第4話 叔父さん、死にかける  

 うしろを振り返っても、暗い林が広がるばかりだ。見通しの悪い木々の向こうから怪しげな鳥の声がして、背筋が寒くなる。

 そういえば、このあたりは妖精王が放った危ない生物がうようよしているんだっけ。修道士がそう言っていた。

 ぼくは一気に心細くなる。あのタペストリーに描かれていた幻獣に会ってしまったら、もう助かりそうにない。

 突然湖に飛ばされるなんて。こんなおかしなこと、プーカのしわざ以外に考えつかない。

 ぼくだけを魔法で湖まで転移させて、プーカ本人はいったいどこへ行ってしまったんだろう。ぼくは途方に暮れた。

(そうだ、本)

 あたりは暗くなりはじめていた。真っ暗になってしまえば、頼りの本が読めなくなる。

 ぼくはいそいで絵本を開いた。さっきまで歪んで読めなかった続きが、また読めるようになっている。

 それにしても、不思議な絵本だ。これを通じて、誰かがぼくにヒントをくれているかのような。

(ヒントをくれてるとしたら、まあ、プーカだよな)

 プーカの城にあったんだし、そう考えるのが自然だろう。

 これがプーカからのメッセージなら、こちらからも返事ができたら便利なのに。

 ぼくをひとり置いていったことについて文句を言いたい。すごく言いたい。

 そんなことを考えながら、次のページを見た。

『異界の者は、真っ暗なサンラールの湖畔でひとりお姫さまを待ちました。すると湖面が静かに開き、湖底に続く階段が現れました。

 勇気ある旅人は、それを降りていきました』

(うわあ)

 そんな怖いことをしなくてはいけないのか。この冒険嫌いのぼくが。

 ぼくは無性に腹が立ってきた。

 ぼくが恋しているのはアオであって、プーカじゃない。

 彼がアオの姿でいるときは混乱してしまうが、こうして離れているときはちゃんと分けて考えられる。まいったか。 

(でも、これが解決しないと現実に帰れない。アオにだって再会できないんだよな)

 アオのことを考えると胸がぎゅっと切なくなる。

 この歳になるまで、ぼくは恋を知らなかった。

 倒木に腰を下ろして、暗くなっていく湖を見つめる。

(アオは……まだぼくを好きだろうか)

 ぽこぽことスマートフォン画面の下から浮かんでくる、緑の吹き出しをふいに思い出す。

 ぼくに迫ってきたあの日のあと、アオはあきらめ悪く、何度もメッセージを送ってきていた。

『好き』

『オレだけを見て』

『待ってて、お金が貯まったら会いに行くから』

 読むだけでくすぐったくなるような言葉たちが吹き出しの中に浮かんでいた。

 だが離婚した直後にすぐ、別の生き方を考えることができるほど、ぼくは器用じゃなかった。ずっと子ども代わりだった、ましてや同性のアオを恋愛対象として見ることも、そのときはまだできなかった。

 アオが目の前にいないことをいいことに、ぼくはアオからの真剣そうなメッセージを、全部軽くいなして済ませていた。

『目を覚ませ 単なる気の迷いだ』

『あのときはちょっと溜まってただけなんだろ』

『ぼくをダシにするな 東京に遊びに来たいって正直に言え』と。

 アオからも、自分の無自覚な恋心からも逃げていたあのころを思うと、胸の中を後悔が渦巻く。

 手遅れになる前に自分の気持ちに気づくべきだった。

 ちっとも前に進まないやりとりに飽きて正気に戻ったのか、それともぼくの離婚が耳に入って、自分のせいだと思いつめたのか。

 あんなに熱心にメッセージを送っていたのがウソのように、ここ一か月はアオからの連絡が途絶えていた。

(やっぱりあれは、ただの気の迷いだったんだろうな)

 あきらめてくれたなら、それがあいつのためなのに。胸が痛い。

 風が水面を渡っていく。さざ波が湖の縁をやさしく叩く。

(そもそも、だ)

 考えないようにしていたプーカの言葉がよみがえる。

『つい最近まで、現実世界にいたって言っただろ。オレはヤツの身体に宿ってたんだ』

(プーカは現実世界で、アオの身体を乗っ取ってた)

 呼吸の仕方を忘れたように息苦しくなっていく。

『好きだよ、叔父さん』

 アオからの唐突な告白。

 ――――あれはほんとうにアオがしたことだったのか?

