第3話 旅立ち  

「わああああああ」

 濁流みたいに、偽物のイメージが容赦なく脳内に流れ込む。

 離婚前からアオと不倫していた? そんなはずあるか。この事なかれ主義原理派のぼくに限って。でも。

 ぼくは絨毯の床にうずくまって、頭を押さえた。

 インパクトのある夢を見たときのようだった。

 実際に起きたこととそうでないことの輪郭があいまいになって、混ざっていく。

 何がほんとうで何が偽物なのか、すぐにわからなくなる。

 今見た映像は真実だ。なんで今まで忘れていたんだろう……

「わああああああ」

 叫びながら、ぼくはごちごちと本棚に頭をぶつけた。

「な、なにやってんの」

 アオ(の顔をしたプーカ)が慌てている。

「妻を先に裏切ったのはぼくだった! なんてことだ!」

 ごん、とひとつ大きく頭を打ち付ける。夢の世界なのに、ちゃんと痛い。

「ええ、それ、そんなにショック? 元奥さんだって浮気してたのに?」

 アオ(の顔をしたプーカ)が困惑している。

「ぼくがするのはなんか違うだろ! しかも相手がアオ……なんてことを……」

 大事な甥っ子を止めることもできず、そんな関係になるなんて。保護者失格じゃないか。元義兄夫婦にどう申し開きすればいいんだ。

「真面目っていうか、なんていうか……洗脳はうまくいったみたいだけど、この反応は予想外だな……」

 アオ(の顔をしたプーカ)はぼそっと呟いた。

「お願いだから、そんなに自分を責めないで、ね? 全部、誘惑したオレのせいだから」

「そうだ! お前が悪い! お前が……」

 妖精を責めようと振り返ると、視界いっぱいに、いとしいアオの顔面が映る。

「アオ、が、そんなに、かわいいから……」

 ぼくは身体の奥までとろける錯覚をした。

「お、効いてる効いてる。カタブツのふりしてたわりに、やっぱアオに気があったんだ」

 妖精はうれしそうに言って、瞳を覗き込んでくる。ぼくは黒い瞳にくぎ付けになる。

「ねえ、オレのこと、好き?」

「うん……」

「ならさ、オレが殺されたら悲しいだろ?」

「うん……」

「じゃあ、女神さまを説得しなきゃね?」

「うん……」

 とろけたまま、ぼくは答えた。

 アオの顔で言われてしまえば、今のぼくは何も逆らえない。

「おりこう。ご褒美だよ」

 犬を褒めるように言って、アオそっくりの男はぼくの唇にちゅっとキスした。

 ぼくはひどく赤面して、ぺたんとその場に座り込んだ。

 今ぼくにキスしたのは、え、アオ? いや、違うはず、あれ……。混乱してしまって考えがまとまらなかった。

 

 ……今思えば、それも当然だったのだ。

  

