序-2 鉄の時代
だいぶ遠くに来たようだ。しかし窓には夕陽が落ちている。畑の向こうの川の半歩先の小さな小屋に、赫々たる太陽が沈んでゆく。立てかけてある鍬はグニェズノに突き立てられた墓碑であり、落ちた影の先が川を泳いでいる。しかして影が再び同じ川に入ることはないであろう。
川は紅に染まっている。時折吹き過ぎる晩秋のからっとした風が来週収穫を迎える春蒔き小麦の穂を分け、水面が小麦色にきらきらと陽を返す。人の気配はない。小屋が世界を背負ったかのような、はるかに悲愴な決意をみせながら、落日に対峙している。その背は寂漠とした影に塗りこめられてはいるが、そんな些細なことを気にする訳にはいかないに違いない。鍬が一本、小屋に寄りかかっている。
Wir sind durch Not und Freude
gegangen Hand in Hand:
Vom Wandern ruhen wir beide
nun überm stillen Land.
Rings sich die Täler neigen,
es dunkelt schon die Luft,
zwei Lerchen nur noch steigen
nachträumend in den Duft.
Tritt her und laß sie schwirren,
bald ist es Schlafenszeit,
daß wir uns nicht verirren
in dieser Einsamkeit.
O weiter, stiller Friede!
So tief im Abendrot,
wie sind wir wandermüde –
ist dies etwa der Tod?
あるべき大管弦楽の葬送はなく、ア・カペラが
私が愛したものは常に過ぎ去っていた、どうしようもない郷愁の只中で色褪せた栄光を辿りつづけた、過去へ遁走しつづけた、それが私の人生だ。
私が産まれる前に、1996年8月14日に、世界は死んだ。円盤という分厚い硝子窓を隔てて、天上の響きはついに私の耳に届かなかった。音楽の葬式で、柱の影でただ涙するしかなかった。
だから、ピアノを弾いた、指揮を学んだ。全ての響きが空間に満たされていたあの時代へどうにかして戻ろうとした、涙ぐましい努力の軌跡だ。
そう、私は常に後ろを向いていた。でも、それが間違っていたとは思わない。だって、本選で協奏曲のあの最後のアルペジオを弾き切った時に聴衆が立ち上がって、オーケストラが鳴り終わる前に拍手を始めた時、窓の向こう、後ろに流した白髪を揺らして、微かに振り向いたような気がしたからだ。
もちろん彼は響き終わる前の拍手を聞いて、あの渋面を作ってそっぽを向いてしまったが。そして私も渋面を作ったまま、タクトが下されるのと同時に、意識を喪った。
音を聴くという行為は、過去を死ぬという生である。
音楽は、最終的に達せられることのない彼方である。
演奏は、眼前にあるものを全人格を持って
だからこそ、森のほとりの一軒家で産声をあげたとき、そのやわらかな世界に私は居り、その全てを世界にゆだねていたことを知った。
私はいまここにいる。ここがどこかなんて知らない。何と言ったって
殉教紀元千年と少し、魔法が消える世紀、世界が永く昏い夜の眠りに就く直前、中世の秋である。
あのホールで、私は死んだのだろう。まだ何も語っていないというのに。
そう、だから私は語る機会を与えられたのだと思う。そして私は再び、遁走を始めるのだ。
***
結論から言って、私は家を出た。
家族の関係性は悪くなかったし、家を出るといったときは父親が酷く心配していた。しかし、もうじき16歳になる私は働く頃合いとしてはむしろ大分遅い部類であったし、多少広い農場を持っているからといって女手はなくてはならないというほどではなく、食い扶持を減らすという点では理に適った判断ではあった。
しかし何より、最も大きな理由はパンディの存在である。
「ぶっ!」
当初超然としていたパンディは、数年もの間欠かさずに歌を聴きに来た後、ある日突然散歩してみたいといって、私の隣でずっこけた。それはもう見事なずっこけぶりで、後世まで記録したいと思うほどであったが、手を取って立ち上がらせると泥まみれの顔をくしゃくしゃにして泣き出す寸前であった。こんな顔でも世界の祝福を一身に受けたような輝きがあるのがすごい。
「だからヒトの身体は慣れないっていったじゃん!」
「大丈夫?パンディ、そんなキャラだっけ?」
頭を打ったのだろうか。というか、誰に向かって話しているんだ?
