ささやかな旅にしるべを
揺井かごめ
さく、さく、と草を踏む音がする。
枝を折る。
この森に迷い込んでから、どのくらい経っただろうか。就寝前の読書にと、誕生日に娘から貰った「新訳・童話集」をめくっていたら、いつの間にかここにいた。深い森はしんとつめたく、静かで、明るい。木立は白、空を覆う木の葉と地面はパステルカラー。時折、水銀色の蝶やオーロラをまとった小鳥が飛んでいく。どこをとっても現実味がない。
最初は、いやにはっきりした夢だと、そう思った。
枝を折る。
ぱきりと乾いて耳に届く音も、足の痛みも、甘く冷えた空気の味も、水気を含んだ若い植物に少しだけ香辛料を混ぜたような不思議な匂いも、どうやらここが夢でない事を私の身体に訴えている。
枝を折る。
そういえば、こうやって枝を折りながら歩く事を「
枝を折る。
……帰れなくなるなら、旅なんかしなければ良かったのに。
枝を折る。
しかし、一向に景色が変わらない。どこまで進んだら──。
「
不意に声が降ってくる。
見上げると、鮮やかな藍色の鳥がこちらを見ていた。昔、夫と山歩きする中で見かけた鳥によく似ていた。
「駄目だよ、文海。それ以上は、戻れなくなる」
「貴方は戻ってこなかった」
「文海は戻らないと。詩織が待ってる」
「あの時だって待ってた。私も、詩織も」
ぴりり、とオオルリに似た声が返ってくる。大事なところで言葉を濁すのは変わっていないんだね、と私が文句を言う前に、その鳥は再び彼の声で話し出す。
「だって君は、帰れるように、しおりを残したんだろう?」
羽撃く音がした。
「おかえり、母さん」
ぼやけた視界の中、娘の素っ気ない声が降ってくる。
「……私、今どうなってる?」
「倒れて三日経ってて、その間に手術が無事成功してる。心不全だってさ。歳の割によく頑張ったって、執刀医が言ってたよ」
「……詩織、仕事は?」
「今日の分は片付いてる。翻訳なんて比較的時間に融通利くんだから、病人が余計な心配しなくていーの」
娘は先ほど「倒れた」といったが、私の記憶はベッドの上で途切れている。
「母さんが気を失ったのって」
「夜だね。二十二時頃だった」
「……誰が見つけてくれたの?」
「鳥の知らせがあった」
娘の素っ気ない言い方に、思わず笑みが漏れる。
「なによ」
「ううん、相変わらずだと思ってね」
「そうだよ。私たちの青い鳥は、相変わらずこういう時しか会いに来ない」
窓辺で羽撃く音がした。
「あ」
「逃げた」
私たちは、顔を見合わせて笑った。
ささやかな旅にしるべを 揺井かごめ @ushirono_syomen
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