第10話(アオ視点)

 浮かれ気分でチャイムを連打すると、がちゃっとドアが開く。

「そんなに鳴らさなくても聞こえてるよ」

 呆れ声とともに、室内から夜の共用廊下へ光が溢れだす。叔父さんのやさしい瞳がオレを出迎えた。

「おかえり、アオ。編入試験、受かってよかったな」

「どーん」

 オレはたまらずその首に抱きついた。

「うわっ、お前、大きいんだからやめろよ」

 小さな玄関マットに尻もちをついて、叔父さんは笑う。

「我慢できるかよ。このまま叔父さんと暮らせるのに」

 退院してから一年、なし崩しに叔父さんの家に厄介になっていたけれど、両親に上京を正式に認めてもらうには東京の大学に編入学するのが条件だった。

 本人たちはあんなに離婚するしないで揉めて世間体を悪くしているくせに、オレばかり自由にさせてもらえないのはなんだかなあと思う。

 父さんのほんとうの子どもじゃなくても、一応、酒屋の跡継ぎなんだから、という理由らしい。

 ああ、やめやめ。こんないい日にあんな人たちのこと、思い出すんじゃなかった。

「酒だー、酒持ってこーい」

「さてはもう酔ってるなお前?」

「もう大人だからいいんですー。へへ、このあともっと大人なことしよーね」

 ふにっとほっぺをつつくと叔父さんはさっと赤くなる。かわいい。

「さ、酒なら用意してあるぞ。まずは祝杯といこう、な?」

「はーい」

 おとなしく叔父さんを解放してあげる。ほっとした様子でリビングに向かう叔父さんを、軽いステップで追いかけた。

 まだスーツのズボンを履いた、丸っこいおしり。今はオレより小さくなったワイシャツの背中。

「と見せかけてぇ」

 うしろからハグすると叔父さんはばたつく。

「こ、こら、なにするんだ」

「いやあ、今宵はいっそう、格別のもちもち具合ですね。ここで実況の藤崎さんに変わってみましょう、藤崎さん? 『はーい』今夜の矢崎周平さんの抱き心地はどうですか? 『そうですね』」

 声色をつくり、すりんとおなかを撫でる。太ってはいないが締まってもいない、ふわっとした感触。叔父さんはびくっとした。

「『あ、コンディションは良好のようですー。スタジオにお返ししまーす』」

「す、寿司が痛むぞ」

「え、お寿司頼んだの。早く言ってよ」

 お寿司、お寿司、そのあと叔父さん、と歌いながらリビングに入る。

 オレが中学生のときからほとんど変わらない、小さなリビングだ。相変わらずソファやテレビが大威張りで床を占拠している。今は身体が大きくなってしまったから、余計に狭い。