 ずっとプーカがアオの中にいたというなら、ぼくに告白してきたことだって、当然プーカの企みだったんじゃないか。 

(そうだよな。たとえ気の迷いであっても、アオがこんないい歳したおじさんに恋するわけ、なかったんだ……なんで今まで気づかなかったんだろう)

 だがもう遅い。

 ぼくはどうしようもなくアオが好きだ。それに気づかないでいられたら、どんなに幸せだったか。

 ぼくは手のひらに顔を埋めた。

(プーカのやつ、なんてことしてくれたんだ)

 

 薄灰色の景色はしだいに闇に沈んでいき、やがて漆黒に塗りつぶされる。

 どうしようもなくひとりぼっちだ。不安と孤独が骨の芯までしみこんでいく。

 息をひそめて待っていると、湖面が内側から光り始める。

(あれ、か)

 ぼくはよろよろと立ち上がった。

 見えない船が走ったかのように、波がひとすじ立った。湖の水がそこから左右に分かれていく。

 滝のように水が左右を流れ落ちるその間に、光る階段が現れた。階段の先は闇だ。

(こ、これを下れ、と)

 足がすくむ。怯えた心がぼくにささやく。

 今のぼくは、ほんとうに現実に戻りたいのか?

 ぼくを愛していないアオに再会するために、このおそろしい階段を下るのか?

 ごうごうと水音がとどろく。それが記憶の中の音と重なって、とあるイメージを呼び覚ましていく。

 チューブに似た滑り台から、プールへ水が無限に流れ出る。真っ赤な浮き輪に、人工的な空色の水底。太陽の光を乱反射させる水しぶき。

 ぼくの脳裏に、アオのひまわりみたいな笑顔が鮮明に広がった。

 

 あれはいつだっただろう。たしかアオがまだ中学生で、はじめてレジャープールに連れて行ったときだ。

 浮き輪を浮かべられるスペースをようやく見つけて、そろそろとアオが浮き輪に座る。が、すぐに浮き輪は斜めになり、やがて無情にも転覆した。

 どぼんと重そうな音を立てて、日焼けした少年は水に沈んだ。

『お前、バリバリにスポーツできるくせに泳げなかったのか』

 大きな浮き輪にあわててすがりつくアオを見ながら、ぼくは呆れた。

『息継ぎむずくて』

 水面から出てきたアオは犬みたいにぶるぶると髪を振った。

『プールに来たいっていうから、泳ぎたいんだと思ったよ』

 流れるプールで人混みとともに流されるだけになるとは思っていなかった。

『だってあっちーもん。あと東京のプールってどんなのかなってさ』

『感想は?』

『楽しい。けどすげー混んでるね』

 たらいで洗われる芋の子になりに来たみたいだ。

『ぼくが土日しか時間作れなかったからな。平日ならもう少しましだったかもしれない』

『いいよ。叔父さんといっしょならなんでも楽しいし』

 あまり親にかまってもらっていないからか、アオはよくぼくに懐いていた。

『でもスライダーやりたかった』

 アオはうらやましそうに、らせん状の滑り台を見ている。

 ウォータースライダーは三時間待ちで、とてもじゃないが並ぶ気になれなかった。

『そうだな。もう少し空いたら、もう一度行ってみるか』

 ぼくがスライダーの混み具合を眺めていると、

『叔父さん、隙あり』

『わぶっ』

急にアオが水をかけてきた。

『やったな』

『今さ、マジで驚いてたでしょ』

 手で顔を拭うぼくを見て、アオは無邪気に笑っていた。

 灰色をしたぼくの人生で、アオとの思い出はいつも、鮮やかな原色をしている。

 

(やっぱり、帰りたい)

 たわいのない日常に。あいつが存在している世界に。

 どんな痛みが待っていたって、アオがいないこんな世界よりはずっとましだ。

 意を決して、ぼくは階段へ足を踏み下ろした。ぐらっと身体が揺れた。

「わっ」

 かすかな機械の駆動音がして、階段はひとりでに下へ向かって行く。

(エスカレーターあるのかよ、この世界)

