第5話 プーカ

 ぼくはゆっくりと目を開いた。視界には星のない夜空が広がっている。

 焚火がぱちぱちと鳴る音がする。木々のざわめき。森の中の、少し開けた場所のようだ。

「うぉっ」

 妙に野太い犬の声がして、ぼくはあたりを見回した。プーカだろうか。

 するとぼくのそばに、何やら黒い影がそびえているのに気づいた。

 なんの影だろう。目を凝らすと、ぼくはぎょっとした。

 それは人間よりもなお大きな犬だった。

 黒い色をしているせいで、夜空に馴染んでしまって、はじめはよく見えなかったのだ。

「でっか」

 黒犬はずぶ濡れだった。

 そして、ずぶ濡れの犬がすることといったら、ひとつだ。

(く、くるぞ……)

 思った通りだった。

 犬は巨大なドリルのように全身をぶるぶると震わせた。

 暴風とともに、土砂降りのような水しぶきが身体に打ち付ける。

「こ、こら」

 しぶきをまともに浴びて、ぼくは思わず叱った。犬はそっぽを向いて、ばたんと腹ばいになる。

 不満そうに垂れたその太く長いしっぽに、見覚えがあった。

「お前、プーカなのか」

 伏せた耳がぴくりと動いた。

「ありがとう。ぼくを助けてくれたんだろ。そんなずぶ濡れになって」

 胸があたたかくなる。置き去りにされた恨みも忘れてしまった。

 プーカはすねたまま、何も言わない。

「そんなでっかい犬にも化けられたんだな」

 笑うと、プーカはぽふんとアオの姿に戻った。茶色い髪はまだ濡れている。

「ふだんはこっちのでかい方だよ。柴犬になるのはきみの前だけ」

「へえ」

 ぼくは身体を起こした。服がびしょびしょだ。服を絞ると水がいくらでも落ちてくる。

「それにしてもソフィアさま、乱暴だなぁ。理性の女神なのに」

「ふだんお堅い人が暴走すると、厄介だろ」

「そういうことか」

 そういう人だから、かえってプーカみたいな天真爛漫な男に恋をしてしまったのかもしれない。

「で、なんできみ、勝手にお姫さまに会って、あんな面白いことになってたわけ。オレだけ仲間外れにして」

 思い切り不機嫌な声で、プーカはぼくに訊いてきた。

 ぼくは困惑した。

「湖にぼくを転送したのはお前じゃなかったのか」

「違うよ。きみが勝手に消えたんじゃんか」

 ぼくはぎょっとした。プーカのせいじゃない?

「じゃあ誰が」

「オレが聞きたいよ」

「女神さまかな。お前の計画を事前に察知して、それで」

「あのね。オレの結界は完璧だよ。そうじゃなきゃ、オレの歴代のいたずらは成功してない」

 それもそうか。

「それなら、お姫さまだな。ソフィアさま、最初はぼくのこと、プーカ本人だと勘違いしてたから」

「なーんだ。そういうことか。もう、オレも混ぜてよ」

 プーカはころっと機嫌を直した。

「で、オレが教えたとおりにしたら怒らせちゃったってわけか。やば、オレのせいじゃん、ごめんね?」

「違うんだ……ごめん。ソフィアさまにほんとうのこと、話した」

 プーカは勢いよく振り返った。

「は!? なんで!?」

「だって、騙すのがかわいそうで」

「なんだよ、それ」

 プーカは頭をがりがりと掻いている。

「そりゃオレだって、ちょっとはかわいそうだと思うけどさ。オレの命がどうなってもいいのかよ」

「そういうわけじゃないが……要は、お姫さまがお前をあきらめたらいいんだろ? 何も騙すことはないじゃないか。あなたのことは好きになれません、ごめんなさいって素直に言えば」

「そんなひどいこと女の子に言える?」

「男と付き合ってますってウソの方がある意味ひどいぞ」

 絞れば絞っただけ、ばらばらと雫が落ち、地面に吸いこまれていく。服の水気を切っているうちに、ぼくは大切なことを思い出した。

「そうだ、本……!」

「本?」

 プーカは怪訝な顔をする。

「ほら、お前の城にあった絵本だよ。ずっとぼくに指示を出してくれてた」

 あわてて胸元に手を突っ込む。

「あった、よかった」

 驚くべきことに本は無事だった。何らかのまじないがかかっているのか、紙には濡れたあとすらない。

「その本が、きみに指示を?」

「そうだよ。プーカが指示してたんだろ」

「オレは知らないぞ、そんなの」

「え?」

「ちょっと見せて」

 ぼくはページを開いてプーカに手渡した。

(プーカは知らない? この本のメッセージって、プーカから送られてるわけじゃないのか)

