序-3 ut pictura poesis

 打ち棄てられた教会のステンドグラスに、激しい雨が叩きつけている。半円状の壁全体に広がるレイヨナン式のステンドグラスは尽きせぬ本棚のようであり、全周から射し込む光条は輝いていた知識の残滓を辛うじてこちらの世界へと送り届けるプロメテウスである。

 いったい智は万物を照らす極光であり、また万物を被覆する靄である。本が散乱する大理石の床に、ベーリング海で回遊するザトウクジラの背に投げかけられた極光のゆらめきが辷っている。

 千尋の底に揺蕩う活字達は、さながら示準化石のようにその産まれた時代の手掛かりとなる。文字に起こされた思考の澱は、マリンスノーが光なき世界のピトスであるように、英雄の物語の残滓を垣間見せてくれるのだ。

 雷鳴が轟く。巡礼前の修道士のごとく、打ち据えられた首を揚げて窓の外を見やる。ラプラス共鳴による大いなるユニゾンが彼方から響き亘っている、四百年後からうち続く硫化アンモニウムの嵐を通り過ぎて、金属水素の海にその音を聴かせるのだろう。


***


 教会に辿り着いたのは、雨脚も大分強まってきた午後遅くのことであった。

 一天俄かに掻き曇り、あまりにも遅い人類の行軍を急き立てるかのように背後から稲妻が降り注ぐ。道はぬかるみ、速歩はやあしで急ぐ青鹿毛の蹄跡がぐずぐずと歪んでいる。むしろ颶風めいた雨音のなか、背丈の半分ほどもある草地はけぶり、モノクローム・フィルムを現像したように粗削りの本質を垣間見せている。

 荷車を曳く馬は、そのO型のスペクトルからスハイルと名付けた。パンディがどこからか連れてきた馬で、雷鳴よりも蒼白い躯体と、ウォルフ・ライエ星の如き輝かしい瞳をもつフリージアン・ホースであって、誓約のスハイルほ座γ星と呼ばれるに相応しい。


「明るんだ道を馬にのり、蒼ざめた馬で天の道を踏み行くべきときだ」

 なるほど、煙雨のなか御者台の私が進むべき道はしかと示され、これから入ってゆく薄暗い森の中の小径のぼやけた先に崩れた尖塔が見えている。

「明るくないよー」

 慌てて入った荷車の中で服を絞りながらパンディがぶーたれている。

「北の神話なの。フンディング殺しのヘルギの歌Ⅱ」

「ヤジャは物識りだね!」

「そうでもないよ」

 風で脱げかかっていたフードを被りなおし、教会へと急ぐ。智とは、無智である。

「もっと学ばないとね」

 パンディと色々話ができるから。

「ふーん?」

 さらにフードを目深に被る。

「手前の教会、見える?」

「うん」

「今日はあそこに泊まろうと思う」

「分かった!ここ何日か車中泊だったから腰が痛かったんだぁ」

「次の街でクッションとかも買わないとね」

 荷台にはクラーカウまで運ぶ織物が積まれているが、それをマット代わりに使うわけにはいかないのが苦しいところである。我々の財布は素寒貧なのだ。


***


 赤煉瓦造りの尖塔は片方が崩落し、雨が降り込んでいる。半壊したファザードを通り、身廊に踏み入ると絢爛たる光の殿堂が現出した。祭壇のあたりにはもはや何もなく、コンセルトヘボウのステージのような半円状の平面プランである。身廊にはボグ・オークの沈痛な長椅子が律動的に配されており、主を喪ったコデックスがそこかしこに散乱していた。

 パンディは二列目の比較的傷んでいない椅子に荷物を立てかけると、服を脱いで乾かし始めた。高窓から射し込む雷光に照らされて、不規則にその背中がと光っている。パンディはいそいそと火を起こし、風を送りながら服を乾かしている。

「ヤジャのもやるから服脱いでー」

「ありがとう」

 荷車からタオルを二人分取ってきた私に声をかけると、身体を拭いてパンディは再び服を着た。スハイルは翼廊で休んでいる。


 服を乾かし簡単な夕食をとった後、私は毛布にくるまって両脚を椅子の上に伸ばし、パンディは毛布を椅子に敷き片足を立てて本を読み始めた。頭上では早々と休みを終えたスハイルが悠々と歩いているので、本を読む光には困らない。なお、最初は聖堂いっぱいを駆け巡っていたが、パンディがちらちらして本が読めないと一喝したためおとなしくなった。

 時折本をめくる音が雨音に交じり、足先からは僅かに触れたパンディの体温が伝わってくる。

「雨、続くのかな」

「きっと降り続けるよ」

「宇宙の終りまで?」

「最後の一人が地球から去るまで」


 雨は降り続けるだろう。だから、我々は濡れそぼった瞼をあげ、世界を見続けなければならない。最後の一人は、あるいは出航する宇宙船に背を向けて、波打ち際に佇んでいるのかも知れない。その足下に打ち寄せる潮は何色だろうか、天泣の中、全天に広がった不条理はこれまで人類が浮かべたどのような表情よりも静謐な笑みを煌々と照らすのだろうか。


 雨はますます激しく打ち付け、積み上げられた本はいよいよ深い沈黙へ下ってゆく。ある懐かしい一節が目に留まり、そこで本を閉じて祭壇へ向かった。


 si fractus illabatur orbis, impavidum ferient ruinae.

 よし天が千々に落つとも、劫火にてこそ恐れを知らず立つべけれ。


 指輪をひと撫でするとピアノが出現する。半円の壁面全体を覆うステンドグラスから漏れ出る華やかな光たちは、ちょうど円の中心で交わり、白く純粋なスポットライトをピアノにあてている。スハイルが空から降り、本を読み耽るパンディの隣に立った。



 


―――

本日の音楽

・ワーグナー/リスト:タンホイザー序曲(ピアノ編曲版) 

ホルヘ・ボレット(p)、1974年


・ラフマニノフ:楽興の時

ヴァチェスラフ・グリャズノフ(p)、2018年


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