第2話 恋の魔法

 ぼくは腰を抜かした。尻もちをついた拍子に、本棚に背中がどんと当たった。

「お、お前、どっから湧いた。まさか」

「愚問だなあ。さっきの犬さ」

 青年は犬そっくりの悩みのない笑顔をしている。

 立ち上がると、見上げるほどの長身だ。茶色のくるくるした髪に、黒い瞳。尖った耳。

 それに、太くて長い黒いしっぽ。

 作り物であってほしかったが、ちゃんと筋肉が通っているらしく、ゆさゆさとゆっくり振れている。

「よ、妖精、プーカ……?」

 そんなはずはないと思うのに、ほかの可能性が考えつかない。

 彼はイラストに描かれていた妖精そっくりだった。

「大当たり」

 ぼくは唖然とした。

「そんなの、いるわけない」

 男は笑って、ぱちんと指を鳴らした。

 ぼくの目の前で、男はぽんと柴犬になる。

「ひえ」

 犬はもう一度変身を解いてみせた。

「信じた?」

 美青年は腰に手をあて、床に座り込んだぼくの顔を覗き込んでくる。

「なにこれ……もうやだ……おじさん帰る」

「幼児退行しないで」

 ぼくの手を引いて立たせ、妖精は苦笑する。

「っていうか、なんで柴犬なんだ」

 もっとこういう世界観に似合いそうな犬種が、いくらでもいる気がする。

「だってきみ、柴犬が好きだろ? 迷子になりそうな子を見たら、追いかけずにはいられないぐらいにさ」

「なんでそれを」

「妖精を甘く見ちゃいけない」

 妖精王子はウインクする。

「さっきの犬、どストライクだっただろ? 色も顔つきも、ぷりっとまん丸なお尻のフォルムも」

「つまり、ぼくを騙して誘拐したってことだな」

 ぼくはだんだん目の前の美青年に腹が立ってくる。

 なんだこいつ。悪びれもせず、平然と人さらいするなんて。こいつなら、あの本に書いてあったようなたちの悪いいたずらも平気でするだろう。

「そんなにぴりぴりしないで。ご招待したんだよ」

「ここは?」

「妖精が治める国、ダーロン。現実と平行して存在する、夢の世界だよ」

「夢? じゃあここは現実の世界じゃないのか」

 ぼくは少しほっとした。

 なんだ。寝ているだけか。

「現実そのものじゃないけど、つながってはいる。バイパスになってるのは、きみの精神だ。

 たとえば君がこっちで死んだら、向こうの肉体は眠ったまま、昏睡状態になるだろうね。気を付けてねー」

 王子は実に軽い口調で言った。

 ぼくは思わず身震いした。

 夢なのに死ぬ。

「というわけで、オレの城へようこそ。歓迎しましょう」

 王子はわざとらしい優雅さで、ぼくの手を取ってキスした。

 目を白黒させながらも、ようやくぼくは事態を把握しはじめた。

「ちょっと待て。これが夢ってことは、ぼくは今ベンチの上で、午後の業務をすっぽかして眠りこけてるってことか」

「最高の午後だね」

「まずいじゃないか。起きなきゃ」

 あと弁当が腐る。ただでさえまずい弁当が腐ったら……想像したくない。

「悪いけど、そう簡単に帰すわけにはいかないよ。オレはきみに用があるんだから」

 ぼくの手を片手でしっかり握ったまま、妖精は首をかしげる。

「こ、このぼくになんの用があるっていうんだ」

 平凡な中年のサラリーマンが役に立つような世界観じゃないだろう、ここ。

「話が早いな! 素晴らしい」

「お、お前の言うことを聞くなんて言ってない! ぼくは帰りたいんだ」

 王子はぼくの反論をまったく無視した。

「きみには女神さまの説得をしてもらうよ」

「説得……?」

「ぼくがお姫さまをたぶらかした罪で、女神さまに命を狙われてるとこまでは、読んだだろ?」

「ああ」

「冤罪なんだ。オレはお姫さまに、恋の魔法なんて使ってないし、たぶらかしてもいない。でもオレは女神さまに嫌われてる。話なんて聞いてももらえないに決まってる。

 じゃあダーロン人に頼め? それがそうもいかないんだ。みんな女神さまの顔色を窺ってて、協力してくれないから」

「だからぼく?」

 ぼくは思わず呆れた。

「ぼくなんかが説得してなんになるんだ。無関係の赤の他人だぞ? 女神さまとやらがぼくの話を聞くわけが」

