第3話 邂逅②
ぼんやりとした意識が、頭の奥でざわめく痛みに引き戻される。そうして、意識が完全に覚醒した瞬間、周囲の景色が歪みながら視界に入ってきた。
「……ん?」
どれくらいの時間が経ったのだろうか。気がつけば、床と天井が逆さまになった荷台の中で、カイルは壁にもたれかかっていた。幸運にも、荷台の扉は壊れて開いており、手首に巻かれていた鎖も外れている。
「痛っ……」
鋭い痛みが頭部を貫く。後頭部に手を当てると、手のひらが血でべったりと濡れていた。おそらく馬車が横転した際にどこかにぶつけたのだろう。痛みと疲労が重なり、頭がぼーっとしている。だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
周囲を見渡せば、荷台の中にはカイル以外には誰もいなかった。というか、人の気配を全く感じない。……カイルは外の音に耳を澄ませた。馬車の外からは、先ほどの獣のうなり声や人の足音は聞こえず、雨の音も止んでいた。もしかすると、他の者たちはもうとっくに逃げてしまったのかもしれない。そう考えたカイルは、恐る恐る荷台の外に顔を出した。
外は、森の中のけもの道だった。辺り一体に立ち込めた霧と月明かりが混じり合い、淡い微光が滲んでいる。そして、長いこと雨が降り続けていたせいか、どこか生臭い匂いが鼻をつく。だが、森の薄暗さと深い霧のせいで視界は悪く、はっきりと周囲の様子はわからない。
「逃げ……て」
すると突然、耳に飛び込んできたのは小さな声。カイルはハッとして、その声の方を見た。そこには馬車の事故で運悪く外に投げ出されたのか、奴隷の少女が茂みの陰に横たわっていた。近づいてみれば、少女は頭から少しだけ血を流しており、目がうつろな状態だった。さらに、血色を失い青ざめた肌と唇を見る限り、あまり状態は良くなさそうだが……。
「おい、立てるか? 肩を貸してやるから、今のうちに一緒に逃げよう」
カイルは少女のそばにしゃがみ込み、そう小さく声をかけた。しかし、彼女は弱々しく首を横に振り、震える手で自身の足先を指し示す。その手の動きが、妙に鈍い。
「ん? なんだ? どうかし――――」
それに合わせるように、カイルは少女の指差す方向にゆっくりと目を向けた。そこで彼は言葉を失った。
カイルの視線の先、少女の足はもうなかった。いや、もっと正確に言えば、彼女の下半身だったモノは完全に消え失せ、代わりにそこには血肉と骨片が散らばっていた。草花が血で染まり、真っ赤な海が鮮やかに広がっている。
その時、カイルは気づいた。鼻をつくこの鉄さびにも似た生臭い匂いの正体に――血だ。目を背けたい気持ちを抑え、辺り一面をよくよく見回してみれば、カイルの視界の中に広がるのは、用心棒たちや他の奴隷たちの無残な姿。彼らの肉体はナニかによって乱暴に引き裂かれていた。木々には無数の血痕が生々しく残り、地面には無秩序に散乱する肉片。近くでは馬が腹部から臓物を垂れ流しながら、力なく横たわっている。
いつのまにか、彼らの死臭が霧と混ざり合い、むせるような血の匂いとなってカイルの鼻腔に充満していた。
「ヴッ」
激しい吐き気に襲われ、カイルは思わず顔を歪める。しかし、声を出すことすら恐ろしくて、こみ上がってくる物を無理やり飲み込んだ。
嫌な予感がした。
とにかく逃げなければ――。そう思い、カイルは罪悪感を感じつつも、力のない眼差しで見上げてくる少女から視線をそらし、そっと立ち上がった。そのまま、ゆっくりと後ずさる。激しい動揺から呼吸が荒くなり、動きがぎこちない。恐怖が全身を包み込み、息を吸うたびに胸が押しつぶされそうな感覚に襲われていた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
自然とカイルの手は震えだし、冷たい汗が首筋を伝っていく。カイルがゴクリと唾を飲み込む音だけが不気味すぎるほどの静寂の中に響いた。
――だが、あともう少し、もう少しで荷台に戻れる。……その後のことは荷台に隠れながら、考えれば良いこと。 そう……あと少しで――
――え?
次の瞬間、横から何かがぶつかってきて、背骨が軋むような衝撃がカイルを襲った。体が宙に浮き、地面に叩きつけられる。
「カハッ……!」
背中を強く打ちつけられたせいで、息が詰まり、苦しさで呼吸ができない。肺をずっしりとした鈍痛が埋め尽くしている。幸い、地面がぬかるんでいたおかげでカイルの体は無事だった。
その激しい混乱の刹那、視界の端で捉えたのは――巨大な黒い影。
「ガハァァ……カハァ……ハァ……な……ん、だ……?」
カイルはなんとか体を起こしたものの、呼吸が整わない。朦朧とする意識の中で、ぼやけた視界の先に飛び込んできたものは――
「は?」
――その姿はまるで闇の中から現れた異形の獣だった。
鋭い爪が地面を掴み、漆黒の体毛が湿った空気に絡みつく。カイルの意識と視界が整い、巨大な影の正体が明らかになった時、彼の心臓は凍りついた。
「嘘だろ……」
カイルが目にしたもの……それは、漆黒の黒い体毛に包まれた、人のようで人ではない、巨大な狼の姿――
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