「そうと決まれば、旅に出よう。女神さまは天上都市マグメルにいらっしゃるはずさ」

 妖精は指笛を吹いた。ぼくの身体が光って、着ていたスーツが西洋の民族衣装のように変わる。

「え、ちょっと、なにこれ」

 うろたえていると、まるで鳥のように鎧が飛んで来て、がちゃん、がちゃんとぼくの胴を覆う。

 マントが背中に翻り、最後にさっき柴犬が遊んでいた剣が、するりと腰の鞘に収まった。

「きみは魔法が使えないから。多少の武装はいるでしょ」

 さすがにこれにはびっくりして、さっきまでの陶酔も醒めてしまった。ぼくは呆然と自分を見下ろした。

「こ、これも魔法だよな」

「じゃなきゃ、なんなのさ。最先端テクノロジー?」

「ってことは、鎧にも願望がある……?」

 妖精は苦笑した。

「ないない。この手の魔法は、オレ自身の願いを消費して行使するんだ」

「なんでもありじゃないか」

「そうでもないよ? 使いすぎると気力が切れて動けなくなるから。きみも男の子だし、そういう経験あるでしょ、ね」

 セクハラ発言は無視しよう。

 プーカは机の引き出しを開けて、巻物を取り出す。

「はい、ダーロンの地図。まあ、マグメルへ上がる道は妖精には隠されてて、どこにあるかわかんないんだけど」

「じゃあどうやって」

 地図を受け取りながら、ぼくはつぶやいた。

「とりあえず、教会自治区に行ってよ。司教なら知ってるかも」

 地図を見ると、山を示す線の下あたりに、円形をした街がある。街の中心部には十字架のマークがある。

 山との位置関係からいって、到着したときに見かけた、あの尖塔のある街のことだとわかった。

「フェリシオ教会自治区……あれ、読めるぞ?」

 知らない文字で書かれた知らない言語のはずなのに、まるで日本語を読むように理解できた。なんだこれ。

「交渉するのに、言葉がわかんないのは困るから」

 これも妖精王子の仕業らしい。もうなんでもありじゃないか。

 読めないはずのものが読めるのがあまりに気持ち悪い。もう見たくない。巻物をくるくると戻して視線を上げ、気づく。

 妖精王子がいない。

 あわてて見まわすと、思っていたよりずいぶんと下にいた。柴犬の姿に戻っている。

「うぉっ」

 うれしそうな顔をして、柴犬はしっぽを振っている。

「……お前、その姿のときは喋れないんだな」

 さっきまではあんなにおしゃべりだったのに。かわいい。

(さすがに犬の姿だと、こっちも冷静でいられるな……)

 どうやらアオの姿に変身されてしまうと、ぼくは混乱してしまうようだ。

(さっきはよくもキスでからかってくれたな。アオとの間違いは、ぼくのいちばんデリケートな部分なのに)

 そう腹を立ててみても、このかぼすそっくりの真っ黒な目を見ると、ついかわいさに負けてしまう。ずるいなあと思いながら、ぼくは犬の首を撫でた。

 犬は舌を出し、はっはっと息をしながらなでなでを満喫している。

 しばらくすると、犬はまん丸い魅力的な尻をこちらに向けて、ふいっと書庫を出た。ぼくも後に続こうとして、ふと、床に落とした絵本が目に入る。

(貴重な日本語の本だし、持ってくか)

 こちらの言葉がわかるようになったとはいえ、母国語が目に入る安心感は計り知れない。

 本を拾い上げ、開いていたページに何気なく目を落とした。

「何これ」

 ぼくは目を剥いた。

 絵本には、中世ヨーロッパの鎧を着た中年男の姿が描かれている。

 周りの景色は、ぼくがいる部屋と瓜二つだ。

 床屋で短く刈った黒い髪。その下の顔はくたびれて覇気がない。

 挿絵の男は、どう見てもぼくだった。

「な、なんでぼくがこんなとこに」

 横には文章が添えられている。

『哀れな異界の客人は、絵本に書かれたとおり、シュロンの実と絵本を持って旅立ちました。そしてそれが功を奏します』

 どういうことだ。あわてて次のページを開いた。

「んん?」

 ぼくは目をこすった。

 そこには、たしかに続きとおぼしき絵と文章があるようだった。

 しかし何もかもが歪み、かすんでいて、何が書かれているのかさっぱりわからない。

 紙を傾けてみてもダメだった。テレビのニュース番組で見かける、犯人の顔を隠すための半透明のモザイクのようだ。

「なんだこれ……」

 正直、本をここに置いていってしまいたいぐらいには不気味だったが、さっきの文章はぼくへのメッセージみたいだった。

 謎解きゲームに出てくるヒントに似ている。解けないとき、アオがよくぼくに押し付けてきたっけ。

(気持ち悪いけど……絵本を持ってくって、書いてあるんだし……こういうの無視すると、ゲームだとだいたい詰むし……)

 そう自分に言い聞かせ、鎧の胸プレートに本を差し込んで、いそいで部屋を出た。

 犬はドアの前でおすわりをして待っている。

 うれしそうにぼくを見つめるさまが散歩を待つかぼすにそっくりで、ぼくは思わず懐かしくなる。

 その手前にはまだ、犬が散乱させたものがホールのあちこちに転がっている。

(シュロンの実……)

『シュロンの実と絵本を持って、旅立ちました』

 あの不思議な絵本の文章がよみがえる。

(これも持っていけってことか?)

