第9話 元の世界で
はっと目を見開くと、ぼくは木陰のベンチに座っていた。だらしなく開いた膝の上で、例のまずい弁当が斜めになっている。
犬はいない。かわりに、鳩はたくさんいる。激しい蝉時雨。ふだんと何一つ変わらない、のんびりとした真昼の公園が目の前に広がっている。
(夢から、醒めた……)
しばらく呆然としていたが、ふと思いついて、ぼくは時計を見た。針は十二時五十五分を指している。最後に意識があったときから、ほとんど時間が経っていない。プーカと過ごしたはずのあの二日間はもうどこにもない。
(ただの悪い夢だったのか……?)
ぼくは居心地が悪くなっていく。
昼休みは五分しか残っていない。すぐに会社に戻らなくてはならないのはわかっているが、ぼくはまだ座りこんだままでいる。
あまりにリアルな夢だった。ただの夢だったのが信じられないほどだ。びっしょりと汗をかいているのは暑さのせいばかりではなさそうだ。
(アオ……)
アオを抱きしめていた感触がまだ生々しく残っている。耳を切っていく風の音も。どこまでも落ちていく身体の感覚も。
そのとき、胸のスマートフォンが振動した。会社からかと思って通知を見ると、知らない番号からだ。
「もしもし」
「矢崎周平さんの番号でお間違いないでしょうか」
落ち着いた女性の声だった。
「はい」
「こちら仙台市の××総合病院ですが、一か月前からご親戚の藤崎蒼さんが事故で入院しておりまして、たった今意識を取り戻したところで」
蝉の声が一瞬遠のく。
信じられないような気持ちで、ぼくは女性の言葉を聞いた。
(正夢)
ばくばくと心臓が鳴っている。アオが事故にあって、意識不明に。夢の中で見た、血の気のないアオの顔がよみがえる。
「まずこちらに連絡してほしいとご本人が……面会を希望してらっしゃるんですが」
ぼくがあんまりぼんやりとしているものだから、女性はいぶかしんでいるようだ。ぼくはあわてて答えた。
「わ、わかりました、すぐに向かいます」
まだ夢を見ている心地だが、迷いはなかった。
「えっと、今東京なのでちょっと時間がかかりますが」
「面会受付は四時半までですので、お早めにお越しください」
会社に連絡して、新幹線で仙台に急いだ。ぼくの焦燥を映し出すように、景色が車窓を高速で流れていく。
駅の雑踏をかき分け、タクシー乗り場に駆け込む。
「すみません、××総合病院まで。いそぎます」
愛想のない運転手が、まるでいそぐ様子もなく車を発進させた。
気ばかりはやってそわそわと落ち着かない。大丈夫だ、地図アプリによればじゅうぶん間に合うはずだ。スマートフォンを握りしめ、じりじりしながら画面と運転手を交互に見る。少し道が混んでいる。
車を降り、受付へ走る。壁の時計を見ると四時十分だった。
間に合った。少しほっとして、面会の案内を受けた。
「ご案内します」
慣れた様子で、女性看護師がにっこりと微笑んだ。肩で息をしながら、ぼくは彼女のあとを追った。
エレベーターで運ばれる数秒が永遠にも思えた。明るすぎる廊下。四〇六と札のついた白いドア。
やっとついた。
「藤崎さん、ご面会でーす」
看護師のノックに続いて病室に入る。ぼくは思わず立ち尽くした。
間取りも、閉じたカーテンも、規則的な電子音も、夢で見たあの真っ白な病室そっくりだった。ここには初めて来たのに。
「どうしましたか?」
不思議そうに尋ねる看護師の声も、耳を素通りしていく。
夢の中で見た、意識を失ったアオの幻影が思わずよみがえった。黒ずんだ顔。時間が止まったように動かない身体。
あのとき感じた恐怖が戻ってきて、ぼくは軽くパニックを起こした。
(落ち着け、あれは夢だ)
自分に言い聞かせながら、ぼくはベッドの方を見た。
――――いた。