「赤の他人なら、ね」

 打ち明け話をするように、妖精は顔を近づけてきた。

「ほら、その本にも、オレが森のどこかに身を隠してたって書いてあっただろ」

「ああ」

「実はオレ、現実世界にいたんだ。人間の身体に乗り移ってね」

 へえ、そんなこともできるのか。多芸なやつだ。

「で。その間きみは、オレと付き合ってたってことにしてほしい。要はアリバイ?」

「は?」

 呑気に話を聞いていたぼくは、ぽかんとした。

「ちょっと待て、付き合ってたことにって」

「オレの彼氏を自称する男なら、赤の他人じゃないよね?」

 理解が追い付かない。

「な、なんでそんなウソを」

「女神さまが恐れているのはたぶん、オレがお姫さまをたぶらかして、どこかに駆け落ちすることだ。

 オレに恋人がいたとなりゃ、そんな疑いも晴れる。ついでにお姫さまもあきらめてくれる。万事丸く収まるだろ?」

「いや、ぼく、男なんだが」

 妖精王子は肩をすくめた。

「だから女の子に恋人役を頼めって? 無理無理。

 女神さまの娘、絶世の美人なんだよ。現実世界の女の子じゃ太刀打ちできっこない」

「……現実世界のおじさんならなおさら、太刀打ちできないんじゃないか?」

「大丈夫。自分にもっと自信をもって」

「茶化すな」

 プーカはいたずらっぽく笑った。

「予想とぜんぜん違うものをぶつけたら、向こうは呆気にとられるだろ。オレはそういうのが好きなんだ」

 根っからのいたずら好きのようだ。

「だ、だけどここ、キリスト教文化圏だよな? 同性愛は禁忌のはずだ」

 村にそびえる十字架のついた尖塔を思い出して、ぼくは別方向から反論しようとした。妖精王子はふん、と鼻を鳴らした。

「そんなの、最近の流行りじゃないか」

 この世界だと、古色蒼然とした同性愛差別が『最近の流行り』になるらしい。

「女神さまは聖書よりもっと古いから。そのへんの感覚はアップデートしてないよ」

「うっ」

 昭和生まれ昭和育ちのぼくは女神の気持ちが痛いほどわかって、呻いた。

「で、でも、なんでぼくが。現実世界には男なんて、うじゃうじゃいるのに」

「ねえ、どういうときに人は魔法に頼ると思う?」

 妖精王子は質問に質問で返してくる。

「頼りたくなったことはないな……魔法なんて真剣に持ち出してくるやつ、たいてい新興宗教の勧誘とかだし」

 上京したてのころ、駅でおばさんに親切にしたら、あれよあれよという間に喫茶店に連れ込まれたのを思い出す。

 『救済の法』とか『光の伝道師』とか『真理の教本』とか『壺』といったワードをつぎつぎに口にするおばさんは、目が血走っていて、何かに取り憑かれたようだった。

 こわかった。東京ってこんなに恐ろしいところなのかと思った。今でも夢に見る。

 ぼくが事なかれ主義になったのは、あれがトラウマになっているせいだ。絶対そうだ。

「じゃあ、神頼みしたくなるとき、でもいいや。きみだって神社ぐらいは行くだろ? お願いごとぐらい、するだろ?」

 プーカはため息まじりに訊いてくる。

「それは、まあ」

「現実をぶち壊して、信じられない結果をもたらしてくれる力。そういうのに頼りたくなるのって、いつだい」

 いつ……いつだろう。

 しばらく考えて、ぼくは妻から離婚を切り出されたときのみじめさを思い出した。

「自分の力ではどうしようもないことに直面したとき……?」

「そう! つまり自分が無力であることを痛感してる人ほど、魔法に弱くなるってわけ」

「ぼくがそうだっていうのか」

「きみのこと、ずっと見てたよ。矢崎周平、四十五歳、会社員、バツイチ」

 ぼくはぎょっとした。

「お見合いで結婚した奥さんが、バイト先で経験豊富な六十男に出会い、恋をした。きみは奥さんの幸せを願い、何も言わずに離婚してあげた。優しいね」

「優しくなんか。ただ、見合いで結婚しただけのつまんない男に、残りの人生を付き合わせるのが申し訳なくて……子どももいなかったしな」

 ぼくはもごもごと言った。

「ごねたってよかったのに、きみはそうしなかった。自己犠牲ってやつだろ? オレじゃ考えらんないな。見ててつらそうだった」

