第6話 マグメルへ
焚火が消えて、煙だけが細く立ち上っている。アオに化けるのをやめた男はうしろからぼくを抱きしめ、眠っている。
身体はぐったりと疲れているのに、眠れなかった。
(流されてしまった)
情けなさがぼくを襲う。プーカは途中からほんとうの姿を晒していたのに、ぼくは彼を止められなかった。
『ひどいよ、叔父さん。オレのだったのに』
最中にプーカがアオの声色で言った、ぼくを責める言葉がよみがえる。アオへの罪悪感で、胸がきりきりと痛んだ。
どうせ叶わない恋だし、これは夢なのだから、偽物のアオでもいい。ほんの一瞬、そう思ってしまった。
だがプーカはアオを演じることをやめた。ほんとうは誰に抱かれているのかを、ぼくに直視させた。
(アオは、プーカに操られて告白してきたわけじゃなかったのかもしれない)
プーカの口ぶりから、そう思った。
(だとしたら。アオがまだぼくのことを好きでいるとしたら……ああ、ぼくはなんてことを)
この間違いが現実ではなく、夢だということだけが、ぼくの救いだ。
(帰りたい)
虫が良すぎるかもしれないが、元の世界に戻って、全部悪い夢だったことにしてしまいたかった。
現実に戻れば、この生々しすぎる身体の感覚も、なかったことになる。あの穏やかな日常が、間違ったすべてを消し去ってくれる。
(でも、いったいどうやって逃げればいいんだ?)
妖精王子がぼくを抱いたのは、最初はウソをまことにしてやろうと思って始めた、ただの気まぐれだった。
だがプーカはそのうちに、ぼくを現実に帰す気がなくなってしまった。
『ずっといっしょにいよう……ほんとはオレ、さびしかった』
『だから周平のこと、絶対、帰してやらないんだ』
(そりゃ、かわいそうだとも思うが)
ダーロンの人々は女神に逆らうのを恐れ、誰も味方をしてくれないのだと言っていた。
(ダメだ。ほだされるな。こいつはぼくとは別世界の生き物だ。最初から出会うべきじゃなかった)
アオに化けていなくても、どことなくアオに似ているのが困る。いたずらっぽい瞳。さびしさを訴えるときの、甘えるような表情。
(似ているからって、なんだ。本物のアオに会いたいんだろ、ぼくは)
柔らかいくるくるの髪がぼくの首筋に触れている。この期に及んで嫌いになれなくて、ぼくはため息をついた。
(焚火の明かりが消えちまったから、本にヒントをもらうわけにもいかない。どうすれば)
プーカはああ言っていたが、やはり本でヒントをくれていたのは、女神ダヌ以外にいそうにない。
(ということは、女神さまに頼るしかないのか)
天上都市マグメル。プーカの助けを借りずに、いったいどうやって向かえばいいんだろう――――
そのとき、空に厚くかかっていた雲が晴れた。月の光がきらきらと溢れだして、ぼくたちを青白く包み込む。
ぼくはしばらく月の美しさに見惚れていた。
(そうだ、これなら本が読める)
そばに放り出されたままの鎧になんとか手を伸ばし、プーカを起こさないように気を付けて漁る。硬い表紙の感触が指先に触れた。
(もうちょっと……よし、とれた)
雲で月が隠れる前にと、ぼくはいそいでページをめくった。
『困った異界の者は、女神ダヌさまに会うことを決意しました。すると、森の向こうにホタルのような光が見えました。勇敢な異界の客人は、光を追って森の奥へ向かいました。
光の先には、マグメルに続く階段がありました』
ぼくはあたりを見回した。
(あれか)
木々の合間から小さな光が漏れている。
そうっとプーカの腕から抜け出し、生乾きの服を身にまとう。鎧は装着方法がわからないから剣だけ腰に差して、手に絵本を持った。
「んん……」
プーカの声がして、ぼくは飛び上がりそうになった。
振り返って、ほっとした。プーカは寝返りをうっただけだった。すうと大きく息を吸うと、ふたたび気持ちよさそうな寝息を立てはじめる。
ぼくは思わず微笑んだ。こうしてみると年相応に無邪気な寝顔だ。