 書いてあったとおりにするか、とぼくは思った。

「果物って、お前の、なんだよな。悪いけど持っていくぞ」

 さすがに泥棒はよくない。一言断って拾った。

「じゃあ、まあ、行こうか」

 待ってましたとばかりに、犬はしっぽを振って立ち上がった。

 

 城を出て林の一本道を下り、街に向かう。

 といってもぼくのガイドはかぼすそっくりの、気ままな柴犬である。

 その辺の棒を拾って振り回してみたり、突然地面に座り込んで頭のうしろを掻いたり。

 道端の花を引っこ抜いてみたり、急に駆けだしたかと思うと、野良犬と吠えあったり。

 こんなところまでかぼすに似なくてもいいのに。

「お前……自分のことなんだから真面目にしろよな」

 呆れて叱っても聞いちゃいない。

 ふつうなら歩いて一時間の距離を二時間かけて、ようやく街全体が見渡せる地点にたどり着いた。ぼくらの目的地である教会の尖塔が、低い屋根ばかりの街でよく目立っている。

 ここまで近づくと、勾配に巻き付くようにして、街の周囲に城壁がめぐらされているのがわかる。道の先には門があった。

 門には槍を持った番がいる。よそ者のぼくは少し警戒したが、今は平和なのか、門番はこちらをちらっと一瞥しただけで引き止めもしない。

 ごろごろと荷車を引く商人の列に続いて、街に入る。

 あまり広くはない坂道に店がたくさん並んでいる。刺繍の多い、色とりどりの民族衣装を着た人々が、袖を触れ合わせるようにして歩いている。

 柴犬なんて東洋の犬は見慣れないだろうに、人々はプーカのことを気にも留めない。これも魔法なのかもしれない。

「たった三つで五十ヴァン? 高いわ」

 露天商で野菜を品定めするお客の声が聞こえてくる。

「仕方がないんすよ。女神さまのご機嫌が悪くて今年は不作なもんで」

「プーカさまも困ったものね。よりにもよって女神さまの愛娘にちょっかいをかけるなんて」

「ええ、割を食うのは私ら人間なんですから」

(おい、言われてるぞ)

 柴犬は素知らぬ顔で、ふんふんと石畳の隙間を嗅いでいる。

「冥界から婿をとるお話が流れたら、どうする気かしら。百年前みたいに病がはやるのはいやよ」

「司教さまも困り果てておられますよ。たびたび贄を捧げて説得しているそうですが、姫君も頑なになられていて」

(政略結婚させられそうだったんだな)

 ぼくはお姫さまに同情した。

「まあ、あのプーカさまに言い寄られたら迷ってしまうお気持ちはわかりますがね」

 ぼくはそっとその場を離れ、中心部の尖塔に向かった。

 敵の侵入を防ぐためか、街は細い路地ばかりで、ひどく入り組んだ構造をしていた。おまけに曲がった坂が多い。

 迷いそうになっては地図を確かめ、気まぐれな柴犬の道案内を頼りに、ようやく教会にたどり着いた。どんよりと曇った空を刺すように、灰色の塔が伸びている。

 礼拝のマナーもよくわからないが、ここまで来たら入るしかない。

 やはり昔のいたずらが後ろめたいのか、王子は外でうろうろしている。

「来ないなら置いていくぞ」

 声をかけても犬は来ない。ぺたんとおなかを地面につけてしまった。

 かぼすの場合、こうなるとリードを引っ張っても動かない。

「ちゃんと待ってろよ」

 ため息まじりに、ぼくはひとりで教会に足を踏み入れた。

 中に入ると、壮麗な礼拝堂が広がっている。

 たくさんの席がならんだ先の壁には、装飾の多い十字架がかかっている。その両脇に、花で飾られた祭壇があった。

 近づいてよく見ると、片方の祭壇には麦の女神をかたどった像が祀られている。金貨に彫られていた、あの女神だ。

 もう片方は、噂のお姫さまなのだろう。華奢な少女の像だった。

「麦をお持ちの方が、正義と豊穣の女神、ダヌさまでございます。そのお隣が娘のおひとり、ソフィアさま。理性と技術をつかさどられます」

 腰の低い、初老の男性が声をかけてきた。黒いローブに身を包んでいる。

(プーカの使いだということは伏せて話をした方がいいな)

