序-4 酔ひて生く
常に飛んでいた。
少し空いた扉が寝室と居間を隔てている。午後のまどろみの中、窓の外をみると、通り沿いに煉瓦造りの家々が静かに立ち尽くしている。空は水墨画というよりはむしろ油彩のような色調の灰色味を帯び、窓に水滴が音もなく軌跡を残してゆく。
私は今、眠っているのだろうか。
隅が黒ずみ、全体的に摺り硝子めいたその窓は、ラヴェルではなくブラームスのようでもある。雨粒が下から上に走ってゆく。この世界が現実であることを私に知らせてくれる
通りには道を急ぐ者どもが、時雨の中を歩んでゆく。後ろ姿は見えないが、しかしちらほらと差される原色の傘傘が、ぼやけた輝点となって石畳のむこうがわにある。ふと目醒めたあとにすべてが幻であったあの日の午後と同じ匂いを、夢に死んだあとにも感じることができるのだろうか。
ロ長調の静謐な午後三時に、はるか昔の焦燥を告げるような短二度が時空を超えてふと現れる。私は何事かをなさなかったことを心から悔い、そして激しく息を乱すのだ。それは逃れえぬ罪であり、あるいは祝福された約束であるに違いない。雨が強まり、窓ガラスを強く叩き始める。座っている椅子がぎしぎしと音を立て、水差しから水の球が次々と浮かび、部屋は水底へと閉ざされる、底知れない静謐への回帰、音を知らぬ原初の生命の歌は熱水噴出孔の水流にかき消され、
シーツを握りしめていた。隣には大口を開いて寝ているパンディ、窓の外は未だに雨がぐずぐずと降り続けている。現を見ていたらしい。髪を撫でつけると、ベッドから静かに降りた。
「んぅ…」
間抜けな声を出しているパンディをしり目に、少し開いたドアをすり抜けてリビングへと向かう。自分のための、溢れる感情の吐露。パンディにはいつだって冷静沈着なところを見せたいし、こんなにも遠い歌は聴かせてはならないのだ。
***
「おはよー」
「髪がぼさぼさだよ、ほらそこ座って」
近くの果物屋で朝買っておいた葡萄を机に置きながらパンディを誘導した。やはり食については前世が恋しくなることがある。こんな時にマフィンの一つでも食べられれば良いのに。ちなみに自分はあまり砂糖を入れない方が好きだ。長持ちしないため早く食べてしまう必要があるが。
桶にためた水をパンディに温めてもらいつつ、髪を梳く。その長い銀髪を梳き終わると、すっかり温まった水にタオルを浸し、パンディの顔に貼り付ける。
「うあー」
旅に出てから半月が経とうとしている。二日前からこの街にとどまり、路銀稼ぎをしていた。商人として威圧する場面もないのでパンディはフードをとり、居酒屋の接客を、私は棟梁の下で煉瓦運びだ。なんでこんな全身が痛くなる仕事しかないのだろう…
それは居酒屋に仕事はないかと尋ねに行った時のことであった。
「そうですか、裏方は足りてると」
「はい。給仕でパンディさんを雇いたいという状況ですね。男性は威圧感がある方を募集しておりますので…」
まあ用心棒代わりというところだろう。私はガタイがそこまでよいわけではないので、さすがに威圧は無理か。まだ空席が目立つ店内の端の方に、所在なさげなマッチョが座っている。
「え、でもヤ、じゃない、 はとても強くて…」
パンディの脇腹を小突いて小声でささやく。
「喧嘩を止めるんじゃなくて喧嘩させないようにするの。実際強いかどうかは関係ないから、他のところを当たってみるよ」
「で、でも…」
「ではパンディをよろしくお願いいたします」
「はい、ではそのように」
打ち合わせをして店を出たところで小柄なおじさんが追い付いてきた。
「坊ちゃん、仕事を探しているのかね」
「は、はい…」
聞いてたのかよ。
「儂のところで手伝いが欲しくての、見たところ坊ちゃんは鍛えていそうなのでな」
「そうですよね!!やっぱりヤ、じゃない、 は…」
「パンディ、うるさい」
「はっは、それでどうだね、もし気が向いたら明日南二番通りの工事現場にきてくれ」
「ありがとうございます。考えておきます」
結局、私にはそれしか仕事が見つからなかった。
