第7話 ふたりきりの幽閉  

 まばゆく光る床の大穴が、伸ばした手の向こうで、あっという間に小さくなっていく。

 どこまでも落ちていく。死ぬ――――

「乱暴だなぁ。オレはまだ疲れてるのに」

 呑気にため息をつく声がする。それから聞きなれた、ぽんと変身する音。

 ぼふっ。ぼくは毛むくじゃらの何かに背中を受け止められた。ぼくは衝撃で大きく跳ねあがって、もう一度毛の塊の上へ落ちる。

 プーカは変身を解いた。ぼくはプーカの腕に抱き留められている。いわゆるお姫さま抱っこである。

「はあ。重いな、きみ」

 ひょいと地面に下ろされ、ぼくは顔を真っ赤にした。何から問いただしていいのかわからない。

「い、言うに事欠いてそれか……? 助けてくれたのはありがたいが、それにしたって、じゅ、十年の禁固だぞ」

 とりあえず、そこからだ。

「大丈夫、大丈夫。ここじゃ寿命なんて、ないようなもんだから」 

 プーカは気楽にひらひらと手を振っている。

「ぼくはそうはいかないんだよ……ああ、なんてことに巻き込んでくれたんだ」

 ぼくは頭を抱えた。

 プーカは話を逸らすように、わざとらしく声を上げた。

「そうそう。呑気に話してる場合じゃないんだった。ここ、冥界だから」

「え」

 闇の中を見回して、やっと気づいた。青白い狐火がいくつも飛び交っている。目をこらせば周囲には見渡すかぎり、おびただしい数の十字架が立っているのがわかった。

 おそらく墓だ。墓標の十字架はどれも古びた木片で組まれ、あるものは傾ぎ、あるものは崩れ落ちている。

「ひえ」

 大昔、夜に迷子になってお寺の敷地に入ってしまい、寺の人がびっくりして駆けつけるまで泣きに泣いた前科がある。

 今でも当然、ホラーや怪奇のたぐいは泣くほど苦手だ。

「か、帰る、帰る」

 ぼくは思わずプーカにすがった。

「ぐずぐずしてると死んじゃうよ。ついてきて」

 プーカが言い終えるや否や、

「ぎょおおおおおおおおおおお」

 この世のものとも思えない叫びが背後から聞こえた。

 ぼくは凍り付いた。

「ほら、話の通じない番人さんだ。早く塔に入れ囚人、だってさ」

 闇の向こうから、ねとねとした何かがすさまじい速度で迫ってくる音がする。それがどんなかたちをしているのか、想像もつかない。

「ぎょおおおおおおおおおおお」

 逃げなきゃ。そう思うのに足がすくむ。身体が動かない。

「ええ? こわくて動けないの? しょうがないな」

 呆れるプーカに手を引いてもらい、もつれるように走っていく。うしろを振り返る勇気はない。

 プーカが走る先には塔が見える。

 ふつう囚人って、牢の中まで刑務官にご案内してもらえるもんじゃないのか。なんでセルフ収容方式なんだ。ぼくは泣きそうになる。

 ねとねとが発する生臭い息が首に触れる。

「ひっ……!」

 驚いたはずみに、何かに躓いて倒れた。冷たい地面で顔を強打する。

 もうダメだ。このままぼくはねとねとに食われて死ぬんだ。

「向こうだってお仕事だし、あんまり手荒なことはしたくなかったんだけどな。周平がどんくさいからだよ?」

 プーカはため息をつくと、ぼくをかばうように立って、大きく息を吸う。

 ぼっと口から大きな炎が出た。炎の先で、ねとねとがじゅっと焦げる音がする。

「ほら、オレが大道芸してる間に、行った、行った」

 火を噴く合間にプーカは塔を顎で示す。

「で、でも、プーカは」

「大丈夫だって。こんなのもう慣れっこだから。早く行きなよ」

 ほんとうに面倒そうにプーカは言った。

 ぼくはありがたく塔へと走った。

 プーカが住む古城を、さらに陰気にした感じの塔だ。ぼくが近づくと手も触れないうちに、錆びた耳障りな音を立て、重厚な扉が左右に開く。ほんものの怪奇現象だ。

 ぼくは思わず入るのを躊躇した。が、プーカが今じゅうじゅうと焼いているものよりはましだろう。たぶん。

 意を決して中に駆け込むと、ばん、と音高く扉が閉まる。いちいち心臓に悪い。

(助かった)

