第1話 帰りたい
「うそだろ」
後ろを振り返ると、柴犬とぼくが通ってきた茂みは閉ざされている。
あわててかき分けてみたが林が広がるばかりで、あったはずの公園がない。
あまりのことに声も出なかった。ぼくはその場にへたり込んだ。
なにこれ。
ぼくの平和で退屈な日常はどこへ行った。
ここはどこだ。
ぼくはどうなる。
だが犬は、放心するぼくにお構いなしだ。
ぼくの膝に足をつき、顔をべろべろと舐めてくる。
なぐさめているつもりなのだろうか。それとも単に、舐めやすい位置に顔が来たせいだろうか。
「やめろ、そんな気分じゃ……なあ、ここ、どこだよ」
鼻にべろべろの集中攻撃を受け、情けない声で犬に尋ねた。もちろん犬が答えるはずもない。
しばらく味を堪能して気が済んだのか、犬はうれしそうに一声「うぉっ」と鳴くと、こちらを気にしながら道を歩き出した。
「お、おい、どこ行くんだ」
犬は街とは反対側に向かっている。林の中へ続く道だ。
道の少し先で、犬はぼくを待つように立ち止まる。ご機嫌らしく、ゆさゆさとしっぽが左右に振れている。
「待って」
まだ自分の状況が信じられなかったが、ぼくはすくむ足をなんとか立たせ、犬を追いかけた。
この景色の中で唯一見慣れた姿をしているやつを見失って、ひとりにされるのはあまりにもおそろしい。
見通しの悪い林道をどんどん犬は進む。しだいに霧が出て、歩くほどに濃くなっていく。少しでも気を抜けば迷ってしまいそうだ。
頼りのスマートフォンはなぜか電源がつかない。不安は増していくばかりだ。
勾配を上がったところでようやく視界が開けた。
「城……?」
石造りの古い城だ。窓の少ない陰気な塔。重苦しい洋館。見るからに日本の城ではない。
柴犬は門をくぐり、玄関の前で座って、へらへらしている。純和風の見た目が壮麗な城とまるで似合っていない。
しばらく呆気にとられていたが、ひとりぼっちでいるのがだんだんこわくなって、耐えられなくなる。
とにかく主人と話をしてみよう。ここがどこなのかだけでもわかるかもしれない。
そう思い、鉄扉に向かってノックをした。
「ごめんください」
返事はない。
ざざ、と濃緑の葉が風で擦れる。
あたりは霧が深く立ち込め、ときおり遠くに雷の鳴る音がする。
気味が悪い。背筋がうすら寒くなる。
平穏で凡庸な人生を愛してきたこのぼくが、どうしてこんな目に遭っているんだろう。
泣きたい気分になって、鉄のドアに手をついた。
ぎっと音を立てて、ドアが少し開いた。
「あ、開いてる?」
隙間を鼻でぐいぐいと押し開け、犬はさっさと中に入った。
「えっと……すみません、お邪魔します」
勝手に入るのは気が咎めたが、気持ちの悪い林にひとりで立っているのは正直、もう無理だった。
主人に見つかったら、道に迷ったと言い訳しようと心に決め、ぼくも犬のあとに続いた。
「すごいホールだ」
天上にはろうそくを飾るタイプの古風なシャンデリア。正面には大きな階段がある。
床には織物の絨毯が敷いてある。濃い赤地に描かれた金の幾何学模様は、なんだか魔法陣に似ている。
人の気配はない。林にいるより恐ろしいところに来てしまったのだろうか。
「どなたかいらっしゃいませんか」
きょろきょろしているうちに、犬は奥へたったっと走って、階段をのぼっていく。
玄関ホールに戻ってきた犬を見て、ぼくは仰天した。
犬は剣を口にくわえていた。しかも鞘に入っていない、剥き身の剣だ。
お気に入りの枝を運んででもいるように、ずるずると切っ先で床を引っ掻いている。西洋の剣は両刃だから、非常に危険だ。
「こら」
やめさせなきゃ、と思った次の瞬間、がらんと派手な音を立てて、ぼくの足元にそれが転がる。
「ぎゃあ」
帰りたい。
「こ、こら、犬! やめなさい、刺さったらどうする」
ぼくが大声をあげたのに、犬は何も気にしていない。
遊ぼうと誘うように頭を床に下げ、茶色い尻を持ち上げて左右に振っている。
「遊ばないよ」
犬は首をかしげると、また奥の間にとことこと走っていった。
戻ってきた犬は、今度は果物を咥えていた。ぼくのおなかにぐいぐいと実を押し付けてくる。
