妖精王子は帰してくれない
蟹江カルマ
プロローグ
「オレさ、童貞卒業したい」
「ぶっ」
ぼくは思わず麦茶を噴いた。
「突然やめろよ。親戚んちに着いた早々、言うことじゃないだろ」
アオは妻の甥っ子だった。毎年夏休みになると、アオは仙台近郊の実家から上京して、我が家に一週間ほど滞在する。
アオは地元の大学へ進学したので、その習慣は大学生となった今年になっても続いていた。
「最近さー、いろいろあったんだよ」
アオは漠然と言った。
「オレがもうガキじゃねーの、叔父さんもわかってるでしょ」
アオはぼくの後ろで、ソファの背もたれに手をついている。
「ガキじゃないって、まだ十八だろ。成人してるっていっても、酒が呑めるのは二十歳からだし」
「別に酒が呑みたいんじゃないよ?」
青年は口を尖らせた。
「ってか、周りも卒業してるやつら多いし、オレ、遅い方なんだよね。お前がまだなの意外、とかさ、早く捨てとけとか、みんなすげー言ってくる」
「真面目な相談だったのか」
たしかに、大学では男女関係の誘惑も多いかもしれない。
この際少し性教育しておくか、とぼくは思った。
義兄夫婦は自分たちの離婚争議で忙しくて、ちゃんとしたマナーを教える余裕はなさそうだ。
「いいか、焦ってるからって、適当な気持ちで寝るのはダメだぞ」
茶を豪快に浴びせられた気の毒なローテーブルをティッシュで拭きながら、ぼくは説教を始めた。
「万が一相手の子が妊娠したときは、人生を棒に振ってでも責任をとらなきゃいけない。一生添い遂げてもいいと思う相手とだけ、そういう関係になりなさい」
こんなに偉そうに語っているが、恋愛経験はゼロに等しい。ぼくは内心、一抹の不安を抱えている。
でもまあ、誰かが教えてやらなくてはいけないだろう。
「あ、好きな人が相手なら、いいんだ。やった」
「お前、好きな子いたのか」
一丁前に、と付け加えたくなるのを、ぐっとこらえる。
十八ともなれば好きな人のひとりやふたり、いても不思議ではない。
体感ではついこの間まで、アオはランドセルを背負った小学生だったのに。時の流れは中年になってからが猛烈に早くて、ぼくはよく置き去りにされてしまう。
感慨にふけっていると、アオは真面目な顔で答えた。
「好きな人は、いる。目の前に」
「は!?」
がちゃん。
今度は手が湯呑に当たった。湯呑は残った麦茶を撒き散らしながら、ごろごろと転がっている。ローテーブルの受難は続く。
「おま……なに……」
いったいこいつは何を言っているんだ。ぼくはパニックになる。
「好きだよ、叔父さん。初めて出会ったときから、ずっと」
今度はテーブルを拭くこともできなかった。
ひょいっと背もたれを乗り越えて、アオが隣にやってくる。
ウソだ。
こんなこと、あるはずがない。
あのアオが――――子ども代わりだったアオが――――
「だからさ、叔父さんで卒業させてくんない?」
くるんと身体がひっくり返って、ソファのシートに受け止められる。
年季の入った中古マンションの天井を背景にして、アオの人懐こい顔が、この
アオはまるで大きな犬みたいに、ぼくのうえに覆いかぶさっていた。染めたての明るい茶髪が余計に犬のようだ。
「オレ、叔父さんじゃないとやだ」
まだ冷房の効いていないリビングは蒸し暑かった。
だが、だらだら汗をかいているのは気温のせいじゃなかった。
ちょっと不出来な義理の甥っ子は、初恋相手すら大間違いしていた。そこは同じ大学の子とか、無難なお相手にしておいてほしかった。
「こ、こら、ダメだ、アオ」
後じさりしながら、ぼくはぶるぶると首を横に振った。
「いいじゃん。どうせ血、つながってないんだし」
アオはなんだか吐き捨てるように言って、ぼくの目を覗き込んだ。
唇が近い。吐息がかかる。
「お、お前はぼくにとって子どもみたいなもんで……お前だってそうだっただろ」
「親にこんなこと、しないよ」
アオはぼくの手を握りこんで、とろんと目を細め、頬ずりをしている。
こいつ、本気だ。ぼくはぞっとした。
「あ、あ、あのな、第一ぼくは結婚してるんだぞ」
厄介だ。
平和主義者のぼくがいちばん苦手な事態だ。
妻やお義兄さんにどう顔向けすればいい?
