタイミングで越えたのかは覚えていないが、それもたぶん彼女がリードしてくれたのだと思う。私はいつも彼女のリードに応えるばかりだ。私は完全に受け身だが、彼女の要求にはいつも最大限応えてきた。彼女が何を望んでいるかを察し、適切なタイミングで提供した。あなたといるとほっとする、と彼女はよく私に言った。私はそれを純粋な褒め言葉として受け取った。


 こんな関係がずっとつづくのだと、彼女は信じているようだった。しかし私にはそんな未来は想像できなかった。彼女との関係が嫌なわけではない。「尻に敷かれている」とよく言われたが、私自身、彼女に対しホスピタリティを提供することにある種の喜びを感じていた。それは私の数少ない能力の一つであり、そうした能力を発揮し、彼女に感謝されることは、自分の有能さを実感できる貴重な機会だった。それでも、そうした関係性に何か不健全なものがあるという意識はあった。「ホスピタリティ」を提供するのはホテルマンや指圧師だ。恋人が提供するものではない。この関係は近いうちに終わるだろう、と私はいつも心のどこかで思っていた。


 他人に頼らない形態の引きこもりはありうるだろうか? 


 田舎で自給自足をしながら生活するのはどうか。まあ、考えるまでもなく無理だろう。農作業なんてしたこともないし、興味もない。それに、田舎に行けばかえって周囲の住民との面倒なかかわりが生まれてしまう。自給自足をしている、なんて言ったら農家の人に石を投げられるかもしれない。私は「幸せ白地図」に「田舎」「都会」と書いて、「田舎」の方に×を引いた。引きこもりは都会でしか実現できない。これは最低限の条件だ。


 引きこもりになるための具体的なプランもないまま、私は会社を辞めた。まずは第一歩を踏まなければ第二歩もないのだ、とは多くの自己啓発書の教えでもある。とくに惜しまれもせず、形式的な別れの挨拶を済ませて私は会社を後にした。恋人には隠すつもりだったが、会社が近いのですぐにバレた。平日の夜なのに私のアパートに彼女がやってきた。「人生設計」の話が始まるのかと恐れていたが、そんなことはなかった。


「つかれてるの?」と彼女は言った。慎重に言葉を選んだようで、少し声が震えていた。


 いいや、と私は言った。つかれてはいない。そして、つかれているというのなら、私は物心ついてからずっとつかれている。しかしそのあたりのことは言ってもしょうがないので黙っていた。


「焦らないでいいよ。元気になるまで、何も言わないで待つからさ」


「うん。貯金はまだあるから。計算したけど、節約すればあと一年半は持つと思う」


「そういうことじゃなくて……」


「将来のこと?」


「今はいいよ。しばらくゆっくり休んで。ねえ。今日、ここに泊まっていい?」


「いいけど」


 週末はたいていどちらかのアパートに泊まることになっていたから、お互いのアパートに、それぞれの歯ブラシやバスタオルや下着類は置いてあった。泊まりたいと思えば、準備をしなくてもいつでも泊まれた。


「今日はひとりじゃない方がいいと思う」と彼女は言った。


 私をひとりにしておけないという意味なのか、彼女がひとりになりたくないという意味なのか。あるいは両方かもしれない。


「じゃあ、僕の方が君のアパートに行ってもいい?」


「いいけど、なんで? ここでもいいじゃない」


「君のアパートに行きたいんだ」


「わかった」しばらく考えて彼女は言った。「じゃあ、行こう」


 こうして私は彼女のアパートに住み始めた。彼女も、それがいいと言ってくれた。一年もすれば私が「元気」になると思っていたのかもしれない。私は自分のアパートを解約した。家賃がなくなると、現在の貯金から食費や光熱費などを払っていっても三年以上持ちそうだった。


 私は「幸せ白地図」を眺めた。私は目的を達成したのだろうか? 確かに私の今の状態は「引きこもり」というにふさわしいものだった。しかし、こんな状態がいつまでも続くとは思えない。今は親切な彼女も、私がいつまでも「元気」にならないのに気づくと、私をそばに置いておこうとは思えなくなるだろう。貯金が三年以上持つとしても、それは三年以上引きこもれることを意味しない。そう考えると、自分のアパートを解約してしまったのはもしかしたら早計だったのではないかと思えてきた。彼女のアパートを追い出されたあと別のアパートに移り住みたくても、無職では賃貸契約を断られる可能性が高い。


 私はむしろ、彼女のアパートに来ることで自分を追い詰めてしまったのだ。彼女の善意のつづいているうちに本当の引きこもりにならなくてはならない。私は「幸せ白地図」に砂時計の絵を描いた。砂時計の上半分のガラスの中に彼女の名前を書き、砂粒の代わりに無数の小さなハートマークを描いた。このハートマークが下半分のガラスの中に落ちきると、私はこの仮の庵を出なければならないのだ。おそらく、ぎりぎりまで粘るとしても一年というところだ。


 私は一年以内に自立した引きこもりにならなくてはならない。それは、「一年以内に起業する」とか「一年以内に漫画家になる」とかよりも、ずっとハードルの高い目標に思えた。

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