 この一件だけじゃなく、恋の魔法騒動のこともある。教会関係者はプーカにいい印象を持っていないに違いない。

「あなたが司教さまで?」

「いえいえ、めっそうもない。私はただの修道士で……そのような勘違いをなさるとは、よほど遠くからいらしたのでしょうね」

「あ……ええ、も、森の向こうから」

 ぼくは適当に話を合わせることにした。初老の男性は目を丸くした。

「あの森を越えておいでとは。よくぞご無事で……あそこは妖精王のおひざ元で、人間が入るのは禁忌とされていますでしょう。妖精王が見張りの獣を放っていると聞きますし、すぐに霧が巻いて、迷い込んだが最後、生きて出ることは難しいと」

 ぼくは寝室のタペストリーを思い出した。

 プーカたちのまわりに、たしかに多頭の幻獣が何匹も描かれていた。

(あれがほんとに森にうようよと……)

 ぼくは思わずぞっとした。

「え、ええ……この通り、武装しておりましたので」

 そんなに危ない林だったとは。プーカめ。

「あの、司教さまをお呼びいただけますか」

 ぼろが出る前にと、ぼくは話を進めることにした。

「失礼ですが、ご用向きは」

「う、うちの村はダーロンのはずれにあるんですが、今年の不作でたいそう困っておりまして……ぼ、ぼくが村を代表して、マグメルに直談判に行くことになったんです」

 街で聞いた話をつぎはぎして、なんとか言いつくろった。

 仕事でクレーム対応をしていたときだって、こんなにひどいウソをついたことはない。内心不安でいっぱいだった。

 ああ、なんでぼくがこんな目に。それもこれもあの王子のせいだ。

 だが王子を助けないと現実世界に帰れない。本物のアオにも会えない。

「そうでしたか。一応お取次ぎいたしますが、マグメルへの道はめったに開かないことで知られております。あまり期待なさらないように」

 修道士は疑うこともなく、気の毒そうに言うと、通用口の向こうへ急いで行った。ぼくは少しほっとした。

(一応、司教と話はできそうだが……)

 なんとなく祭壇を見ていると、像の前に供え物の皿があるのに気づいた。皿にはシュロンの実が山盛りになっている。

(そういやシュロンの実ってやつ、持ってたんだっけ。へんてこすぎて食う気にもならないし、お供えしとくか)

 麻袋から果実を取り出して思案する。

 実はひとつ、お供えの皿はふたつ。どちらの像に捧げよう。

 優柔不断のくせが出てさんざん迷ったが、結局、政略結婚させられそうなお姫さまへの同情が勝った。ぼくはそちらへ果実を供えた。

 そのとたん、ふわりとあたりが明るくなった。像が光ったように見えて、ぼくは思わずぎょっとした。

「旅人よ、遠いところからよくおいでになった。ブラザーからお話は聞いております」

 ちょうどそこへ、立派な絹の衣を着た中年が礼拝堂に入ってくる。

「しかしマグメルへ行くには、残念ながら時期が悪い。ちょうど夏至のお祭りが済んだあとなのですよ。人間がマグメルへ入ることが許されるのは、年に一度の祭りの間だけなのです」

「つまり、来年まで待たないといけないのですか」

「そうなりますなぁ」

 ぼくは絶望した。プーカはそれまで逃げ続ければ済む話だろうが、ぼくは違う。現実世界に帰れるのが一年後になってしまう。

 弁当は確実に腐る。ぼくの肉体の鮮度も怪しい。

「司教さまなら、例外的に謁見できるようなことは?」

 司教は首を横に振った。

「ご祈祷するときも、お姿をお見せになることはめったにない。数十年に一度、あるかないかの奇跡です」

 ぼくはがっくりと肩を落とした。

「あとは偶発的に、女神さまや姫君が下界に降臨なさることがあるので、それをお待ちするしか」

「お姫さまなら、湖を訪れたことがありましたね」

 ぼくはプーカと姫君の『逢瀬』を思い出して訊いた。

「ええ、以前ならね。しかし今は、女神さまが妖精王子を警戒して、どこかへ姫君を幽閉しているという噂です。下界にいらっしゃることは、まずないでしょう」

「そうですか」

 ぼくは落胆した。

「無駄足となってしまい、お気の毒ですが。まあせっかくですから、よく見学なさっていってください」

 話を切り上げ、司教は礼拝堂を後にした。

 ぼくはひとり途方に暮れて、うなだれた。

 そのとき、ふと胸元に絵本が見えた。

(ゲームなら、ここからヒントがもっと出るもんなんだが)

 絵本を開いてみる。

 すると、

(あれ、続きが読める……?)