 水音に包まれる。ひんやりと湿った闇がぼくを飲み込んでいく。

 最後まで下りきると、真っ暗だ。靴の下には湿った砂の感触がある。たぶん湖の底だろう。

 緊張で息苦しい。ぼくはいったいどうなってしまうんだろう。

「よく来てくれました」

 美しい声とともに、ぱっと白い光が溢れた。

 心臓が口から飛び出るかと思った。

「プーカ。あなた、プーカなんでしょう?」

 まぶしさに慣れないでいると、光の向こうから誰かがぼくに語りかけた。

「人間の庶民に変身しているのはわかっております。わたくしを現実世界に連れて行きなさい」

 その誰かは華奢な体つきをしていた。

 そして教会で聞いた、あの鈴を転がすような声。

 ぼくは何が起きたのか理解した。

 お姫さまだ。女神ソフィア。

「すみません、お姫さま。ぼくはプーカじゃないんです」

「まあ」

 光にようやく目が慣れて、あたりの様子がわかった。

 滝に挟まれた砂の道が、湖の端まで通っている。滝から落ちた水は不思議に砂に吸われて、溢れかえることはない。

 少し離れた場所に、馬車に似た車がひとつ停めてある。少女が乗ってきたものだろう。船が通ったように湖面に波が立ったのは、きっとあれが走っていたからだ。

 だが車を牽いているのは馬ではない。馬に似せて造った、歯車だらけの鉄製のからくりだ。

 どうやって動かすんだろう、動力は何だろうと考えかけて、やめた。

 どうせ魔法だ。考えるだけ無駄だ。

「だって」

 少女の声がして我に返った。ぼくは理性と技術をつかさどるという女神を見た。

 さすが神さまだ。たしかにこの世のものとは思えないぐらい美しい。教会にあった像そっくりの、生気のない美貌だ。

 だが不思議と心は穏やかだった。

 こんなにきれいだと、自分と同じ存在だと思えないからかもしれない。

 アオを思うときの、あの心のざわつきや危うさはない。

「あの果物。たしかにプーカの気配が残っていました」

 犬の歯型のことか、とぼくはぼんやり考える。

「それにあなたからも」

「プーカはぼくの……連れ、でして」

 お姫さまを怒らせないよう、ぼくは注意深く言った。

「では今プーカは」

「わかりません。ぼくを置いていってしまったので」

「そんな……お母さまの目をくぐって、やっと塔から抜け出してきましたのに」

 光の中、お姫さまは唇を噛んだ。

「ソフィアさまはよほどプーカがお好きなんですね」

 ぼくの心はずきずきと痛んだ。

 プーカはお姫さまのことを、ちっとも愛してはいないのに。

「たしかに政略結婚はお気の毒ですが、あいつより誠実な男、きっとほかにたくさんいますよ。あれはやめといたほうが」

「プーカを悪く言わないで!」

 少女の声が鋭くなる。

 かわいそうに。これは重症だ。

「あいつ、ぼくに恋人役を頼んだんですよ。お姫さまを諦めさせるために」

 ぼくには珍しく、考えるより前に言葉が溢れだした。

「現実世界に帰るためには、ぼくはあいつに協力しないといけないんですが……やっぱり騙すのはよくないですよね」

 お姫さまは大きな目を見開き、わずかに揺らしている。

「そんな。プーカはわたくしを、騙そうと……でも、ほんとうに付き合ってるわけではないのでしょう」

 わずかでも希望を見出そうとしているところが、さらに気の毒だ。

「ええ、まあ。キスはされましたけど、付き合ってるとかではけっして」

 お姫さまをなだめようとして、ぼくは口を滑らせた。

「キス……唇に?」

 闇の向こうで、少女は呆然とつぶやいた。

「そうですけど」

「ひどい、そんな、わたくしにはキスなんて一度も」

 お姫さまの唇から色が抜ける。全身が震える。

「許せない」

 お姫さまの声が危険に上擦っていく。

 あ、これ、やばい。

 そう思った次の瞬間、左右の滝がばんと音を立てて壊れた。

 しぶきとともに大波が押し寄せてくる。流れるプールどころではない。

 まるで重いブロックだ。逃げ道も、身構える隙もなかった。

 ふたつの水圧に挟まれ、どん、と鈍い衝撃が身体を走った。

「んぶ……っ!」

 ぼくは激流に飲み込まれた。

 口を閉じて息を止める間もなかった。激流に腹を殴られ、反動で大量の水が気管に入り込む。息ができない。

 意識が薄暗くなっていく。死ぬんだ、とぼくは思った。

 最後に見えたのは、アオのひまわりみたいな笑顔――――



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