「現金な酔っ払いだ」

 お寿司はソファ前のローテーブルに並んでいた。

「え、いいお寿司じゃん。寿司桶の柄といい、これは大トロ? うに? お、焙ってあるのもある。間違いなく特上ですねこれは」

「まあな。お祝いだからちょっと奮発」

 叔父さんもオレの隣に腰を下ろした。

 まずは乾杯。桶の円にぎっしりと詰め込まれたお寿司にお箸を伸ばし、遠慮なくつまむ。高そうなネタから。

「うめー」

 まぐろの脂がお醤油とまじりあって、じゅわっと口に広がった。

「生きててよかった」

「そうそう、お前はそうして元気に食ってるのがいちばんだ」

 オレの横で、叔父さんが目を細める。

「またあの夢の話?」

「忘れられるわけないだろう、あんなの」

 叔父さんはとっくりを傾けている。透明な液体がとくとくとグラスのぐい呑みに溜まっていく。こうしていると最高に大人って感じだ。

「まあね。オレも忘れない。すげー楽しかったな、VR映画見てるみたいでさ」

 夢の中では藤崎蒼ではなく、完全にプーカの人格になっていたのがまた面白かった。

「プーカになって叔父さんを寝取ったときさー、最高に興奮した。叔父さんもすげーかわいかったし」

「バカ、思い出すな」

 叔父さんをからかうのって、なんでこんなに楽しいんだろう。

「それにオレ、マジで藤崎蒼に嫉妬してたから。今考えたら全部オレのひとり芝居じゃない? 笑っちゃうよ」

「ひとり芝居でよかったよ……すごく悩んだんだぞ、あのとき」

「ね。目を覚ましたら叔父さんが別の男とくっついてた、なんてオレ、絶対耐えられねーわ。死ぬ気でリハビリして襲いに行ってたかも」

「元気じゃないか」

 じゅうぶん叔父さんの困り顔を堪能したので、そろそろやめよう。

「あー、またあんな夢見たいなー、見れないかな」

「おい、また事故で意識不明になるのはいやだぞ」

 叔父さんはあわてている。

「まあ、オレの願い? 全部叶っちゃったから、また事故にあったって、たぶんおんなじ夢はもう見れねーと思う。って、リハビリの先生が言ってた」

 リハビリ施設では心理士の先生とのカウンセリングがあった。そこで意識がない間の夢を面白おかしく話してあげたら、真面目に分析してくれたのだ。叔父さんが実際に同じ夢を見たというところだけは、先生は半信半疑だったようだけれど。

 叔父さんの行動を絵本のメッセージで操ったのは、叔父さんを支配したい気持ちの表れだったらしい。

 変身願望もあったけれど、叔父さんにはほんとうはオレ自身のことを好きになってもらいたかった。恋の魔法に偽物の記憶と、夢が複雑になったのはそのせいじゃないかとも、先生は言っていたっけ。