 さっきまではぐにゃぐにゃで読めなかった次のページが、はっきりと読めるようになっていた。

『異界からの客人は、教会で司教に尋ねました。しかし女神さまやお姫さまにお会いする方法は、司教にもわかりません。

 途方に暮れた客人は、さきほど果物を供えた像の前で、祈りをささげました。するとどこからか、お姫さまの声が聞こえました』

 その続きはまた、奇妙にぼやけている。

(祈ればいいのか?)

 正しい祈り方もわからないまま、ぼくはお姫さまの像の前で膝を折った。

 ついクセで仏式に手を合わせかけたが、ここは指を折り、両手を組んでおくことにする。

 半信半疑で頭を垂れると、ほんとうに声がした。

 鈴を転がすような、少女の声だ。

「今夜、あの湖に来て。わたくしもどうにかして、そちらへ参ります」

 はっとしてあたりを見回したが、礼拝堂にはぼくひとりしかいなかった。

 たしかに声は少女の像の方から聞こえた。

(あそこに書いてあった、お姫さまの声……だったのか……?)

 ほんとうにお姫さまの声なら、数十年に一度の奇跡が簡単に起こってしまったことになる。

 考えながら、ぼくは礼拝堂を出た。修道士が庭を掃いている。

「お帰りでございますか」

「ええ。あの、湖の場所を知りませんか。お姫さまが以前降臨なさったという……どこかにマグメルに通じる道があるのかもしれない」

 ぼくは地図を差し出して訊いた。

「サンラールの湖ですね。それならば、来た道を戻らなければなりません。妖精の森の北方にあるので」

 修道士は場所を指で示した。

「ご存じのとおり、森の北側はとくに危険な場所ですから、おすすめはできませんが」

 ぼくは少しひるんだが、よく考えると、王子本人がついているなら大丈夫だろう。

「かまいません」

「せめて出立は明朝にした方がいいでしょう。もうすぐ日が暮れます。宿をご紹介しましょう」

「お気遣い感謝します。ですが、ぼくも急ぎますので」

「……ではお気をつけて。神のご加護のあらんことを」

 ぼくの身体がふわっと光った。修道士は微笑んだ。

「古くよりつたわる魔除けのまじないです。お達者で」

 よく礼を言って外に出ると、柴犬が木陰で横倒しになっている。無防備なピンクの腹がかわいい。

 よく見ると前庭の芝生は掘り返され、無残な穴ぼこだらけになっている。

 犬は顔や前足が土だらけだ。どうやら暇つぶしに穴掘りに興じたあと、飽きて寝ていたらしい。

「こら、犬。何してた」

 叱られたところで、王子はどこ吹く風だ。

「まったくもう。すぐにサンラールの湖に行くぞ。例のお方に会えるかもしれない」

 柴犬は頭を起こすと、あくびをして伸びをした。

 ぼくはかぼすを思い出して懐かしくなった。中身が妖精でなくても、日本犬はときどき、猫みたいに自由だ。

 なごんでいると、ふっと身体を風が包んだ。

「……?」

 目を見開くと、次の瞬間、ぼくは美しい湖畔にいた。

「え……」

 状況を把握しきれず、ぼくは立ち尽くした。

 水面からうっすらと霧が立ち上り、幻想的な光景だ。曇り空の下、湖面は鈍い銀色をして静まり返っている。

 さっきまで、たしかにフェリシオ教会自治区の街中にいたはずなのに。

 ぼくはしばらく何も考えられなくて、呆けたように湖を見ていた。

「あれ」

 しばらくしてようやく気づいた。

 プーカがいない。

 

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