 動悸がおさまってから、あたりを見回した。

 塔と聞いて想像していたよりずいぶん広い。

 正円の壁には換気のためだろうか、アーチ型の小窓がいくつかあるが、外が暗いせいで光は一切入ってこない。

 そのかわり、ろうそくがいくつか壁にかかっている。揺れる光が古い石の壁を照らすさまはいかにも不気味だ。

「ここで十年……もうやだ……」

 帰りたくてたまらない。

 扉をためしに揺すってみたが、びくともしない。ほんとうに幽閉されてしまったようだ。

 扉の合わせ目を手探りしていると、頑丈に閉まっていた継ぎ目が急に軽く動く。

「わっ」

 ぼくは驚いて身を引いた。

「お待たせ。何やってんの?」

 プーカが上機嫌で入ってきた。また大きな音を立てて扉が勝手に閉まる。ぼくは首をすくめた。

「このドアなら、内側からは開かないよ」

「やっぱりそうか……それより、無事でよかった。あ、あの、ねとねとは」

「大丈夫。やけどさせちゃったけど軽いし、すぐ治るさ」

 なんであのねとねとにそんなやさしいんだよ。

「生きてるなら、中に入ってきたり……」

 プーカは笑った。

「しない、しない。あれは冥界の王の手下でね。オレら囚人が、塔から脱走しないように見張る番人なんだ。もうオレなんか、小っちゃいころからお仕置きで何度も来てるから、顔見知りだよ」

 それでやさしいのかよ。

「お前、こんな暗いところに何度も幽閉されてきたのか」

 プーカが悪いんだろうとは思いつつも、ぼくはつい同情した。

「あー。たしかに。ほんとダサいね、ここ」

 プーカは今初めて気づいたように呟いて、ぱちんと指を鳴らした。

「え……」

 毛足の長いふかふかのカーペット。きらきらと多面的に輝く、電球の灯ったガラスのシャンデリア。真新しい壁紙。ローテーブルに、座り心地のよさそうなソファ。

 そこには実に近代的な、ホテルのロビーに似た空間が広がっていた。

「これから十年、バラ色の新婚生活を過ごすんだもん。このぐらい豪華じゃなきゃ」

「いや、なにこれ」

 牢獄がこんなに贅沢空間でいいのか。ぼくは目を白黒させた。

「さて、座って。訊きたいこと、いろいろあるでしょ。オレもくたくただし」

 ふう、とプーカは重力に負けるようにソファに座り込む。

 ぼくも隣におずおずと腰かけた。うわあ、黒の本革。

「えっと、まず……ここに十年いて、ぼくの肉体はどうなる?」

 ぼくの不安を、プーカは笑い飛ばした。

「大丈夫だよ。体感で何年幽閉されても、ここから出たら、現実世界では一日しか経ってない。時間を曲げるから、時の塔」

「だから十年でも温情措置だったんだな」

 女神の憐憫にあふれた眼差しを思い出した。

「オレなんか子どものころ、百年入れられたこともあるんだ」

「なにしたんだ?」

「お説法中の司祭の冠をにわとりにした罪」

 やめてやれ。

「教会にいたずらすると妙に罪が重いんだよね。さすがに飽きてすぐ脱獄したよ」

 それで懲りないんだから、プーカのいたずら好きは筋金入りだ。

「それでねとねとに追いかけられて、戦ってるうちに情が湧いたってことか」

「うん」

 なんと肝が太い。

「いざとなったらオレが脱獄させてあげるけどさ、オレとしては、女神さまをこれ以上怒らせるのはやだな」

「たしかに」

 魅力的だが逆らってはいけないと思わせる、威厳のある顔つきだった。あれは本気で怒らせちゃいけない人だ。

「だからおとなしくここにいよう? ね?」

 ぼくはため息をついた。

「まあ、一日ならぎりぎり死なないか……でも体感は十年」

「そう。ずうっとふたりきり」

 プーカはにこにこしている。

「そんなの、お前は飽きそうなもんだが」

「飽きない、飽きない。それできみがアオを忘れてくれるなら、ね」

 プーカはぼくの肩に腕を回した。

「アオに張り合ってるみたいだが、お前はいつからアオの中にいたんだ」

「え? ああ、うん、ずっと昔。きみと出会う前」

(ウソだな)

