グラドゥス・アド・パルナッスム
@Urlicht-Auferstehung
第一章 幼年期の始まり
序-1 星降る夜
月光で燃え上がる木床に佇む、幽かにエメラルドの色づきがみられる透明なピアノは、凍り付くような寂しさを纏っていた。脚が月光を遮るが、その翠影はむしろ怜悧な、月本来の孤独を表したかのような強さで床を突き刺している。
月は無限の行人である。揺らめく分散和音に乗って私は月の切片を集め続ける。
***
灯りのない夜は意外にも明るく、黒というよりむしろ濃紺の天空を背に、数万年前の光が湖上にさんざめいている。
時たま風が水を揺らして、どこまでが湖でどこからが空なのかを知るが、すぐにその境界は不明瞭となる。まるで天球の中心で全方位から睥睨されているように思える。私は宇宙の中心であり、しかしそうであるがゆえに一つの矮星に過ぎない。
星々の光は暖かいというよりむしろ突き刺すような鋭さを見せている。自らが偉大であることを知り、それゆえに孤独であろうとする、やるせない内向きな輝きが、長い行路を経て私の水晶体を通過した。
未だその裏の顔を人類に見せたことのない夜の女王が、粛々と星海の灯台である。蒼褪めた女王は人類なしにあったし、あるし、あるであろう。そして私は大地という桟橋に立つ、
眠れぬ夜に私はよくここに来て歌う。
そして、出会いはいつにしたって突然だ。ディアーヌよ、セレネよ、と口ずさんでいたら、その女の子は隣に座っていた。
いつからここにいたの?
ずっと。
ずっと?首をかしげるが、右を向いてその子の瞳を見た時、納得した。星々よりもあたたかく輝く緑色の瞳と、淡く光る身体は、明らかに人間のそれではなかった。
揺蕩う波の底から全天の星を見る。原初のエディアカラ生物群が見た空は、こんなにも美しかったのであろうか。天翔ける星の道が煌々とあり、
精霊にしてはおそらく身体が大きかった。神父の説法にでてきた精霊は蝶ほどの大きさだった筈だ。
あなた、お名前は?私はヤドヴィガ。
ない。
……
次の曲を歌わないの?
どうも私の歌を聴きに来たらしい。こんなに簡単に姿を現してよいものなのだろうか。え、別に構わないって?
次は船出の歌だ。
…
Vaisseaux,nous vous aurons aimés en pure perte ;
Le dernier de vous tous est parti sur la mer.
Le couchant emporta tant de voiles ouvertes
Que ce port et mon coeur sont à jamais déserts.
La mer vous a rendus à votre destinée,
Au-delà du rivage où s'arrêtent nos pas.
Nous ne pouvions garder vos âmes enchaînées ;
Il vous faut des lointains que je ne connais pas
Je suis de ceux dont les désirs sont sur la terre.
Le souffle qui vous grise emplit mon coeur d'effroi,
Mais votre appel,au fond des soirs,me désespère,
Car j'ai de grands départs inassouvis en moi.
少しこもったレコードの音は、フォーレの静かな半音階に波打ち際の感傷を与えてくれたものだ。打ち上げられたイーカロスを見つめながら、夜の湖畔を静かに巡るように歌う。星降る夜に、私はイーカロス、その蛮勇を再び見出したのだ。そう、船出の時だ、イーカロスの死は人類の夜明けであり、永久に続く反抗の始まりである。
少女の滑らかな頬に沿うように、数行の涙が零れている。月の光を受けて刻々とその色を変えてゆく涙を見て、今まで伝えたかったことが初めてちゃんと伝わったような気がした。
明日も来るの?
いや、さすがに毎夜家を抜け出すとバレるかもしれないから…来週来るよ。
わかった。
君に呼び名をつけてもいいかな。
歌っていた時から確信していたのだ。彼女にはこの名がぴったりだろうと。
いいよ。
その不可解なほどに儚い容姿、どんな
パンディーと呼んでもいいかな?
名付けは、世界の始まりだ。そして私は家路につく。
放蕩娘が帰還する。アイオロスの風が吹いている。
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本日の音楽
・シューベルト:さすらい人幻想曲
スヴャフトラフ・リヒテル(p)、1963年
・フォーレ:幻想の水平線
カミーユ・モラーヌ(br) リリ・ビアンブニュ(p)、1957年
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