ひとり置いていくことに少しだけ罪悪感を感じたが、一生この世界に留め置かれるのはやっぱり困る。ものすごく困る。
ぼくは光の方へいそいだ。
最初はおそるおそる。しだいに勇気が出て、木々の間を縫って走る。
狼に似た獣の声が遠くに聞こえる。夜行性の鳥が不気味な羽音を立てる。正直ものすごくこわい。ぼくには絶対向いてない。
(まだつかないのか)
光がだんだん大きくなっていく。やがてようやく視界が開けた。木の根に足をかけ、ぼくは立ち止まった。
小さなドームが目の前にあった。朽ちかけているのにおごそかな雰囲気がある。おそらく聖堂なのだろう。
人間の手が長く入っていないのか、古風な装飾のついた柱やタイルの床がツタで覆われている。
光は聖堂の窓から放たれているように見えた。
アーチ状の入口をくぐって、丸屋根の下に出る。ガラスの抜けた屋根の窓から月の光がまっすぐに落ちてくる。
その下に立つと、しゅう、と光が変形して螺旋階段のかたちをつくった。
「すごいな」
足をかけると、たしかに実体がある。絵本の予告がなければ腰を抜かしていただろう。
ぼくは上を見上げた。天井の窓は光で溢れて、その先はよくわからない。
「うぉぉぉん」
ぼくは思わず階段をのぼる足を止めた。建物の外で、獣が遠吠えしている声がする。
入口を振り向いて、ぼくは戦慄した。
「プーカ……起きたのか」
狼に似た多頭の獣を何匹も従え、黒い大きな犬がアーチの下にたたずんでいる。犬は光を放って、妖精王子の姿に戻った。
「この子たちが教えてくれたんだ。オレに黙って行っちゃうなんてひどいじゃないか。マグメルに上がって、どうしようっていうのさ」
獣たちは低く唸りながら、入口を塞ぐように並んでいる。逃げ道はない。
ぼくの頬を汗がつたった。
「……女神さまに会う」
「現実に……アオのところに戻してもらうために?」
「そうだ」
「ふーん」
ぱきぱきとツタを踏みにじって、王子はこちらへ向かって歩いてくる。
きっとぼくをマグメルへ行かせないつもりだ。
ぼくは警戒して、何歩か後じさりするように階段を上った。
緊張感の中、王子は突然、くすっと笑って肩をすくめた。
「まあ、いいんじゃない? やってみれば、さ」
ぼくはぽかんとした。
「オレも、きみとのおつきあいを女神さまにご報告しようと思ってたところだしね」
「えっ」
「オレも連れていってよ」
王子はぽんと柴犬の姿になった。かぼすそっくりの笑顔で、しっぽをゆっくりと振っている。
プーカの意図はなんだ。何をしようとしているんだ。
陽気な柴犬の顔をいくら見つめたところで、読み取れるはずもなかった。
ぼくはため息をついた。何を企んでいるかは知らないが、こんなかわいい姿をとられてしまったら、手荒なことができるはずないじゃないか。
「しょうがないな」
螺旋階段を、ぼくと柴犬はゆっくり上がっていく。屋根を超えると、螺旋階段を内包した光の柱が細く空へ伸びているのがわかった。
(エスカレーターがよかったな)
はあ、はあ。中年にはなかなかきつい階段で、だんだん息が上がってきた。
柴犬はぼくを追い越し、ときどきこちらを振り向きながら、ひょこひょこと階段をのぼっていく。無邪気な様子がかえって不気味だ。
プーカは、ぼくとの関係を女神さまに報告すると言っていた。ぼくを現実に帰すつもりはなさそうだ。
『やってみれば、さ』
(含みのある言い方だったな)
女神さまがぼくを現実に戻してくれるわけがないと思っているようだった。
(じゃあ女神さまは、なんでぼくにヒントを)
考えているうちにずいぶん高くのぼったようだ。
見下ろすと、聖堂の丸屋根がはるか遠く小さく見える。
そのうえ、足場にしているのはただの光。
「ひえ」
一瞬気が遠くなりかけて、あわてて首を振った。ここで倒れたらほんとうに死ぬ。
なるべく足元を見ないように進んでいくと、しだいにあたりに霧が立ち込めてくる。上も下も何も見えなくなったと思ったら、一気に晴れた。