「じゃあ、誰がぼくに指示を。もしかして、女神さま……?」

「オレの城にあった本だろ? そんなわけあるかよ」

 たしかに。

 プーカは中を一瞥すると、呆れた顔ですぐに本を返した。

「最初の数ページ以外、何も書いてないじゃんか」

「え、そんなはずは」

 中を見ると、ちゃんと新しいページが読めるようになっている。

「ぼくには読めるんだが」

 プーカはふんと鼻を鳴らした。

「そんなのありっこないよ。だってきみ、人間だもん。これでもオレら妖精は神さまの末裔だよ?」

「神の末裔?」

「もとはオレらだって、神さまだったんだ。大昔、父さんが人間の争いに加担したって罪を着せられて、マグメルから追放されちゃってさ」

「それで妖精になったのか」

「きみたちに読めてオレに読めないものなんか、あるもんか」

「現にここにあるんだがな……」

 返ってきた本に目を落とすと、ちょうど教会の前で初老の修道士が詠唱している場面だった。

『ところで修道士がかけた異界の客人にかけたまじないは、女神ダヌさまのご加護でした。妖精の魔法を弾くかわりに、神の前では真実しか話せなくなるのです』

(あのまじないにそんな効果が)

 いつもは考えてから喋る方なのに、どうりであのときだけ口がすべったわけだ。

『今の異界の者には、妖精の魔法は効きません』

「ひどいよ、周平。ほんとうのこと喋っちゃうなんて。全部台無しじゃないか」

 プーカはまだすねている。

「あのな、プーカ」

「オレが殺されたらきみのせいだぞ」

「違う、聞いてくれ。今、絵本でわかった。全部、教会でかけられたまじないのせいだったんだ。神さまにウソがつけなくなったんだ、それでぼくはソフィアさまにほんとうのことを」

「さっきまでは、お姫さまが騙されててかわいそうだからって、言ってたよな?」

 プーカはしらっとぼくを見た。思い切り疑っている。

「それは、……そのときは、そう思ってたんだ。でもこの本にはまじないのせいだって」

 ぼくの声はおそろしくウソくさく響いた。

「でたらめばっか。なんだよ、せっかく助けてやったのに」

 取りつく島もない。

 途方に暮れて、ぼくはまた絵本に目を落とした。黒い犬が林を疾走する挿絵に視線が吸い寄せられる。

『一方、目の前から突然、異界の者が消え、プーカは大慌てになりました。プーカは黒犬の姿に変身すると、湖に急ぎました。

 するとどうでしょう。湖の水が、まさに異界の旅人を飲み込もうとしているではありませんか。

 プーカは湖に飛び込みました。黒犬はあまり泳ぎが得意ではありません。水流に煽られながら、なんとか旅人を大波から救出しました』

 挿絵を見ると、黒い犬にマントを咥えられ、宙ぶらりんになっている中年男が描かれていた。

『プーカは目くらましの結界を張ると、溺れた旅人を内側に横たえました。プーカはひどく心配していました』

 ぼくは思わずプーカを見た。

(プーカ……心配してくれてたんだ)

 アオに似せた不機嫌な横顔が、焚火の明かりに照らされている。ぼくの胸に、王子へのいとおしさがつのった。

 言われてみれば結界だって、焚火だって、全部ぼくのためにプーカが用意したものだ。

 プーカは困ったやつだが、根はやさしい。いたずらな瞳がアオにそっくりで、そのうえかぼすにも似ている。よく考えたら、かわいくないわけがなかった。

 

 ……いい加減、ここで気づけよ、ぼく。アオも水泳が苦手だっただろ? 