すると、道端の花にとまっていた蝶が応じた。
「主がそこなる方と友誼を結べたのもそのおかげであろうが。主が近くで聞きたいとせがむから、主に身体を与え…」
「あーあー!それは言わないっていったでしょ、パパ!」
なんと。
「お初にお目にかかります。ヤドヴィガ・コズウォフスカと申します」
「ヤドヴィガ殿か。私には名がないが、その娘の父だ。このような姿で済まぬ。我々は実体化するのに手間がかかるのだ」
蝶は片方の羽をひらひらと揺らし、おそらくパンディの方をちらりと見た。パンディは目をそらしている。
「まあ悪い娘ではないから、今後ともよしなに頼む。我々もできる限り協力しよう」
「今後とは…?」
てっきり私の歌を聴きに来ているだけだと思っていたのだが。そんなに深遠な付き合いがあったのだろうか。
「我々はひとたび実体化するとその肉体が朽ちるまでそこから離れられぬ。娘のよき話し相手となってくれ」
そう言うと蝶は一二度羽ばたいて、消えた。
…明日のテノチティトランは竜巻だろう。
「私がいないときは
「いやーそれは?まあ、しょうがないってゆーか…」
これがパンディの素だろう。正直超俗していたときよりよっぽど親しみやすい。
「だけど、私がいないときはどうしてたの?食事とかは?」
こんな人智を超えた女性がいたら、村で噂になることは間違いない。しかし、そんな話は出会ってこの方一カ月ほど聞いていない。
「あたし、狩りもできるんだ!だから、大丈夫、迷惑は、かけないから…」
尻すぼみの声、俯せられる瞼、大きめの手は羽衣の裾を掴んでいる。
そうか、父親には私と暮らしているとでも言っているのだろう。私よりかなり高いその背丈に似合わず縮こまるその背中はとても小さく見えて、だから私は背伸びをして目一杯手を挙げてパンディの頭を撫でた。
「大丈夫、これからは一人でご飯を食べるなんてしないで。私がいるじゃない」
「だけど、あたしがヤジャの家にいったらヤジャが…」
私が住むのは村だ。しかも今は人の移動なんて殆どない時代、とくに農村だとコミュニティは自然と閉じてゆく。そこで見ず知らずの娘を泊めてくれといった日には、村で孤立するだろう。パンディはよく村を観察しているらしい。
「私は商人になるつもりだったの、この世界を見て回りたいしね。だからパンディ、私の護衛をしてくれる?」
正直パンディの能力なんて露ほども知らない。私の歌を聴いてくれて、同年代よりも精神が発達しすぎて孤立しがちだった私と話してくれて、それで十分だ。この世界に来た時から、できるだけいろんなところに行こうと計画していたんだ。
パンディの顔が夜明けの波のように輝いた。そう、君はそんな表情が一番似合う。
「そういえばヤジャの歌はどこの音楽なの?」
一路、クラーカウへ。人交う時にパンディはその長身をフードに隠し、一廉の護衛となる。
仕事のあてはあるのか、と問われるかもしれない。しかし、前世でラテン語を学んでいた私は読み書きができるのだ。古典ラテン語も通じるはず(多分)。少なくとも北上すれば何らかの仕事があるはずだ。大王統治下は商人ハンザ黎明期、機会は河原の石のように転がっているし、よしんば何もなくとも教会に転がり込める。
「うーん、未来のここの歌かな」
そして私にとっては過去の異国の歌。
「ヤジャは未来から来たの?」
「いや、たぶん違うと思う。昔は精霊もいなかったし、魔法も使えなかったからね。
もしかしたら忘れ去っただけかもしれないけど」
「パパは昔、精霊は偉大で人は大魔法を使えたって言ってたよ」
「そう。それじゃあ忘れてしまったのかもしれないね」
暖かさの萌す穏やかなつくしにつられて、陽射しが舞い降りてくる。土の敷かれた柔らかい道路をところどころに照らし、はい出てきたミミズを縮こまらせている。既に魔法使いは緩やかにこの世界から立ち去っている。
小さい石を交互に蹴りながら歩く。
「魔法のような音を作る指揮者ならいたよ。私が生まれる前に死んだけれどね」
「指揮者?」
「歌とか楽器を弾く人を統率する人だね」
「聴きたい!」
木漏れ日の滲んだ光たちがパンディの笑顔に触れている。パンディはスキップしながらくるくると回る。