 日ごろは鈍いぼくでも、そう思うような早口だ。

「お前がアオの中にいるときって、アオの意識ってどうなってた?」

「そんなこと、今聞く必要あるのかい?」

「……ないかもな」

 ぼくがいちばん気になることだから、訊いただけだった。

 たしかに今そんなことを訊いたところで、十年もの間、ここから出られないことに変わりはない。ぼくは悲しくなった。

「今、アオの様子はわかるか?」

 会いたい気持ちが募って、思わず訊いた。

「夫の前でほかの男の話、しないでよ」

 プーカはすねてしまった。これ以上アオについて訊いても、まともに答えてくれそうになかった。

 ぼくは話を変えることにした。

「冥界って、ソフィアさまの嫁ぎ先だったな」

 プーカはどこかほっとした様子だ。

「うん」

「気の毒だな。政略結婚なんだろ」

「そう? 世間ではいい結婚だって言われてるけどな。すごい美男で、プーカさまよりお似合いってさ」

「そんなことありえるのか」

 ぼくはプーカの顔をまじまじと見た。これと同じぐらい。

「褒められちゃった。いやだわ周平さんたら、恥ずかしい」

 プーカは頬を押さえてわざと照れてみせている。

「忘れてくれ」

「やっぱりこの顔、きみの好みなんだ。イケメンに生まれてよかったぁ」

 そのとき、こんこんこん、とドアを叩く音がした。

 ぼくは飛び上がった。得体のしれない何かがドアの外にいる。

「もう、新婚さんの邪魔をするなんて無粋なやつだな。はーい、留守ですよー」

 プーカは声を張り上げた。

「いると言っているようなものじゃないか。入るぞ」

 見知らぬ男は閉じた扉の向こうで涼しく言った。次の瞬間、ドアが重い音を立て、左右に開き始める。

 ぼくは逃げることもできずに、ただ扉の隙間が広がっていくのを見つめた。

 最初は、闇だけが見えた。だがその闇には青白い顔があった。ろうそくの火がそれを照らすと、漆黒のローブを纏った黒髪の男だとわかる。

「こんばんは」

 男はぞっとするほど美しい顔をして、妙に礼儀正しく言った。ぼくは震えて声も出ない。

「どうも。周平、これがちょうど話してた冥界の王子さまだよ」

 プーカは膨れている。

「なにしに来たのさ」

「少し礼を言いに。異界からの客人よ」

 憂いを帯びた、ひんやりとした青い双眸がこちらを向く。ぼくは竦みあがった。

「は、はい」

「私の婚約者を惑わせたそこの非常識なひょうきんものを、よくぞ手懐けてくれた」

 たぶん褒めてくれているつもりなのだろうが、あまりに雰囲気が冷徹で、ちっともそんな気がしない。

「彼女も自らを恥じ、今は私の愛に応えてくれるようになった」

 男は大きな身体を静かに横へずらした。ローブの陰からは、おとなしく睫毛を伏せる女神ソフィアが現れた。

「私は女神ダヌの裁定に口出しをすることは許されない立場にあるから、あなたをここから出すことはできない。許してほしい。だがほかの望みならば聞くこともできよう」

 あなたがこわいので放っておいてください、とはとても言えない。

「じゃあさっさとここから出てってよ。せっかくラブラブなのに邪魔しないで?」

 プーカはぼくの肩を抱いた。ぼくは目を白黒させるばかりだ。

「お前には聞いていないのだがね。たしかに、お邪魔かな」

 冥界の王子の横で、女神ソフィアは傷ついた顔をして目を逸らしている。

「そっちも忙しいでしょ? そこのお嬢さんとよろしくやっててよ。ごめんね、お姫さま。こういうことだから」

「ひゃあっ」

 プーカはぼくの腰をするんと撫でた。不意打ちだった。ぼくは恐怖と恥ずかしさで声を裏返した。

 氷のように美しい男はため息をついた。

「それ以上は不要だ、道化よ。これで彼女もお前というものがよくわかったはずさ。ではまたいずれ」

「ばいばい、もう来るな」

 閉ざされていく扉に向かって、プーカはひらひらと手を振った。

「ふー。さっそくお邪魔虫が来たよ。これからが思いやられるね。いったい何しに来たんだか」

「牽制、かな?」

「かもね。オレは浮気なんかしないっての。こんなかわいい旦那さんがいるのにねー」

 プーカは指を弾いた。

 現代的なインテリアの中で異質に存在していた重厚な扉が、軽やかな音とともに消える。あとにはただの壁が、何事もなかったかのように白くたたずんでいる。

