第4話 邂逅③

 夜……それは魔女が生み出せし奇奇怪怪、数多の魑魅魍魎どもが蠢き、特に危険地帯ではさらなる闇が広がる時間帯である。中でも、人狼と呼ばれる超常の獣は、生きとし生けるものすべての血肉を貪る「暴食の化身」として恐れられる存在だった。そもそも、人狼は古くから魔女伝説に語り継がれる存在であり、彼らに喰らわれたものは“いかなる”存在であろうと、この世界から完全に死すという。そんな自らの身をも脅かしかねない怪物を創りあげた魔女の胸中など、常人には到底理解し難いものであった。しかしそれ故に、帝国政府が人狼の力を魔女殺しの道具として使おうと画策している、などという噂が民衆の間では囁かれていた。

 だが事実、人狼が通り過ぎた後の道には他の魔物でさえも恐れをなして近寄らず、賊やハンターなど闇の世界に生きる者たちにとっては絶好の安息地になっていた。


 これが、彼ら人狼が『夜の獣王』と呼ばれる所以である。




 そんな世にも恐ろしい獣が、今まさにカイルのすぐ前方に立ちはだかっていた。



「グルルル……」


 重たく低い唸り声が響く。霧が立ちこめる森の中、カイルをじりじりと追い詰めるように現れたのは、全身が黒い毛で覆われた異形の獣であった。その鋭い牙と赤く血走った瞳がぎらついている。


「「「ヴウウウウ」」」


「「「ヴァァァァァァ!!!」」」


 さらに、四方八方からカイルに浴びせられたのは獰猛極まりない声だった。すでに人狼の群れがカイルを囲んでいたのだ。彼ら人狼の口元は血にまみれ、牙の間からは今か今かと垂涎している。それだけで、この惨劇の犯人が彼らだということはもう明白だった。そして、その群れの中でも特に一匹の黒い人狼だけが、他の灰色の人狼共とは異なる威圧感を放っている。


「はぁ、はぁ、あぁ……勘弁してくれ」


 カイルはもう恐怖で頭がどうにかなってしまいそうだった。心臓が痛いほど早く鼓動を打ち、全身が小刻みに震え出す。腰が抜け尻もちをつきながらも必死に後ずさるのだが、背中が木にぶつかった。もう逃げ場はない。黒い人狼はゆっくりと、しかし着実にカイルに迫ってくる。


「く、来るな…………俺に近づくなぁぁ!!!!」


 カイルは地面から拾った棒切れを無我夢中で振り回す。だが、その行いは彼に自身の無力さを強調させるだけだった。棒切れは黒い人狼の頬に軽く当たって、あっけなく折れた。


「ヒッ……」


 黒い人狼はカイルの眼前で立ち止まると、無言のまま彼を見下ろす。すぐにでもカイルを噛み殺せる距離だった。黒い人狼の吐く白い息が喰らった血肉のにおいと混ざり合って、カイルの顔に纏わりつく。


「……ヘンなニオイだナ……」


「は……?」


 その低く重厚な声がカイルの耳に響いた瞬間、「人狼が喋った」、その事実に加え、意味不明な言葉が彼の思考を混乱させた。


「…………オマエハ、ナンダ? ニンゲンか?」


「あ……」


 黒い人狼はカイルを見つめながら、再び低く問いかける。が、混乱と恐怖のせいでカイルの頭はまったく回らず、言葉にならない声が出てくるのみ。そのまま、ただ狼の鋭い眼差しを見つめ返すことしかできない。その沈黙に苛立ったのか、黒い人狼は大きな手でカイルの首元を掴み、木に押し付けた。


「ぐ……!」


 黒い人狼の手が彼の首を締め付け、苦しさで視界が揺れる。その尋常でない腕力には到底敵うわけもなく、カイルは振り解くとこができない。そのまま、その鋭利な爪がカイルの左頬をゆっくりと引き裂いていく。血が滲み、爪が肉を抉り、痛みが連続して脳に突き刺さる。


「!!」


 痛みに耐えきれず、カイルはもがき苦しむ。そんな彼の頬から流れ落ちる血を、黒い人狼は長い舌でゆっくりと舐め取る。そうして、何かを確認するように、舌を動かす。次第に恍惚とした表情がその顔に浮かび、うっとりと目を細めた。


「オオオオオオオ!!!」


 辺り一体に響き渡ったのは狂気じみた悦びの声であった。声を上げた黒い人狼からは先ほどまで覗かせていた理性が失われていた。代わりに瞳には怪しげな光が宿り、顎が大きく開かれている。その剥き出しになった牙は剣の切先のように鋭く、今にもカイルの頭蓋を噛み砕かんとしていた。


 身動きが取れず、悍ましい牙を前にして、カイルは反射的に腕で顔を庇う。すると、黒い人狼は容赦なく彼の腕に噛み付いた。


「ぐうっっ!!!」


 腕に牙が食い込み、肉を貫き骨がミシミシと悲鳴を上げる。


 ……が、意識が飛んでしまいそうなほどの激痛が襲い来る中、黒い人狼のその先、森の奥で不意に人影が動いたのをカイルの視界は微かに捉えた。とっさに、カイルの口から苦しみの入り混じった一声が飛び出す。


「たす……」


 突然、重い銃声が森に轟いたのは、カイルが力のない声を発したのとほぼ同時であった。それは果たして、黒い人狼がその声に反応し、超常の獣の研ぎ澄まされし感覚を後方に集中させたのと、一体どちらが早かったのだろうか。弾丸の鋭い音が空気を切り裂き、黒い人狼の頭部めがけて一直線の弾道を描いていく。しかし、黒い人狼はその体躯からは想像のつかぬ、素早い反応を見せた。瞳が一瞬閃き、その巨大な体がわずかに動く。弾丸は紙一重で黒い人狼の頭を外れ、地面に深くめり込んだ。


「チッ」


 苛立ちを含んだ露骨な舌打ちが聞こえた。女の声だった。黒い人狼はその方向を睨みつけると、短く唸り声を上げて威嚇し、群れに向かって何かを合図した。すると、彼ら人狼共の群れは身を翻し、木々を伝い、地を駆け、瞬く間に森の奥へと姿を消していった。


 直後、狼の遠吠えが森に長く響いていた。

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魔女ハンター『アリス』〜 Witch Hunter 〜 さやまる @SAYA_SAYA_SAYA

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