螺旋階段のてっぺんで、ぼくは呆然と立ち尽くした。
レリーフで飾られた大きな門が、すべての物理法則を無視して青空の中央に浮かんでいる。
門の向こう側には、真っ白な石で組まれた街並みが、まるで額縁に収まったトリックアートのように見える。大通りが伸びた正面に、丸屋根と尖塔とを組み合わせた白亜の大聖堂がある。
異様なのは、大通りに人がまったくいないことだ。ほんとうに作り物みたいだ。門から覗く街は、汚れのない美しさをまとって静まり返っている。
「ここがマグメル……ぼくなんかが入っていいのかな」
びくびくしていると、突然、柴犬がどん、と大きくなった。
何を思ったか、黒い犬の姿に変身しなおしたらしい。真っ白な街とのコントラストが強烈で、目がちかちかする。
「うぉおおおん」
巨大な犬は真っ青な空に向かって一声高く鳴いた。
次の瞬間、ぼくの身体がふわっと浮いた。足場を求めて、ぼくの足が意味もなく宙を蹴る。はるか下には、下界。
「うおっ」
首根っこを咥えられたのだとわかったころには、黒犬は門の内側へと駆けだしていた。
ぶんぶんと激しく、鞭のようにしっぽを振って。それはもう、楽しそうに。
「お前、これがやりたかったんだな!? や、やめろ、落ちる」
ぼくの悲鳴がむなしく美しい都市に響いた。
路面に沿って整然と並んだ建物が、猛烈な風とともに背後へすっ飛んでいく。身体がぶらんぶらんと振り子のように揺れる。
いつかアオと乗ったジェットコースターがかわいく思える絶叫具合だ。
真っ黒な犬は大通りをひと飛びに駆け抜け、大聖堂の入口に向かって突進していく。
壮麗な飾り窓と神像で装飾された、重厚な扉だ。
ちなみにしっかりと閉ざされている。
「ぎゃあああ、死ぬ」
犬の鼻先で先陣を切らされているぼくは、腕で顔を覆った。
どん。衝撃が走る。ぼくの手足が、暴風に煽られたてるてる坊主さながらにたなびく。
だがぼくが犬と扉とに挟まれることはなかった。
プーカは横腹を扉にぶち当てたらしい。勢い余って、犬は横向きにホールをすっ飛んでいく。
ぼふん。犬は真っ白な大理石の床に転がった。そのはずみで、ぽろっとぼくを口から離しやがった。ぼくは背中を打った。
「いてえ」
こちらは平々凡々を絵に描いたような中年で、巨大な犬に放り投げられるようにはできていない。腰をやらなくてほんとうによかった。
犬も背中を強打したはずだが、丈夫らしく、すぐに立ち上がる。それからぶるんぶるんと身体を揺すった。黒い毛がふわふわと抜けて、埃ひとつない床に降り積もる。
「怒られるぞ、そんな汚したら」
犬はおかまいなしに、四つ足を踏ん張って遠吠えした。
「うぉおおおん!!!」
地響きに似た声は空気を震わせ、建物全体に共鳴していく。壁かけのろうそくに灯っていた火がすべて消える。びりびりと飾り窓が揺れ、古風なステンドグラスが嫌な音を立てて軋む。やがて音を立ててガラスは割れ、床にきらきらと落ちていく。
満足したのか、犬は妖精の姿に戻ると、座り込んだ。
「疲れた。ちょっと魔力を使いすぎたかな。でも、すっきり」
「なんでこんな」
「腹いせ」
それだけかよ。
「でもおかげで、女神さまのおでましだ」
プーカが顎で示す方を見ると、まばゆい光が溢れている。目が慣れたころ、ほっそりとした脚が見えた。
「やはりあなたでしたか、プーカ」
豊かな髪に、白い布で包まれたたおやかな肉体。麦こそ抱いていないが、女神ダヌであることは明らかだった。
女神は眉間にしわを寄せてため息をついている。
「おとなしく現実世界にいてくれればいいものを。よりにもよって、わたくしの娘に恥をかかせて。そのうえ神殿を壊して。裁かないわけにはいかなくなるでしょう?」
思ったよりもずっと寛大そうで、ぼくは困惑した。あれ、プーカを殺そうとしてたんじゃなかったっけ。
「ソフィアさまはお元気で?」
「あなたには関係ありません。それで、そこの人間は?」
はっとぼくは目を見開いた。女神ダヌがぼくを知らない?