「これでよし」

「なにもそこまでしなくても」

 出口が消失して、ぼくは狼狽えた。どうせ内側からは出られない扉だということはわかっているが、存在が完全に消えてしまうのは少しこわい。

「いいんだよ、これで」

 実にすっきりとした表情で、プーカはソファに背中をもたせかけた。

「それで、なんの話してたんだっけ?」

 ぼくは困惑しながらも、ずっと疑問だったことを聞いてみることにした。

「そういえば、女神さまがお母さんだったって……ソフィアさまとは兄妹だったってことだよな」

「ああ、それ訊くんだ。まあ、結婚したんだし? 隠しごとはなしだね」

 プーカは楽に脚を組んだ。

「女神さま、異国の神との結婚が決まってたのに、父さんが誘惑したんだよ」

「何してんだ妖精王……」

「で、秘密裏にオレが生まれた。母さんはそれを恥じた。オレなんか、別にいいじゃんって思うけど、正義の女神的に不道徳な恋愛はまずいらしくて」

「その辺のお裁き、すごく厳しかったもんな……」

 女神ダヌが目を吊り上げた瞬間を思い出して、身震いした。

「オレたち父子は下界に追放されて、ただの妖精になった。父さんが人間の争いに肩入れしたって難癖つけられてね」

 真面目な話に飽きているのか、プーカはぼくの短い髪をじゃりじゃりと撫でて遊んでいる。

「ソフィアさまをたぶらかしたとか、恋の魔法を使ったんじゃないかって疑われたのは、なんでだ? 兄妹なら、そんなつもりで近づいたわけじゃないって女神さまでもわかりそうなものなのに」

「オレも母さんじゃないから、わかんないけど……オレが神の地位に復権したがってるって、誤解してるっぽい? なんか前、そんなこと言ってた気がする」

 耳をくすぐってくるのはやめてほしい。ぞわっと鳥肌が立って、ぼくは首をすくめた。

「そのためなら妹をたぶらかすぐらい、しそうだって思われたのか」

「そんなとこじゃない? あーあ。兄妹だってことをお姫さまに黙っててあげたのは、母さんのためだったのに。かわいそうなオレ」

 上体を傾けて遠ざけても、いたずらな手は耳を追いかけてくる。

「オレはそんな野心家じゃないっての」

「誤解されてるのは、気の毒、だな……」 

「うん。だからなぐさめてよ」

 逃げ続けているうちに、気づけばソファの上に押し倒されている。

 去年のあの日、アオがしたのと同じように、プーカがぼくにのしかかってくる。

「おい」

 プーカの影がぼくを覆い尽くす。意味深長な笑顔がぼくを見下ろしている。

 こいつとふたりきりにされたことの現実感が、今になってようやくやってくる。もう、逃げ場はない。

 食われる――――

(ん、食う?)

 そのとき、ぐうう、と、なんとも間抜けな音があたりに響き渡った。

 その音はぼくの腹から鳴っていた。

 プーカは噴き出した。

「きみの腹の虫、なかなか肺活量あるね」

「仕方ない、だろ……ダーロンに着いてからなんにも食ってないんだぞ」

「そうだったっけ。じゃあ、二階に行こうか。一応、囚人は飯には困らないようになってるから」

 階段は小部屋のように仕切られている。

 古くて陰気な石段が、プーカに踏まれるとじゅわっと赤じゅうたんに変わる。殺風景だった壁が透かし模様の入った壁紙でくるくると覆われ、四角いガラスの電灯がぽん、ぽんと生まれる。

 ここも高級ホテルみたいだ。そんなに馴染みのある場所というわけでもないが、現実の景色に近いおかげで、塔に入ったときよりは気持ちが落ち着いてきた。

「ふう。リフォームもなかなか大変だな。ちょっと充電するから、待ってて」

 そういって肩をごきごき鳴らしているプーカ越しに、部屋を覗く。

 さっきまでの一階と同じつくりの暗い部屋に、大きな長テーブルが置いてある。その両端に料理がしつらえてあって、古めかしい蝋燭立ての光で照らし出されている。

 皿を見て後悔した。

 あれはなんの肉だ。どういう生き物の、どういうパーツを切るとあんな不気味なかたちになるのか。

 あれは野菜なのか。色が蛍光ピンクだが食えるのか。

 シュロンの実と同じぐらい、見たこともない材料ばかりで作られている。

(これを、食えと……)