「お前がしようとしてるのは、妻への裏切りだ。わかってるのか?」
ぼくは説得をこころみた。
「叔母さんに知られなきゃいいんじゃない?」
あどけなさをのこした顔で、アオはこてんと首を傾けた。
「い、いいわけないだろ!」
「好きな人どうしでこういうことした方がいいって、叔父さんが言ったんじゃん」
屁理屈だ。
「叔父さんと叔母さん、別に好きで結婚したんじゃなかったよね。たしか、お見合い?」
ぼくは思わず声を張り上げた。
「は、始まりは見合いでもな、ぼくたちはこれで満足なんだ。結婚して十五年、妻とは喧嘩のひとつもない」
「でも叔父さんも叔母さんも、つまんなそうだよ?」
心臓がどくんと鳴った。何一つ不満がなかったはずの人生が、アオの無邪気な一言で突然、灰色を帯びていく。
ぼくはすぐには反論できなかった。
汗が首筋を流れ、ワイシャツの襟もとに吸い込まれていく。一年前のあの日と同じぐらい暑い日だ。
セミが激しく鳴き喚く中、木陰のベンチで、ぼくは弁当屋で買ったのり弁をつついていた。
べっしょりとした魚のフライを箸でつまんで、口に運ぶ。
油が悪い。ハズレの店だということは知っているのに、通うのをやめられない。
会社から近いし、何より今はもう、手弁当を持たせてくれる妻がいない。
(ぼくの人生、どこで間違ったんだろう)
別に、離婚したのはアオのせいではなかった。
あのあと、トリミングを終えたかぼすの元気な鳴き声とともに、妻は予定より早く家に帰ってきた。おかげで結局、アオとは何もなかった。
『しばらく帰ってこないんじゃなかったのかよ』とアオはぼやいていたっけ。
離婚の原因は、妻にあった。
妻はぼくではない男に、人生で初めての恋をしてしまったのだ。バイト先の事務所で出会った、客の男だった。。
(アオなりに、あのひとの不貞に気づいてたのかもな)
水っぽくふやけたきんぴらを箸先でつまんで、ぼくはぼんやりと考える。
(始まりが見合いでも、ちゃんとうまくやれてる夫婦はいくらでもあるのに……)
彼女はぼくと同じ人種だとばかり思っていた。冒険するより平穏無事な人生を選ぶ人だと。
ぼくは間違っていた。
「ごめんなさい。あなたにはなんの不満もなかったはずだったのに……あの人を知ってしまったら、もう……」
彼女はそう言って、彼と札幌で新しい生活を始めてしまった。
恋愛経験豊富そうなあの年上の彼と比べると、ぼくはたしかに、たいそうつまらない。
はあ、とため息をついたところで、
――――ぽん
何やら毛むくじゃらの足が、スーツの膝に乗った。
はっはっと生温かい、うれしそうな息が顔にかかる。
(犬の足?)
誰かの飼い犬がじゃれついてきたのだろうか。視線を上げると、
(かぼす……?)
そこにいたのは茶色い柴犬だった。
大きさから毛の生え方まで、かぼすそっくりの。
(……なわけないだろ)
ぼくは内心苦笑いした。
(かぼすは今、札幌にいるのに)
かぼすというのは、離婚するまで飼っていた犬だ。
ほんとうは手放したくなかったのだが、日ごろの世話をしていたからか、かぼすは妻によく懐いていた。
かぼすの気持ちを考えると、かぼすは妻に引き取られるのがいちばんだった。
かぼすそっくりだがかぼすではない犬を、ぼくはもう一度よく見た。
首輪は……ない。
まわりに飼い主らしき姿は見当たらない。
(迷い犬か?)
交番に連れていくべきだろうか。まだ昼休みが終わるまで、多少時間があるし。
考えているうちに、犬が弁当箱に鼻を突っ込んだ。
「こ、こら、食べちゃダメだ」
弁当を取り上げ、ついかぼすを叱るつもりで叱った。そんなものを食べたら身体によくない。
はっ、はっ、はっ。犬はぼくを真っ黒な目で見つめている。
悩みのなさそうなにこにこの顔がまた、かぼすそっくりだ。
(かわいそうにな)
犬は少し離れた。こちらをじっと見て、巻いたしっぽをぷりぷりと揺らしている。
「迷子になるぞ、おいで。こい! ……カム!!」
しつけをされていないのだろうか。それともかぼすに似て、ちょっとおバカなんだろうか。
ぼくがコマンドをかけたのに、犬はまったくの逆方向に歩き出してしまった。
「こら待て! ステイ!」
犬は楽しそうに小走りになる。ときどきこちらを振り向いているところをみると、遊んでいるつもりみたいだ。
「待てって」
ぼくは思わず弁当をベンチに置いて、追いかけていた。
曲がりくねった公園の小道を、犬は走っていく。見失いそうだ。
ざざっ。雑草が群生する向こうへと、犬が頭から突っ込んだ。高く茂った葉が分厚い壁となって、完全に犬の姿を隠した。
まずい。スーツがダメになるのも忘れて、勢いよく茂みをかき分けた。
「え……」
つんのめるように茂みを出た次の瞬間、ぼくは立ち尽くした。
石畳の一本道がまっすぐに走って、なだらかな山へ続いている。ふもとには十字架のついた尖塔と、石造りの低い街並みがある。
そこに広がっていたのは、公園の景色じゃなかった。
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