 もっともらしく、いかにも賢そうに説明してもらって、なんだか照れくさかった。そんな世界を生み出してしまったオレって、実はけっこうすごいのかもしれない。

「だから大丈夫。あの夢見たさにトラックに突っ込むとか、さすがのオレでもしないって」

「冗談でもやめろよ、ぼくの寿命が縮むぞ。すごく心配したんだからな」

 叔父さんはときどき冗談が通じない。今も真剣な顔をしてオレを叱ってくる。

「ごめんね」

 叔父さんはいつでも、誰よりオレを心配してくれる。

 このおっとりとやさしい目を見ていると、胸がぎゅっと苦しくなる。

 好きだ。この人がオレ以外の誰かのものだったことに、我慢できていたのが不思議なぐらい。

『好きだよ、叔父さん』

 そう最初に告白したときは、自分が父さんと血がつながっていないと知った直後で、けっこうやけくそだった。

 別に、父さんが好きだったからショックだったわけじゃない。みんながオレに冷たかった理由がようやくわかって、ほっとしたぐらいだ。

 オレが何かしたせいじゃなかったんだと。よくいう『ガチャが外れた』だけ。生まれ方の運が悪かっただけ。

 もちろん最初はオレだって人並みに苦しんだけれど、今はがんばれば冗談にできるぐらいにはなった。

 でも、叔父さんは別だった。

 叔父さんは父さんの妹の旦那さんだ。そのせいか、叔父さんとのリンクがぷつんと一個切れた感じがした。

 ああ、じゃあ、いいや。オレのにしちゃえ。完全に切れちゃう前に。奥さんいるとか、どうでもいいじゃん。

 そんな衝動で、オレは叔父さんを抱こうとした。

 まあ、あのときは玉砕したけれど。

「でもまあ、あの夢のおかげだな。あれがなければお前が好きだって、そんな簡単なことにも気づけないまま、つまらない老人になってたと思うよ」

 叔父さんはさびしそうに笑う。

「そんなのダメ。このオレが許さないよ」

 冗談めかして叱った。

「叔父さんはあきらめがよすぎて心配になるんだよ。離婚のときだってそうだよ? かぼすちゃんまで渡しちゃうとかさ。人がよすぎるでしょ」

 オレがやきもちを妬きたくなるぐらいかわいがっていたのに。

「そうだな。いろいろ落ち着いたら、また犬は飼いたいな」

 少しお酒で頬を赤くして、叔父さんはぽろっと言った。

「いいねいいね、オレたちのわんこ」

「落ち着いたらだぞ? ぼくの仕事の都合もあるしな」

「真面目だねぇ」

「性分だな。だからあの人に見放されたんだろうが」

 叔父さんは苦笑している。 

「もう。叔母さんのことは忘れなよ。あの人ひでーじゃん」

 叔母さんのことを叔父さんが口にすると、胸が嫉妬でざわざわする。

 そのくせ叔父さんが離婚した当時は、叔母さんと別れてくれた喜びより、ショックが断然勝っていた。

 血液鑑定の結果を知ったときと、オレが意識不明になった例の交通事故と並んで、オレの人生の三大事件に数えていいぐらいに。

『そういえば来年からは、アオが矢崎さんのお宅にお世話になることもなくなるわね。正直毎年恒例のあれ、迷惑だったわ』

 天上都市マグメルみたいにウソくさく、きれいにおしろいを塗った横顔で、母さんは何気なくつぶやいた。

 ひゅん、とどこかから落ちた感じがした。オレにとってあの東京の家は、オレのために永遠にそこにあるものだったから。

 オレたちはもう他人だった。例年のようにあの家に行くには、自力で切れたひもをつなぎなおさなくてはいけなかった。

『好きだよ』『会いたい』。

 内心、必死になってメッセージを送った。なのに叔父さんははぐらかすばかりだった。

(スマホ越しじゃダメっぽい)

 あの夏、叔父さんの家で迫ったときは、もう少し動揺してくれていた。叔母さんの存在さえなければ、流されてくれそうな雰囲気もあったのに。

(実際に叔父さんに会わなきゃ、ダメなんだ)

 焦ったオレは、東京に行くための旅費を稼ごうとバイトをぎゅうぎゅうに詰めこんだ。

 そうして疲れがたまってボケっとしていたところで、酒酔い運転の車が赤信号を突進してきた、というわけだ。

 風が吹けばオレが妖精になる。

「叔父さんはもうちょっとオレのわがままを見習って。ほら、最後のうに、食べちゃうよ、いいの、いいんだね」

 叔父さんを横目で見ながら、口をあんぐりと開けて、軍艦巻きをその上にかざした。

「食え、食え。お前のお祝いなんだから」

「やったー」

 オレはありがたく軍艦巻きをぽとんと口に放り込んだ。うまい。

「じゃなくて! もう、また譲ってる」

「はは」

 笑いながら、叔父さんもサーモンを食べる。

「これでもぼくとしては我を通した方なんだ。お前のことに関しては」

「うん。わかってる」

 オレを東京に連れてくるのに、ずいぶん無理をしてくれたのは知っている。

「お前のご両親にも、ぼくらの関係は話してないし……ほんとうは、お前のことを手放してやった方がお前のためじゃないかって思うときもあるぐらいで」

「そんなこと言わないでよ!」

 叔父さんは焦るオレの髪を撫で、目を細めた。

 出会ったときより深くなった目じりのしわ。あたたかい手のひら。

「ああ。言わない。だってぼくが無理なんだ。お前がいない世界が……ほら、ぼくはじゅうぶん、わがままだろ?」

 見つめあったまま、オレは固まった。叔父さんの穏やかな瞳には、オレだけが映っている。

 いとおしさが暴力的にオレの胸を突き上げた。

 銃でバーンと撃たれたみたいに、オレはたまらずソファに突っ伏した。なんだこの善良な生き物。

「そんなのわがままって言わねー……」

 オレはがばっと身体を起こして、猛然と寿司を食い始めた。

「お前、どうした?」

「お寿司のあと叔父さんって言ったじゃん。ほら、叔父さんも早く食って」

「っ……」

 叔父さんは真っ赤になっている。かわいい。

「食った? 食ったね? もーう我慢できねー」

 かっぱ巻きをもぐもぐする叔父さんの手を引いて、寝室へ連行した。

「オレが叔父さんをどんだけ好きか、わかってもらわなきゃ」

 

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