そして今日は現場が休み、パンディは夕方から仕事なので二人で昼寝をかましていたという次第である。
「ねえヤジャ、今日こそはうちに食べにおいでよ」
「あー」
「昨日店長に話したら、賄いついでに無料でいいって!」
パンディが入ってから売り上げが急上昇しているらしい。羨ましいことだ。
ちなみに私はといえば、昨日と一昨日は昼間疲れすぎて宿屋に帰るとそのままベッドにぶっ倒れていたため、パンディの働く店には行っていない。
というか、昨日まで二日ともパンディが余りものをもらってきていたから結局ずっと私まで賄いをもらっているのと同じ気がするが、まあいいだろう。
「わかった。後で行くから、いまはこの葡萄をたべようか」
雨はようやく弱まり、雲の合間、東方から射す午後の残光は教会のすぐ横を歩んでいる。時の鐘が濡れた石畳に太陽の到来を告げ、通りを歩く者たちの喧噪と足音が、二階の部屋にも聞こえてきた。
「ヤジャ、今日ぴあの教えてよ」
パンディがいつもよりほんのわずかに小さい声で、葡萄を食べながら呟いた。
「んー?いいけど、突然どうしたの」
「どうしてもない」
今度はわずかに大きな声。
「と、とにかく、約束だからね」
「分かったよ」
何から教えるのがよいだろうか。
「ピアノだけじゃなくて、ヴァイオリンもやってみる?」
「ばいおりん?」
「そう、毛で弦をこすって音を出す楽器」
「ふーん」
パンディは首をかしげる。
「私のピアノと一緒に演奏できるし、将来オケをやるならコンマス、あー、コンサートマスターをやってもらいたいしね」
「一緒に演奏できるの!」
パンディがいつもの調子に戻った。
「ヴァイオリンソナタとかだね。コンサートマスターはオーケストラのまとめ役みたいなものかな、指揮者とコンマスがお互いを理解できてるとオケの機動性が格段に良くなるからね」
音楽的側面に限らず、である。なお、私は音楽的機動性を第一に求めるタイプの指揮者ではなかったが、それはまた別の機会に話そう。
ところで、パンディが葡萄を落としている。
「ほら、葡萄落ちてるよ」
口を拭おうとタオルを持って顔を見上げると、パンディの目は揺れており、切れ長の眦から滑らかな曲線を描いて一粒の涙が伝っていた。
「どうしたの、大丈夫?」
「え、あれ、何でだろう、あはは…」
***
パンディが仕事に出てしばらくして雨があがると、私はパンディの働く居酒屋へ向かった。石畳は濡れて、深紅に滲む天蓋の端からの夕陽の残り香を、わずかながらに伝えている。家々の窓からはざわめきと食器の触れ合う音が聞こえてくる。
「あ!ヤジャだ!」
もう隠す気がないな。偽名はやめにしようかと思いつつ壁のメニューからホール側へと視線を移すと、満面の笑顔でこちらに駆け寄ってくるパンディを認めた。シンプルなエプロン姿ではあるが、その花開いたような笑顔と爛漫な言葉で人気が窺える。
「パンディ、さっきはごめん。私は今が一番楽しいから、あの演奏は昔に戻りたいとかいうことじゃなくて…」
「うん、わかってる。お互いを理解してるって言ってくれたもんね」
「それならよかった」
パンディが寝ている時に弾いたから、私が前世に帰ってしまわないか不安になってしまったのだろう。しかし今はパンディと共に生きているし、未来が私にとって過去だからといって未来を懐かしむとすれば、その事態は運命への屈伏であり、巌の投棄であり、生の否定だ。
「今度からはパンディの聴いてるところだけで弾くようにするよ」
パンディは大きな硬いパンの上にのせられたステーキを二つ持ってきて、それを二人で食べた後、一緒に帰路に着いた。肉は固かったし、パンはぼそぼそしていたが、これまでで一番おいしいステーキだったように思う。
―――
本日の音楽
・ブラームス:四つのバラード
エフゲニー・キーシン(p)、2024年
・ブラームス:間奏曲集
グレン・グールド(p)、1960年
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