顔色の悪さはそのまま、いたずらっぽい目だけこちらに向け、ぱちぱちとさせて、アオがベッドに横たわっている。
「アオ……!」
アオが、生きてそこにいる。
堪えきれずぼくは駆け寄った。
「ごめんな、まさか、お前が事故にあってたなんて……」
アオの横で、ぼくは詫びた。
『帰りたくねー、ここで一生叔父さんと暮らすんだ』
夢の中でごねるアオの声が、まるで現実に聞いたようにはっきりと耳の奥にこびりついている。
「ぼくがそばにいてやれたらよかった」
少しはこちらの世界にいたいと、アオだって思ってくれたかもしれないのに。
「目覚めてくれて、よかった」
アオは人工呼吸器を弱々しい手で外し、微笑んだ。
「来てくれなかったら、どうしてくれようかと思ったよ?」
ほとんど声が出ていないくせに、アオは無理に冗談めかしている。
「来るに決まってるだろ」
胸が苦しくなって、ぼくは思わずアオの手に手のひらを重ねた。つなぎ返してくる力は思ったよりしっかりとしている。
「叔父さん、意外と無茶するね……約束、忘れないでよ」
掠れた声で、たしかにアオはそう言った。
瞳の奥には不安が見え隠れしている。かたく握った手はすがるようだ。
ぼくは一瞬言葉をなくした。
(ああ、あの夢はほんとうに)
愛情と呼ぶには単純すぎる、多色の感情が一気に溢れだして、胸がいっぱいになる。
ぼくはほんとうに、この子を救えたんだ。
「忘れるもんか。ずっといっしょだ」
最後は涙のせいでほとんど声にならなかった。
「言質、とったよ」
ぼくの手をぎゅっと握ったまま、アオはかすかに笑っている。
「ずっといっしょってさ、オレが思ってたよりすげー本格的だった」
とは、東京でリハビリを受けるアオの言葉だ。
元義兄夫婦を説得し、いろいろなツテを駆使してアオを東京の大病院に転院させたのが数か月前のことだった。
「お前との約束だからな」
ぼくにしては、相当がんばった。
「いっしょはうれしいけどさぁ……編入試験やだ……」
ピンクのカーテンはきれいに束ねられていて、気持ちのいい午前の光を室内に入れている。クリーム色の布団の上には、開いた教科書とノートパソコンがある。あとは蛍光色のマーカーがばらばら。
「ぼくと東京で暮らしたいならがんばれ、な? ぼくの母校で、難易度も倍率も大したことないんだから」
何年か卒業が伸びるのを覚悟で、アオには東京近郊の大学へ二年次編入するのを勧めた。三年次編入するには、事故のせいで単位が足りなかったからだ。
「さいわいほとんど後遺症がなかったとはいえ、病み上がりだしな。ゆっくりでもいい。でも勉強はやめない方がいいぞ」
「や だ ぁ」
わざと死にかけみたいな声を出して、アオはベッドに突っ伏した。
やわらかな光がアオの頬に当たっている。すっかり伸びて根元の黒くなった髪を、ふわふわの青いゴムでひとつに結んでいる。
「ねー叔父さん、しよ。オレ、溜まりすぎて全然頭回んない」
アオに見惚れていたぼくは、一瞬何を言われているのかわからなかった。
「よ、よせ。お隣の患者さんに聞こえる」
「叔父さん真っ赤ー。あー、してー」
「こら」
にやにやとぼくを見上げるアオの顔は、もう入院前とぜんぜん変わらない。安心していいのか、それとも呆れた方がいいのか。
「退院したら、な」
うんと声を低めて言うと、さすがに照れたのかアオはうん、と頷いて、頬を布団に擦りつけている。
(やれやれ)
ちょっと不出来な元甥っ子は、恋人になっても相変わらずだ。
(でもまあ、これでも、大学で一応ちゃんと勉強はしてたんだな)
夢に出てくるぐらいには。脇の小さな棚がふいに目に入って、懐かしさで胸がつまった。
そこにはあの夢で見たのと同じ、心理学の学術書が何冊か置いてあった。
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