「オーケストラは難しいかな…人が無茶苦茶必要だからね」
「精霊を集めればいいかも!探してみようよ」
「パンディはすごいね」
私もつられてスキップし始める。調和の法則に従って二人は螺旋を描きながらすすんでゆく。視界からパンディが消えた。
「ぶっ!」
「大丈夫!?」
パンディの荷物が全部散らばってしまった。まあ、ゆっくり拾えばいいだろう。地元で買い付けた商品は私が持っているし、何せ時間はたっぷりある。
「パンディ急いで!日が落ちる前に町につかないと!」
「まってよ~」
その日、宿屋で泥のように眠った。
***
「オーケストラは今すぐは難しいかもしれないけど、ピアノ独奏ならできるかも」
地元で買ってきた木製のお椀をゴザに並べながら少し声を張り上げる。
朝市、一日の全てが集まったかのような熱気。青々しい林檎は軒先で水を弾き、無花果が所狭しと並べられている。なるほど、ここは食物が多いようだ。
「専門はむしろピアノだったからね」
「ぴあの?」
「ハンマーで鉄の弦をぶっ叩くの」
「え」
パンディはころころと表情を変えて楽しい。
「さあ、ちゃちゃっと売っちゃうよ」
…売りさばきながらちゃんと説明はした。調律にこだわっていた時期もあったので、内部構造は完璧に把握している。コンクールで使用は出来なかったが、ベーゼンドルファー290の拡張されたピアノがよい。あの唸りをあげる低音!
なんと、パパが作れるかもしれないのだそうだ。精霊の王とかそんな感じなんだろうか。
町に商館があるから、定住商人がだいぶ勢力を伸ばしているのだろう。商館には毛織物を誇示するように展示していた。市までは統制されていないようで市には出店できたが、後々のことを考えてコネクションは作っておいた方がよい。
「私は商館に顔出してくるから、その間にピアノの件お願いできる?」
「一人じゃ危ないでしょ!待ってて、今行ってくる」
「ちょっ…」
手を伸ばしたところでふっとパンディが消えた。慌てて周りを見回すが、気付かれた様子はない。護身術は一通りできるのだからそんなに心配しなくてもいいのに、と思いつつ少し顔が緩む。
「ニヤニヤしてるー」
「うわっ!!!」
帰ってくるのが早すぎる。
商館は都市参事会の近くにある二階建ての立派な建物だ。
「すいません、商品の運搬について少しお話したいことがあるんですけれども」
私はかなり声が低い。加えてショートカットだからギリ男に見えるはずだ。
「はいはい、私が」
奥から中年のおじさんが出てきた。
「こちらへどうぞ」
そばにあった椅子に座る。護衛のパンディは立っているが、申し訳ないけれど仕方ないだろう。そのほうが威圧できてよいとも言える。
「紹介状等はありますかな?」
「いいえ。クラーカウまで用があるので、ついでに運ぼうかと」
「なるほど。それで私どもの商品を運搬しようと」
商人の目線が外れた。興味を失ったのだろう。
「失礼ですが、私共の商品を奪わないという保証はどこに?」
「それはありませんね」
商人の指が忙しなく動く。
「…でしたら、お引き取り下さい」
ビンゴ。クラーカウに運びたい商品はあるし、紹介状程度の信用で託さざるを得ない程度には運び人が足りていない。保証がないといっても一瞬迷うほどに経営は芳しくない。
「まあまあ、私はむしろ紹介状を書いていただきたいのです」
「は?」
「クラーカウに織物取引所があるでしょう?そちらに勤めたいと思っておりましてね」
「なんで私が…」
「私には紹介状を書くだけの価値があるということです。そうですね、羊皮紙とペンを貸していただけますか?自分で紹介状を書きますので」
さて、知識無双タイムだ。といっても古典ラテン語が通じるか分からないが、まあその位のリスクは許容範囲内である。
さっきのおじさんが引っ込んで、痩せたおじさんが出てきた。あ、全員が文字をよめるわけではないのね。
「こんな感じでいかがでしょう」
「失礼」
痩せたおじさんは少し紳士的だ。まあどんぐりではあるが。
痩せたおじさんも奥に引っ込んでしまった。これは作戦失敗か?