 そうやって指摘されると、かえって胸が痛む。

「そういう無理するから、魔法に弱くなるんだよ? きみが幸せだったら、犬の幻影なんて見えてなかったんだからな?」

 プーカは教訓を垂れるように言った。

「何も不満も抱いてなければ、少なくともオレの魔法は通じない。

 逆に言うとね、魔法が通じたってことは、相手にそんな願望があったってことだ」

「ってことは、神官たちも」

「風紀の乱れたこと、してみたかったんだなあ。あのときの光景、見せてあげたかったよ。もう傑作」

 ぼくはどちらかというと神官に同情した。したくてもできないことは人生につきものだ。

「じゃあ、ぼくの願望って」

「別世界で人生をやり直してみたいって願望、かな? 知らないけど」

 言われてみると、そんな願望がうっすらあったような気もしてくる。

「ってことはプーカ、お前には豚になりたい願望があったんだな……?」

 なんと珍しい。

「ないよ!」

 プーカは気色ばむ。

「女神さまの神罰は特別だよ。だから強いし、誰も逆らえない」

「そんな万能なら、お前の悪だくみなんて、女神さまに筒抜けなんじゃないか」

「この城は古いけど、セキュリティだけは超一流だから、ここでのやりとりは女神さまにも聞こえないよ。だからオレもこうやって安心して、真実の姿を晒せるってわけ」

 プーカは黒いしっぽをつまんで見せた。

「ここを一歩でも出たら女神さまが見てるってことか……」

「万が一裸になるご用事がありましたらこちらでお済ませになってから」

「ございません。……でも現実でのアリバイの方は? ここでの話が聞こえなくたって、そっちがウソだってばれてたら意味がないぞ」

「平気、平気。現実世界は広すぎて、さすがに女神さまの目も行き届かないから」

 言われてみれば、たしかに四年もの間、この王子は女神の追跡から逃げおおせている。

「今なら、なんと、なんと! オレに協力するだけできみの願いが叶います。めくるめく冒険! 退屈な日々とはもうおさらば!」

 テレビショッピングかよ。

「けっこうです」

「そうそう。もうひとつ、魔法を試してみたかったんだ」

 聞いてくれない。

「ねえ周平」

 ぼくの名を呼ぶと、プーカは片手で顔を覆った。

「オレを知ってるだろ」

 つるんと手が顔をすべる。

「あ……」

 ぼくは驚いてあんぐりと口を開けた。

 プーカの陶器みたいな美しさは消えている。

 かわりに現れたのは、現実的な日本人青年の精悍さだ。背丈と、いたずらっぽい真っ黒な瞳だけが変わらない。

「アオ」

 ぼくはからからになった喉で、やっと名前を口にした。

「そう。藤崎蒼ふじさきあお。きみの元奥さんの甥っ子。大学一年生になった去年まで、毎年夏に上京して、きみのうちに泊まってた」

「な、なんで、そんな姿に……」

「つい最近まで、現実世界にいたって言っただろ。オレはヤツの身体に宿ってたんだ」

 声がどんどんアオのものになっていく。

「はは、どっきり大成功だね」

 どくん、どくん。ソファに追いつめられたときと同じように、ぼくの胸は激しく鼓動した。

「去年の夏。オレに迫られて、叔父さん、すげー動揺してたね。それってさ、もしかしてさぁ」

 ぼくは声をあげた。

「違う、お前は親戚の子で……ぼくの子どもみたいなもので……だからそんな……」

「願望はね、本人が自覚しているとはかぎらない。そんなの絶対ダメだって思い込んで、本人が心の奥底に封印してることもあるんだってよ?」

 青年は楽しそうに笑う。

「ほんとにオレのことなんとも思ってないなら、大丈夫なんだからさぁ。ちょっと試してみようよ」

 プーカの、いや、アオの纏う重たげな絹のマントがふわりと舞った。金の首輪がまばゆい光を放った。

 ぼくには理解できない言語が滑らかに彼の唇から流れだす。

 彼は最後に日本語で付け足した。

「……オレに恋して、周平」

 その言葉とともに、頭の中に幻覚が一気に流れ込んでくる。

 それは架空の記憶だった――――

 

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