ラプラスの悪魔と廻る世界

空殻

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 あるところに一人の男がいた。

 男は画家だった。しかし彼の描く絵はさっぱり評価されず、いつも貧しい生活を送っていた。

 それすら良しとする清貧な気質であれば幸せだったのかもしれないが、人並み以上の承認欲求があったので、いつも己の現況を嘆いては不幸を呪っていた。

 まあ芸術というものは、抑えきれない感情の発露であると同時に、それを世界へ向けて発信する行為でもあるのだから、彼の気質も当然のものかもしれない。

 とにかく、評価されないことに不満を感じながら、いつか評価されることを願って絵を描き続ける、そんな日々を送っていた。


 ある日、彼は馴染みのパン屋で、木炭デッサンで消しゴム代わりに使うためのパンの切れ端を分けてもらいつつ、食パンの耳を格安で買い込んだ。時にはデッサンで使った切れ端すらも、もったいなくて食べてしまうこともある。そんな自分の食生活を振り返り、彼はまた惨めさを感じた。

 パン屋を出て帰路につく。時刻は夕方で、空はうっすらと茜色になっていた。

 自宅の安アパートにもうすぐ着くかというところで、ふと道の脇に立っている人が目についた。

 かっちりとスーツを着て、笑顔が顔面に貼り付いたかのような表情をしている。

 どこかの会社の営業マンだろうと思い、男は特に気にせずに通り過ぎようとした。


「もしもし、そこのあなた」

 呼びかけられて立ち止まった。声をかけてきたのはそのスーツの男だった。

「はあ、何か用ですか」

 問い返すと、

「ええ、あなたに話があるんですよ」

 そう答えが返ってきた。


「実はですね、ワタシはこういうものでして」

 スーツの男は名刺を差し出してきた。手に取ってみるとそれは真っ黒な名刺で、中央に白文字でただ『悪魔』とだけ書かれていた。

「悪魔ですか」

「ええ、悪魔です」

 なんとも間の抜けた会話だった。しかしあまりにも淡々としたその回答から、男は相手が悪魔であることを信じることにした。

「それで、悪魔が私にどんな用事が?」

「悪魔がする話といえば、相場が決まっているじゃありませんか」

貼り付けた笑顔のまま、悪魔は言った。

「取引をしませんか」


「悪魔と取引、ですか」

「ええそうです」

「あまりうまくいったという話は聞きませんが」

 渋い表情で男はそう返す。

「古今東西、悪魔と取引した人間が不幸になる話は多いですよね」

「それはそうでしょう。うまくいった人間は、それが悪魔のおかげだなんて語りたがらないですから」

「なるほど、そういうものですか」

 それはそうかもしれないと思った。

「では一応確認したいのですが、その取引の対価は?」

「ありきたりなものですよ。死後の魂を私が所有させていただきたいのです」

「はあ」

 よく聞くような話ではあるが、具体的なイメージができない。

「つまり死んだあとに地獄へ行く、ということですか?」

「ああ、よくそのような誤解をされる方がいらっしゃるのですがね、そうではないのです。そもそも、地獄とか天国とかいうのが間違いですよ」

 悪魔は大げさに肩をすくめた。

「人間は死んだら何も感じません。感覚器は肉体についてくるのですから、魂だけで何かを感じることはできない。だから、天国と地獄もなく、あるのはただ虚無だけですよ」

「つまり、悪魔と取引をすることで、私が何かデメリットを感じることはない、と」

「ブラボー、話が早いですね」

 悪魔は小さく拍手までした。

「その話が真実であるという証拠は?」

「悪魔は契約に対して厳密ですからね、嘘をつくことはできないんですよ」

「それすら嘘だという可能性は?」

「それはまさに、悪魔の証明というやつですね。嘘をついていないことを証明することは難しい」

「たしかに」

 男はこれ以上、追及する意味がないことを悟った。


 ならば話の論点は不利益の話ではなく、利益の話へと移り変わる。

「では、その取引で私は何を得られるのですか」

「シンプルでつまらないものですが。どんなことでも、知りたいことを教えて差し上げましょう」

「なんでも、ですか」

「ええ、誰しもあるでしょう。どうしても知りたいことが」


 瞬間、男はどうしても知りたいことがあると自覚した。

「分かりました、取引をしましょう」

 そう口をついていた。

「よろしいのですか」

 笑顔のまま、悪魔は念を押す。

「ええ、どうしても知りたいことが私にはあります」

「では成立ですね」

 悪魔が右手を差し出してきた。

「この手をあなたが握った瞬間、あなたはその『知りたいこと』を知ることができる。対価として私は、あなたの死後、その魂をもらい受ける」

 男は頷き、悪魔の手を掴もうと自らの手を伸ばす。

 その直前に。

「最後に一つ、聞いてもいいですか」

「ええどうぞ」

「なぜ、悪魔は死後の魂を求めるのですか」

「それは企業秘密、というやつですね。我々のアイデンティティに関わります」

 答えになっていなかったが、悪魔にはやはり嘘はつけないのだった。


 男は悪魔の手を取る。

 そして知った。


***

 それから半年。

 男は自死を選んだ。

 理由は貧しい生活に耐えきれなくなったからとも、絵がいつまでも評価されないことに疲れたからとも、近所では色々と噂された。

 もっとも有名でない男のことを噂するのは近所の住人くらいのもので、遠い親族がささやかな葬式を挙げて、それで全て片付いた。


***

 遺体を焼く煙が、煙突から立ち昇っている。

 それを遠くに眺めながら、悪魔は佇んでいた。

「やはりこうなりましたか。まあ、無理はないでしょうね」

 この悪魔だけは、男が死を選んだ本当の理由を知っている。

「あなたが死んだ理由は、『自分の絵が生涯評価されることがない』という未来を、私との取引で知ってしまったからでしょう」


 悪魔との取引で男が求めたのは、これから先の人生で彼の絵が評価されるか否かだった。

 いつ評価されるかでも、どうすれば評価されるかでもなく、ただ評価されるかどうか。 それは迷路に出口があるかどうかだけを訊ねるような、本当にささやかな問いかけだった。

 そして出口がないことを知り、苦悩した挙句に自死したのだった。


「しかし質問がわずかに違っていれば知ることができたのですよ。あなたの絵は『生涯評価されることは無いが、死後に評価される』、と」

 

 これから約十年後、彼の絵は奇跡的な偶然から著名な評論家の目に留まり、そして確実な評価を得る。

 それもまた確かな未来だ。

 

「それにしても悲劇ですね。あなたは未来を知ることによって死を選んだが、未来を知らなければ死ぬことは無く、従って十数年後まで生きていたでしょう。そうすればあなたは『生涯評価されることは無い』ということも無かった」

 そう言った悪魔はしかし、笑うことも悲しむこともしない。彼には彼の仕事がある。

 悪魔というのは魂の管理人。

 その本当の仕事は、現世をデザインすることにある。

「あなたは生粋の芸術家だ。どうかもう一度生まれ直して、この世界に新しい芸術をもたらしてください」


 そして世界は廻る。

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