椅子を引っ張ってきてパンディに掛けてもらう。パンディは無言でサムズアップしてきた。いつもうるさいのでこれは新鮮で面白い。
…こんなに待たせるならお茶の一つも用意すればいいのに、とパンディと(一方的に)駄弁っていると、偉そうなおじさんがやってきた。パンディはいつの間にか立っている。
「このように正確な言葉をお書きになられるとは。どういった経歴をお持ちなのでしょうか」
まあ、そこは突かれるところであろう。
「もともと修道士だったので、教会で学びました」
正則ラテン語を使っているのはおそらく聖職者だけだ。
「なるほど、ではなぜ商人などに?」
「実は妻帯しましてね、破門されました」
後ろでパンディがフードを脱ぎ、偉そうなおじさんと後ろから来た痩せたおじさんが息をのむ音が聞こえた。
パンディにフードを被せているのは護衛に見せるためというのもあるが、主目的はその容姿を衆目に晒さない点にある。独占欲が強いというわけではないわけではないことはないが、その月の如き双眸はあまりにも目立ちすぎる。絡まれてもいいことはない。
「なるほど…」
おじさん達は目を離せていない。あのー、私が話をしているんですけれど。
「で・す・か・ら、そこに書きましたように、私を見出したと紹介状で述べていただければ、そちらに利益があると思いますが」
実はここが一番の鬼門である。利益といったって人一人見出した位で出る報奨金はたかが知れている。近場に同じような能力を持つ者がいて、引き込める余地があるのならばそれを交渉材料にして運搬する遍歴商人をこちらに回してもらうこともできようが、私は突然変異みたいなものであるから、じっさいそのような交渉はできない。
だから、パンディに思考能力を奪ってもらったうえで利益とぼかす。
「わ、わかりました。そのようにいたしましょう、すぐに荷馬車を手配します。おい!」
痩せたおじさんがすっ飛んでいった。パンディの顔面効果が凄まじいが、あまりやりたくないな。
「いや、明日でいいですよ。もう昼すぎてますし」
「うまくいったね!」
「パンディはやっぱりこっちのほうがいいなー」
「こっち?」
「いやね、喋っていた方がパンディらしくて好きだなと」
「そ、そう?」
光のどけき午睡の時間に我々は遅い昼食を食べている。うまく事が運んだので景色の良いレストランのテラスで雲雀の鳴き声を聞いていると眠くなってきた、意外と緊張していたのかもしれない。
「あ、あの、ぴ、ぴあののことだけど、今日の夜にできるって」
はっや。
「ありがとう。これで色んな曲を聴かせられるね」
「楽しみ!」
黄金色のパンをもっもっと頬張りながら満面の笑みである。付け合わせのオリーブオイルははっきりとした陽射しを浴びて白いクロスに萌黄色の影を落としているが、そのステンドグラスのような光の切片よりも、やはりパンディの瞳の色は荘厳なのだ。
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本日の音楽
・リヒャルト・シュトラウス:『4つの最後の歌』より「夕映えの中で」
グンドラ・ヤノヴィッツ(s) セルジュ・チェリビダッケ(cond) ローマ交響楽団、1969年
・ショパン:ピアノ協奏曲第2番
アレクセイ・スルタノフ(p) カジミェシュ・コルド(cond) ワルシャワ国立管弦楽団、1995年ショパン・コンクール本選
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