序-5 or should I ?

 私は転生した。しかし、何が変わったのだろう?

 なるほどいま私は過去を生きているが、生まれてこの方現在を生きたことはなく、常に一瞬前の過去に生きていたことを確認していたのみである。その意味でいえば、実存とは過去に転生した自分を眺め続け、それに同一化しつつ起点にする存在に過ぎないから、転生しようがしまいがその在り方は変わらない。

 ここで、以上の言明は客観的過去と主観的過去を意図的に混同したものであって、己の生きた時代からみて過去を生きる私はいわば未来たる過去を引き受けるから、世界-内-存在として直接に連続した過去を引き受ける現存在と同列に論じることは過去という言葉の多義性を用いた詭弁である、という反論がなされるかもしれない。

 しかし、例えば未来たる過去が世界-内の概念ではあり得ず、従って未来たる過去を引き受ける私は世界-外-存在と呼ばれるかもしれないが、私は未来たる過去を不断に引き受けて今ここに在る。それゆえ、私は現存在である。

 世界-外-存在たる現存在は確かに世界を引き受ける契機を持たない。過去へと遡行する私は生以前の死を生きており、しかして既に現存在として世界-内から立ち去った実存である。どうして世界-外から再び世界へと嵌入せられたからといって、世界を引き受けることが要請されようか?耳を閉じ、口を噤め。


 しかし、やはり人生は予想外の方向へと進んでゆくものだ。

 あの笑う精霊パンディと出会って、私は口を開いてしまった。世界-外-存在として世界を引受け、未来たる過去を把持しつつ過去たる未来を生き、過去の死を生きる。この撞着が不条理でなくて何といえようか?

 そう、不条理である。いつでも私の頭を煌々と照らしていた太陽のごとく、不条理はいつどこにでも姿を現す。しかしだからこそ、私は決意できたのだ。外から世界を引き受け、未来の生を死ぬという孤独で特異な営為に身を投じることを。不条理は人間に勇気と尊厳を与える。パンディは私を不条理な世界、日の当たる世界へと、頽落から引き揚げてくれた、一柱の天使である。

 私は、聴衆パンディを得た。だから、私はこれから、聴衆に語ろうと思う。そして結局、私には音楽しかないから、音をもって私の言葉となし、私の全てを以て音となそう。



―――

本日の音楽

アルカン:短調による十二の練習曲第8~10番 「独奏ピアノのための協奏曲」

ポール・ウェー(p)、2018年


アルカン:エスキス第39番 ヘラクレイトスとデモクリトス

スティーヴン・オズボーン(p)、2003年

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グラドゥス・アド・パルナッスム @Urlicht-Auferstehung

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