 

「ありがとう、プーカ。命懸けで助けてくれたんだよな」

 ぼくは妖精の頭に手を伸ばして、つぶやいた。泳ぐのが下手なくせに、挿絵のプーカはぼくを咥えて、がんばって犬かきしていた。

 くるくるの髪をそっと撫でると、妖精の肩がぴくんと動いた気がした。

「あ、照れてるな?」

「ちがうもん」

 焚火に照らされた耳が、なんとなく赤い。

 やっぱりかわいいじゃないか。ぼくはくすっと笑って、また本に目を落とした。

『異界の者はしばらく気を失っていましたが、やがて無事に目を覚ましました。女神さまの加護があったからです。

 しかしそのころには、プーカがかけた恋の魔法は、すっかりと解けてしまっていました。そのことをプーカは知りません』

 そのページを読んだとたん、ぼくはぞわぞわとした不安に襲われた。

 恋の魔法……? そういえばたしか城を出る前、プーカに何かの魔法をかけられたような……。

「ちゃ、ちゃんと魔法はかかってるはずなのに」

 うろたえるぼくの横で、何も知らないプーカはぶつぶつとつぶやいている。

「なんで肝心のときだけ、ほんとのこと言っちゃうんだよ。オレのこと好きなら、ちゃんと共犯になってくんなきゃ、ダメだろ」

 途方に暮れた様子で、濡れた頭をがしがしと掻いた。

 次の瞬間、プーカは何かを思いついたように頭を上げた。

「なあんだ、付き合ってるのがウソじゃなくなればいいんだ」

 ぼくを見つめる黒い目が炎に照らされて輝いている。突拍子もない悪さを思いついた、いたずら小僧のようだ。

「えっ」

 ぐいっと顔を寄せられ、ぼくはたじろぐ。

「女神さまとしては、オレが今後お姫さまに手を出さないとわかれば安心するはずだろ。計画がバレてようが関係ない、お姫さまじゃないやつと、現実に付き合えばよかったんだ。はは、オレ天才じゃん」

 プーカの両腕がぼくを地面に押し倒した。

「なっ」

 真っ暗な空を背景にして、アオそっくりの顔がぼくをにやにやと見下ろしている。

 嫌な予感は的中した。

「ねえ、『好き』だよ、叔父さん」

 アオの声が鼓膜を震わせる。

 首筋からぞくりとしたものがつたわって、ずんと腰が重くなる。

 動けない。まるであのときみたいだ、とぼくは思った。

 アオがぼくを押し倒して、身体に触れてきたあのとき――――

(あれ)

「だから抱かせて?」

 ぼくは呆然とアオの顔を見上げた。

 アオに抱かれた記憶が思い出せない。あんなに生々しかったのに、映像は現実味を急激に失って、色あせた。

(そうだ。現実世界で、アオはぼくを抱いてない)

 ぼくの信じていた世界がぐにゃぐにゃにねじれて、何が何だかわからなくなっていく。 どこまでがほんとうだ? どこまでがウソだ?

『プーカがかけた恋の魔法は、すっかりと解けてしまっていました』

 絵本の一文が頭の中でリフレインする。

 恋の魔法。

 そう、今のぼくには魔法なんてかかっていない。女神さまのご加護で、プーカの力はぼくには及ばない。

(そのはずなのに)

 混乱がぼくの手足から力を奪う。

 アオと同じ顔がぼくを見下ろしている。

 中身がアオではないことを知っているのに、ぼくの心臓は勝手にどくどくと脈打つ。おなかの中が切なくなる。

 何も信じられないのに、この肉体の反応だけが残酷なほど真実だった。

(どうして……ぼくはまだ、アオのことが、好き……?)

 まるでおもちゃ箱のリボンを解くように、王子が楽しげにぼくの鎧に手をかける。留め金が外れて、金属の板がばらばらと地面に散らばる。

『去年の夏。オレに迫られて、叔父さん、すげー動揺してたね。それってさ、もしかしてさぁ』

 アオに似せたプーカの声がぼくの脳内に響き渡る。

(魔法がかかる前から、ぼくはアオが好きだった、のか……?)

 そんなはずない。大事な甥っ子を好きになるなんて、ぼくにかぎって――――

『逆に言えばね、魔法が通じたってことは、相手にそんな願望があったってことだ』

 ぼくの言い訳を封じるように、プーカの言葉がよみがえる。

(そんな、あの偽物の記憶が……ぼくの願望、だった……?)


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