受け取ると、犬の牙が刺さったところにぷつんとふたつ、穴が開いている。
「うわ、なんだこれ」
見たこともない果物だ。果物だとわかったのは、つややかな赤い表皮が姫りんごに似ているからだが、実の付き方がおかしい。
たくさんの実が尻で奇形のようにつながって、大きなかたまりになっているのだ。牙の跡を見ると、ぷるぷるとしたゼリー状の果肉が見えた。
好みの食べ物は間髪入れずに食べてしまうのが犬だから、この果物はお気に召さないんだろう。犬ははっはっと舌を出して、食えとばかりにこちらを見上げている。
「死んだばあちゃんに変なものは食うなって言われてるんだ」
その前に、見た目が奇妙過ぎて食欲も失せてしまう。まだあのまずい弁当の方が食べられる。
(弁当……あ)
ぼくはあわてて時計を見た。十二時五十分。もうすぐ昼休みが終わるころだ。
一刻も早く元の世界に帰って、仕事に戻らなくては。まあ、そんなに総務の仕事が好きだというわけでもないのだが。
ここはぼくのいるべき場所じゃない。こんな奇妙な経験は、断じてぼくには向かない。
冒険者とか、再生回数に貪欲な動画配信者とか、そういう勇敢なタイプの人にお譲りしたい。
「あれ、犬?」
気づくと犬がいない。ふたたびどこかに行ってしまったらしい。
楽しげに足音を鳴らして戻ってきた犬は、今度は麻袋をぶんぶんと振り回している。
また危ないものだったら困る。あわてて米みたいな牙から袋を引きはがし、中を見る。
すると、金貨が数枚入っている。
「ダメじゃないか、こんなの持ってきちゃ」
金貨は分厚くてずっしりしている。どこかの博物館におさめられていそうな、中世以前を思わせるいびつな金貨だ。
知らないかたちの刻み模様が金貨の表面に彫られている。
(文字……かな?)
見たこともない文字で、ぼくは途方に暮れる。ほんとに、ここはどこなんだ。
中央には原始的なタッチで、麦を持った女の姿が刻まれている。横には巻物がいくつか描かれている。
ちょうど子どものころ絵本で見た、宝の地図みたいだ。
(地図があるなら探してみるか)
帰りたさ一心でそう思った。地図さえあればきっと、なんとかなる。
勝手に家探しするのは気が引けるが、非常事態だから勘弁してもらおう。
「ちょっと探検させてもらうな」
金貨を麻袋に戻して、ぼくは犬の頭を撫でた。犬は得意げだ。
階段をあがり、長くて広い廊下を歩く。ろうそくに火が灯っていないせいで、廊下はかなり暗い。
犬もかちゃかちゃと爪を鳴らして、ぼくの後をついてくる。かわいいやつだ。
「お邪魔します、泥棒じゃないです……」
ドアを薄く開けてひとつめの部屋を覗くと、寝室のようだった。
(誰もいないな、よし)
勝手に人の寝室に入るのが申し訳なくて、泥棒のようにびくびくしてしまう。意味もなくそろりそろりと忍び足で部屋に入る。
一通り見回したが、残念ながら棚もチェストもない。本や地図のたぐいはこの部屋にはないだろう。
代わりに、壁にかかった立派なタペストリーに視線が吸い寄せられる。
タペストリーには麦を持って穏やかに微笑む女が、中央に大きく織り込まれていた。金貨の女だろう。
タペストリーの中で、女はひとびとに囲まれ、崇拝されている。
その横を見るとドアがあった。地図はあの向こうだろうか。
ドアに耳を当てたが、やはり気配はない。おそるおそる扉を開ける。
ドアは隣の部屋につながっていた。
誰もいない。地図もありそうにない。
(さっきの寝室にそっくりだな)
違うのはタペストリーの絵柄ぐらいだ。
女の代わりに、冠をかぶった男が玉座に座っている姿が織り込まれている。
男の背中にはとんぼのような、透き通った羽がついている。絵本とか、ファンタジー映画で見る妖精に似ている。
その隣には短い巻き髪の青年がいて、花のにおいを嗅いでいる。青年の耳は尖り、背後には犬の黒いしっぽが見える。
ふたりのまわりを取り巻いているのは崇拝者ではなく、多頭の幻獣だ。
どちらの寝室も部屋の掃除は行き届いている。廃墟のように見えなかったので、少しほっとした。