(なら、絵本でヒントを送っていたのは……?)
動揺していたせいで、気づけばプーカに先手をとられてしまった。
「オレの恋人。現実世界で、オレの義理の叔父でした。オレは彼を伴侶にすることを申し立てます」
驚いたような女神の視線がぼくに注がれる。
伴侶。あまりのことにぼくは言葉を失った。
はめられた。プーカがぼくをここまで案内したのは、ぼくとの結婚を申し立てるつもりだったからだ。
「ち、違うんです女神さま、付き合っているわけでは……ぼくはこいつに勝手にこちらの世界に連れてこられて、戻りたくて、その」
言い訳を重ねるぼくの横で、プーカはにたりと笑った。
「正義と豊穣の女神よ。彼はオレと一夜をともにしました」
「事実ですか」
「それは……そうですけど」
ぼくは口ごもった。
「人間に訊きます。それは力づくの、一方的な行為でしたか」
「……いえ、そこまでは」
「欺瞞はありましたか」
ぼくが「それはあった」と言える前に、プーカが割って入った。
「最初はね。でも途中からはほんとうの姿を見せていましたよ」
「事実ですか、人間」
「……はい」
プーカは畳みかけた。
「それに、オレたち妖精の魔法が、対象の願いを具現化するものだって、女神さまも知ってるでしょ。無理強いはできない」
女神は小さくため息をつくと、ぼくに向き直った。
「わかりました。あなたには、彼と永遠を誓う義務があります」
ぼくは唖然とした。
「そ、そんな、たった一回の間違いで」
穏やかだと思っていた女神の目が、その一言で急に厳しくなる。背筋がさっと冷たくなった。
こわい。新興宗教のおばさんに詰め寄られたときぐらい、こわい。
「憎からぬ相手と行った神聖な愛の営みを、気の迷いで済ませることは許されません」
威厳ある声が響いた。ぼくは口をぱくぱくさせることしかできなくなる。
「言ったよね。女神さまの倫理観は古風なんだよ」
プーカは勝ち誇ったように言った。
「そして伴侶となった者は、罪人ともに罰を受ける義務を有する。そうですよね、女神さま?」
「ええ」
「そんな、めちゃくちゃな」
女神さまはぼくに憐憫の目を向けた。
「知らなかったのですね……あなたは現実世界からの客人。無知を理由に罪から逃れることはできませんが、酌量の余地があります」
女神はふわりと手を上げた。
時間を巻き戻したように、粉々に砕けたステンドグラスが窓枠へ戻っていく。ぼっと音を立て、壁じゅうのろうそくに火が灯る。プーカが壊した扉が元通りになり、かたく閉ざされる。
まるで何事もなかったかのようだ。
「神殿への被害は軽微ですね。残るはわたくしの娘に対する罪ですが……娘もプーカに未練はないようですし、プーカがその男と添い遂げるならば、もう実害はないのでしょう。しかし」
ほっとしかけて、ぼくはふたたび凍り付く。
「娘の評判に傷がついた以上、なんらかの罰は受けてもらわなければなりません。あなた方には十年の間、時の塔での禁固を言い渡します」
まるで温情をかけるかのように、女神は告げた。
「十年!?」
そんな。ぼくの肉体が確定で腐る。
「たった十年でいいんですか? やったぁ」
妖精の感覚は人間と違うのかもしれない。プーカは無邪気に喜んでいる。
女神はまた眉間に深々としわを寄せた。
「命拾いしましたね、プーカ。教会の権威を失墜させた時点で、あなたには極刑がくだってもおかしくなかったのですよ」
「不出来な息子をこの世から厄介払いできなくて残念でしたね、母さん」
プーカは取り澄まして答えた。女神は一瞬沈黙した。
どういうことだ。あの少女とプーカは兄妹……?
なら、なんでこんな騒動に……?
「それを他言したら、今度こそ命はありませんよ」
女神はそう言い終えると、手を天にかざした。
だん。音を立てて床が抜ける。
「え」
ぼくは叫ぶ間もなく、真っ暗な奈落へと落ちた。
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