 保守的にできているぼくの胃袋が早々に白旗をあげている。

「どっこいしょー」

 その隣で、きわめて日本的な掛け声とともに、プーカは両手を振った。

「おおっ」

 風が稲を撫でていくみたいに、ざあっとレストランの内装が広がっていく。大きな窓。その向こうにはなぜか都会の夜景が見える。

「あ」

 ぼくはようやく思い出した。

 その部屋は、部活の大会準優勝のお祝いでアオを連れて行った、ホテルのレストランにそっくりだった。

 ああ、あいつはまだ高校生で、きらきらした瞳で夜景を眺めていたっけ。

 ぼくは吸い寄せられるように窓の前に立ち、懐かしく目を細めた。

「さあ、食べて食べて」

「……ああ、そうだったな。ありがと……う!?」

 ぼくは白いクロスのかかった丸テーブルの席に座ろうとして、料理を二度見した。

 そこにはぼくがダーロンに来る前に食べていた、あのまずい海苔弁当がある。ちゃんと食べかけだ。

「な、なんでこれなんだよ……」

「だってきみ、現実世界でこればっかり食べてただろ? 好きなんじゃないの?」

「好きじゃない……」

 まあ、さっきの蛍光ピンクの料理よりはだいぶましだ。ぼくはしぶしぶ席についた。

「ふーん。好きじゃないものをわざわざ何度も食べるの、変わってるね。はい」

 ぼくの前で、弁当がぽんと煙をあげた。

「こ、これ」

 真っ白な皿に、グレービーソースのかかったヒレ肉。彩のクレソンと蒸し野菜。アオにごちそうしたフランス料理のコースの、お肉の部だとわかった。なんでこれがここに。

「気に入った?」

 プーカは得意げだ。

「いいのか、こんなの食って」

「どうぞ。めったに食べないものの方が好きなんだ。人間は変だね」

「思い出の料理だからな」

 ぼくが思わず微笑むと、プーカは鼻の上にしわを寄せた。

「アオとのでしょ? やっぱなし! ……ってのはかわいそうか。はあ、オレやさしい」

 あきらめたように頬杖をついてぼくを眺める。

「おいしい?」

「ああ」

 ひとくち食べると、上質なうまみが口に広がっていく。それと同時に、『肉、肉』とはしゃぐアオの顔が思い浮かぶ。

 帰りたい。おいしいのに、胸がずきりと痛んだ。

「こちらのお料理は、妖精王子プーカの提供でお送りしております。アオじゃないからね? わかってる?」

 プーカがぼくの顔を覗き込んでくる。ぼくはあわてて答えた。

「わかってる、わかってる」

 肉を切ろうとして、ふと、プーカの前に何も料理がないことに気づいた。

「おい、お前は食べないのか?」

「ん? あー、オレ、今食べられないから」

「なんで」

「なんでも」

 ぼくは戸惑った。

「食わないとダメだぞ?」

「心配してくれんだ。やっぱ周平、やさしいね」

 プーカはにこにこしている。

「食べ終わった?」

「ああ」

 コース料理と違って肉しか出なかったけれど、今のぼくにはじゅうぶんだ。

「じゃあ、寝よ? といっても、リフォームで魔力使いすぎちゃって、新婚初日なのになんにもできないや。ごめんね、明日はちゃんとしよう」

 プーカは大あくびした。

「あ、はは……」

 ぼくは乾いた笑いを浮かべた。そうだった。ぼくはまた既婚者になったんだった。

(夢の世界、だけ、だよな)

 プーカには悪いが、早く帰らなくちゃ。アオに会いに。ふつうの穏やかな毎日に。

 でないと――――プーカにほだされてしまう。

「じゃ、三階に行こうか」

 また階段をゴージャスに変えながらプーカは段をのぼる。少し足がふらついている。

「おい、疲れるなら無理しなくていいぞ。ぼくのためなんだろ」

「オレたちの新婚生活のためさ。さて、最後」

 三階につくとプーカはため息をついた。

(あれ)

 古い寝室が、ため息とともにふわりと様子が変わっていく。

 石の壁を押しのけてそこに広がっていくのは、どう考えてもプーカの趣味とは違いそうな、目に染みるほど真っ白な病室の光景だった。

 心臓の鼓動をしめす電子音と、人工呼吸器の空気音が無機質に響いている。ぴったりと閉じたカーテン。重苦しい空気。

 ぼくは息を飲んだ。

「プーカ?」

「ごめん。間違えちゃった」

 プーカが指をはじくと、病室は消え、しっとりとしたスイートルームの景色になる。

 白いシングルベッドの代わりに、キングサイズのベッド。窓を覆っていた陰気なベージュの布も、上質なサテンのカーテンに変わる。ダウンライトがいくつか、やわらかな光を落としている。

「もーうダメ死んじゃう」

 プーカはぼふんと身体をマットレスに放り投げた。すぐに安らかな寝息の音が聞こえてくる。

 ぼくは呆気にとられてプーカを見下ろした。こんなになるまで魔法を使うな。

 起こさないようにそっとシーツを掛けてやって、ぼくは周りを見回した。

(ほかに寝るとこ……)

 悩んだが、ぼくは絨毯の床に転がった。少し硬いが地面ではないぶん、昨夜よりずっとましだ。

 よく考えたらダーロンに来てからまったく眠っていない。徹夜なんて大学時代以来かもしれない。

 目を閉じるとすぐに深い眠りに引きずり込まれていく。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る