寝室を後にして廊下を進む。ひときわ重厚なつくりをした奥のドアを開けると、ようやく目当ての書庫があった。
「すごいな」
中に入って、思わずつぶやいた。
本がたくさん、天井近くまでおさめられている。どれも極めて豪華な装丁だ。
ためしに一冊、何気なく手に取って開いた。
ページは紙ではなく、厚みのある羊皮紙でできている。中に書かれているのは金貨に刻まれていたのと同じ種類の、奇妙な文字だ。
挿絵もあった。磔にされたキリストの姿が描かれている。
(聖書、かな)
キリストの横には、同じぐらいの大きさで、麦を持った女も描かれている。
本に気をとられていると、ぷす、と鼻の鳴る音がうしろから聞こえた。
「どうした?」
犬の方を振り返ると、飽きた様子で床に転がっている。ときどきくちゃくちゃと口を動かしているのが子どもみたいで、思わず頬が緩んだ。
「つまんないか。もうちょっと待っててくれ」
聖書を戻して、棚を漫然と眺める。
そのうちに、棚の一部に視線を吸い寄せられた。
(えっ)
ぼくは思わず二度見した。棚の中ほどに、日本語の本が数冊並んでいるのだ。
(なんでこんなところに日本語が)
金の飾り文字で装飾された立派な本に囲まれて、ごく普通の装丁が悪目立ちしている。
背表紙を見ると、心理学の学術書のようだ。
ためしに一冊手に取ってぱらぱらとめくると、『集合的無意識』やら『シンクロニシティ』といった小難しい専門用語が目につく。
心理学は学生のとき履修したから、こういう専門用語も一応、どこかで見たことがあるはずだ。だが当時だって苦手な科目だったうえに、今は変なことが立て続けに起きたせいか、読んでいるうちに頭が痛くなってしまった。
(あいたたた……脳が老化してるな、これ)
こめかみを押さえながら、ぼくは棚に本を戻した。
その隣に、日本語の絵本があるのに気づいた。
『妖精プーカ』という題の本だ。
本棚から取り出してみると、表紙には麦を持った女の絵が描かれている。それから、茶色い髪の青年も。尖った耳に黒い犬のしっぽ。タペストリーの男だ、とぼくは気づいた。
(ってことは、あのタペストリーの話か)
ぼくはいそいで本文に目を通した。
『妖精王の息子、プーカは子どものころからいたずらものでした』
犬しっぽの男はプーカというらしい。この本の主人公のようだ。
『彼は五つのころ、女神に捧げられたお供えものを盗んで食べました。つやつやとしたシュロンの実があまりにおいしそうで、我慢できなかったのです』
麦の女は女神だったようだ。
挿絵に描かれたお供えものは、犬がさっき持ってきた異形の果物そっくりだった。シュロンの実というのか。
『罰として一週間、彼は豚に変えられてしまいました。お供えされて間もないシュロンの実には、食べると豚になるという古い言い伝えがありますが、あれはプーカのせいなのです』
あの実がお供えものでなかった保証はない。食べなくてよかった。
『プーカが十五のころ、教会で働く神官や尼に恋の魔法をかけるいたずらをしました。ひとびとは大混乱に陥りました。
プーカは神罰を恐れ、森のどこかに隠れました。
ふたたびプーカが現れたのは、彼が十九のときです。彼は目を見張るような美青年に成長していました』
金貨やタペストリーと違って、写実的なタッチの絵だ。
『女神の娘が森の湖に遊びにきたのに乗じて、プーカは彼女に接近しました。恋を知らない哀れな姫は、すぐにプーカに夢中になりました。
逢瀬が女神の耳に届くと、女神は怒りました。
プーカは愛娘に、恋の魔法を使ったに違いない。なんて不届きな男だ。
今度こそ殺されると思ったのでしょう。プーカは犬に姿を変え、もう一度行方をくらましました』
犬と言う単語を見たせいで、柴犬の様子がふいに気になった。飽きてまたいたずらをしていないだろうか。
よせばいいのに、ぼくはうしろの方を振り返った。
そして目を剥いた。
「やあ」
犬がいたはずの場所で、絵本の挿絵そっくりの美青年があぐらをかいていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます