千尋飛翔
あるかとらず
カケクラ
平日の夕方だというのに車内はあっけらかんとしていて、窓の外では薄暗い霧のたちこめる川面を静かに追い抜いていくのがみえた。対岸に並ぶ数軒の瓦屋根は鬱蒼と茂った山の斜面に覆われ、深緑の山々に逆らわないように線路は伸びていく。進行方向に一時間も進めば人口百五十万の政令指定都市にたどり着くのだが、あいにく最寄りの駅に到着したことを告げられ、志田美奈子は重い腰を持ち上げた。
無人駅は砂泥まみれのホームに、錆び朽ちたトタン屋根の木製小屋を乗せただけの簡単なつくりで、入り口そばの点滅しかかったライトに群がった蛾の下をくぐるのは、都会育ちの美奈子には二か月経っても慣れる気がしなかった。一つため息をついたところで、駅前の軽トラックがやっと一台通れそうな砂利道の左側から、人影が現れた。
「あ、どうも」
口調はぶっきらぼうであったが、存外礼儀正しくペコリと頭を下げられたため、美奈子も返事をするほかなかった。
「えっと、確か同じクラスの?」
「うん。志田さんも最寄りはここなんやね」
二か月毎日顔を合わせれば主要なクラスメイトは名前を覚えるものだが、うっすらと同じクラスにいる程度の記憶しかない。仕方なく、彼が着ていた学校指定の体操服について言及するしかなかった。
「今日体育なんてなかったのに、体操服で帰ってるって、もしかして部活帰り?」
「いや、部活ちゃうよ。こっちの方が楽やし、帰る前にいっつも着替えてるんよ」
「ふーん」
確かに、どこの部活にも所属していない美奈子が少しの間だけ放課後に級友と談笑してから帰っているのだから、部活、ましてや体育会系の部活動に精を出してから家路につくにしては、あまりにも早い帰宅時間だった。少年の説明はあまり腑に落ちなかったが、そもそも顔と名前も一致しないさえない男子にそれ以上の関心が湧かなかった。
「志田さんは、部活はやってへんかったの?」
「前の学校では陸上やってたから、この学校では今のところどこにも入る気はないかな」
「確かにうちには女子陸上部はないしね」
部活の話で盛り上がらなければ、それ以上中学生の会話で花が咲くことはない。社交辞令に「また明日」とだけ言って別れた。
家に着くと、料理を支度中の叔母がエプロン姿で出迎えてくれた。
「美奈子さん、お帰りなさい。ご飯ももうできますから、先お風呂入りなさい」
美奈子が、上がり框のそばでセーラー服にまみれた土ぼこりを払っていると、叔母は柔らかな言葉で入浴を勧めてくれた。
白い湯煙の中で、顔の下半分を湯に沈めて鼻からブクブクと空気を出していると、あっというまに過ぎ去ったここ数か月のことがエンドロールのように思い起こされた。
共働きの両親がすれ違い始めたのは美奈子が中学に入学した頃だったろうが、同じ屋根の下に暮らしていた彼女でさえ離婚の具体的な話が進んでいることを知ったのはほんの三ヶ月前のことだ。そこから、それを機に海外赴任を決めた父と、遠方の実家の支社に転勤をした母のどちらにもついていかず、田舎ではあるものの関西にいた父方の叔母の家に住まわせてもらうことになったのがつい二ヶ月前である。住み慣れた関西圏から出るのが嫌だったというのはもちろんあるが、実のところ自分のキャリアに専心して美奈子のことをほとんど顧みなかった両親には内心辟易しており、お盆などで訪れていた優しい叔母のもとで暮らす方がよいと考えたのである。子宝に恵まれなかった叔母夫婦は二つ返事で承諾してくれ、美奈子は新天地で学校生活を送ることになった。
実際、田舎で困っていることといえば、街灯がほとんどなく夜になれば真っ暗になることと、夏という季節もあるのかもしれないが虫が多いことくらいだった。もともと社交面でトラブルを抱えたことのなかった性格のせいもあるが、クラスメイトたちとはすぐになじめ、何人か既に友達と呼べる女子生徒もできた。電車で二十分ほど行けば生活に困らない程度の商業施設がそろう地方中核都市まで行けたし、さらに一時間弱乗れば、もともと美奈子が住んでいた都市圏まで戻ることもできた。何より叔母が毎日料理を作ってくれるし、夫婦総出でわが子のようにかわいがってくれるのだ。
「土地に慣れないで大変でしょう。困っていることがあれば遠慮なくおっしゃってくださいね」
食卓の場で毎日のようにそう言われるのだが、むしろなにも困っていることが何もなく答えに詰まることに罪悪感を抱くくらいだった。おそらく今日も言われるのだろう、とそう思いを巡らしてきたころ、体が徐々に火照り、台所から仄かに食欲をそそらせる匂いが漂っていることに気づき、美奈子は勢いよく浴槽から出た。
七月に入ると、次第に教室全体が何やらそわそわと浮足立っているような雰囲気に包まれているのを美奈子は肌で感じた。確かに期末テストは近かったが、中間テスト前の可愛げな各個の焦りようを既に経験していた美奈子にとって今回のものには何やら違和感を覚えたし、文化祭や体育祭、修学旅行などのイベントは夏休みが明けてのもののはずだった。以前通っていた学校でも、誰かが誰かに告白する、などという噂があったその決行日にはこれと似たような落ち着きのなさを関係者数人からは感じることがあったが、少なくとも教室全体、そして廊下を歩いてみると、中学二年の全教室どころか、他の学年も含めた学校全体で同じような雰囲気を感じとれるのである。
特に男子が著明だった。休み時間に入るたびに普段は話さないような組み合わせで肩を突き合わせながら何やら真剣な目つきで声をひそめているし、女子たちは女子たちでなぜかわざとらしく距離をとろうとあからさまな態度をとっていた。
「もしかして、何か祭りでもあるん?」
さすがに腹が据えかねて、転校して早々に仲良くなった湯島花恋に尋ねてみても、
「祭りとかやといいんやけどねー。まあ、ほんと、男子ってバカって感じよね」
とはぐらかされてしまい、生返事でうなずくことしかできなかった。
おそらくはよそ者の美奈子には関わってほしくないのだろう、という集団意志までくみ取れた。多少の疎外感はあったものの、相手が拒んでいる以上、こちらから無理矢理問いただす訳にもいかない。
そんな諦めかけていた日の帰りに学校から最寄りの駅までの道すがら、見覚えのある背中を見つけた。いつか、叔母の家の最寄りの駅前でばったり出会った体操服姿だった。この日も相変わらず体育の授業もないのに、体操服に、鞄も持たずに身軽で奇妙ないでたちだった。
「柿田くん。今から帰り?」
三ヶ月もあれば教室全員の名前は一通り言えるようになっていた美奈子は後ろから声をかけると、柿田夏輝は目を丸くして振り向いた。
「えっと、志田さん?」
「うん、あたしも今帰るところ。てか、ほんまにいっつも体操服で帰ってるんやね」
夏輝はわずかに怪訝な顔を浮かべたが、すぐにその短い前髪を触りながら目をそらした。
「まあね。別に指定の体操服であれば校則違反にはならへんはずやし」
この一か月で、夏輝が陸上部に所属していること、ただしほとんど幽霊部員であること、クラスではあまり目立たない方で、似たような二、三人の集団でいつも話しているということを知った美奈子は、むしろ女子生徒より素直に質問に答えてくれそうな対象だと感じていた。この好機を逃すまいと美奈子はやや強引に切り出した。
「確か、最寄り同じやったやんね。せっかくやし一緒に帰ろうや」
夏輝は警戒しているのか一瞬逡巡する素振りをみせたが、ため息を押し殺したような顔で返事をした。
「いいよ。でも俺、今日定期忘れたから切符買うまで待ってて」
普段であれば駅のホームに入ればすぐに音楽プレイヤーを取り出し、イヤホンをつける所作に入る美奈子だったが、今日はそれをせず、静かにホームのベンチに腰掛けた。やがて夏輝がやってきたため、美奈子はいきなり本題に入ることにした。
「ちょっと最近気になっていることがあるんやけど…… もしかして近くイベントでもあるん?」
尋ねるからには、彼女自身が学校全体で感じている違和感を挙げていくことにした。それが一種の礼儀であると感じたし、あるいはほとんどクラスの日陰者のような位置にいる夏輝では、それくらい説明しなければ見当がつかない可能性もあると考えたのだった。
「ふーん、なるほど。たしかにそわそわしているかもしれへんなあ、連中は。志田さんが知りたいのは、多分『カケクラ』のことやと思うわ」
「カケクラ?」
「まあ、別に学校の公式のイベントでもないし、そもそも教師とか親とかにばれたりしたらあんまりよくないやろうしな」
「それで、カケクラって何なん」
そう言いかけたとき、電車が目の前のホームに到着した。話は気になるところであったが、通学通勤の時間帯でも一時間に二本しか来ないこの路線で、乗り過ごす訳にはいかなかった。
電車に乗り込むと、結局車内に二人きりになった。異性というので気兼ねしないことはなかったが、離れるのも不自然であり、肩を並べて座った。夏輝の方も何となく同じ思いを抱いていたらしく、少しばつが悪そうな顔で、車窓に見える遠くの杉林の方に目を向けていた。
「カケクラっていうのは、要するに走る速さを競う『駆けくらべ』のことで、なんか知らんけど、うちの学校やと毎年各クラスの男子の代表どうしが一堂に会して競うっていうのが恒例行事になってる」
「……運動会ってこと?」
「いや、運動会みたいにグラウンドでやるわけじゃない。俺も正直参加したことないからあんまよう知らんけど、山道を、それも夜にやるらしい」
「夜の山道ってめちゃめちゃ危ない気がするけど……」
「まあ、危ないからみんな殺気立っているし、一部の人らが一種のプライドを感じているんちゃうんかな。正直、湯島さんが言っていたように『男子がバカ』っていうのは合っていると思うわ」
「はえー、ほんまにあほやね」
話を聞き終わると、美奈子は正体見たり枯れ尾花の心地で、呆れて言葉が出なかった。そして、湯島が自分に教えるのをためらっていた理由が何となくわかった気がして、少し安心感に包まれたのだった。
あとはテスト勉強や、くだらないクラス内でのゴシップなどの他愛もない話をしていると、三駅はあっという間であった。
「今日はありがとう、いろいろと教えてくれて」
「いや、転校したてでわからんこともあると思うし。別にいいよ」
七月だというのに、すぐに山影にはいるからかあたりはもう薄暗く、体操服姿は踏切を渡って、牛蛙の声のする畦道の方へと小さくなっていく。クーラーの効いた車内とは打って変わっての重苦しい暑さに汗ばみ始めたセーラー服の袖口を翻し、薄紅の夕日が徐に山際にさしかかるのを見て、もう何年も同じ風景を見てきたような不思議な気持ちになった。
美奈子が、夏輝と二人で帰ったこの軽はずみな行動に対して後悔の念を抱くのにはほとんど時間を要さなかった。この山間の小さな集落の田舎学校というのが、どれだけ狭い社会を形成しているかを初めて身をもって知ることになった。まだ三日も経たないうちに、花恋が心配そうな顔つきで慌てて美奈子の席まで駆け寄ってきたのだ。
「なんか、美奈子と、うちのクラスの柿田が付き合っているって噂になっているけど、どこまでいってるん?」
「いや、いってるも何も全く何もないけど」
「でも二人で手をつないで歩いているところを見たって」
美奈子は呆れて言葉を失った。ただの一度駅までの数十メートルと同じ電車に乗ったくらいで、ここまで大衆週刊誌のように脚色されるとは思いもよらなかったのだ。
「いや、たまたま帰りが同じ方面やったから一緒に帰っただけで……」
「ほんま? 花恋にはホントのこと言ってほしい!」
「いや、ほんまもほんま。そもそも手もつないでへんし」
「そうか、よかったー。じゃあ、私、このよく分からない噂、頑張って火消しに協力するから」
「ありがとう」
また、その二日後には、ほとんど挨拶しか交わしたことのない吉田というサッカー部員の同級生にこの話題で話しかけられたのだった。
「あのさ、柿田と付き合っているって、ほんまなん?」
美奈子はさすがに腹が立って隠す素振りもなくため息をついた。
「そもそも付き合ってへんし、あたし、もうこのよくわからん噂に迷惑してんねん。そもそもあたしが誰と付き合おうと関係ないやろ」
「いや、関係ないことないし」
「はあ?」
「今誰とも付き合ってへんってことやんな?」
「だから何?」
「それやったら、俺と付き合ってほしい」
美奈子の心の中に形成された銀河は、怒りと、侮蔑と、悲哀と、その他の複雑な感情が交じり合って、創世神話に現れるような混沌とした得体のしれない地底湖の奥底のような静けさを伴っていた。そもそもいつ爆発するかわからない殺気立った状態でそれどころでない美奈子に、交際の申し込みをするその気もしれなかったし、この複雑怪奇の事態につけこもうとするその魂胆も気に入らなかったし、だいいち冷静に考えてもほとんど挨拶しか交わしたことのない相手と交際を考えるはずもなく、美奈子は「ごめんなさい。無理です」と即座に返した。
カケクラは毎年七月の第四日曜日に予定されている。たいていその頃にはどの学年でも期末テストが終わり、かといって夏休みはまだ始まらず、帰省や旅行などは計画されていないだろうという配慮によるものだと美奈子は推察していた。あれから柿田夏輝を見かけても一言も話すことはなく、また、向こうから避けているような素振りを見るに順調に夏輝の方にも被害が及んでいたようだった。
ほとんど関心はないにも関わらずあと一週間にせまるとカケクラの話はいやでも耳に入ってきた。たいていは美奈子のクラスからはどの男子を代表として選出するか、あるいは他のクラスで対抗馬として誰が手強いか、弱点は何かといった類だった。美奈子にとってはそもそもこのローカルな意味不明な行事に関心を持ったせいでとんだ火傷を食わされたわけであり、あまりいい印象を持たなかったが、一つだけ興味深かったのは、実際に使われるその詳細なコースが判明したことだった。
スタート地点は美奈子の家に近い小さな神社の鳥居であり、そこから社務所の裏手の道から山道の方へと入っていく。最初は竹藪のなだらかな上り坂が続くが、やがて険峻な岩道になり、標高二百メートル分も登った末に山頂の矢田神社を通過する。そこからはひたすら学校の方へとつづく九十九折の急峻な下り坂が続き、杉林を抜けて学校近くの公園でゴールとなる。美奈子の家から学校までは三駅分あるものの、実際線鉄道は山を迂回している。それをほとんど直線に近い経路で山道を縦走するコースはせいぜい七キロメートル程度しかない。曲がりなりにも以前の学校で陸上部に入っていた美奈子にとっては、短いとは言い難いものの長すぎるとも感じない距離に思えたが、二百メートル分の高低差を付与すれば、この地域に住む中学生たちが「矢田神社縦走」と呼んで恐れているのもわかる気がした。
ちょうど配布されたハザードマップを机に置いて、毎日の通学で見かける車窓の風景を頭に思い浮かべながら行路を想像していると、必死の形相で花恋が教室に飛び込んできた。地図は彼女の移動で起こった風圧に負けて机からひらりと舞い落ちた。
「美奈子、大変」
彼女が慌てて駆けつけてくるときはたいていロクな事がない。
「どうしたの?」
「とにかく来て」
美奈子が連れていかれたのは廊下のさらに奥の各学年の下駄箱が立ち並ぶ昇降口だった。正面には今月のスローガンやら各部活がこれまでに獲得した表彰状などが飾られている掲示板があり、その前に明らかに様子のおかしい人だかりができていた。彼らが取り囲んでいたものが目に入ったとき、美奈子は驚きのあまり声にならない叫び声をあげて、薄れゆく意識の中で全身に力が入らなくなるのを感じた。
目を覚ますまでは五分もかからなかったらしい。逆にいえばその短時間の間に、美奈子は保健室の柔らかなベッドの上で安静に寝かせられ、ご丁寧に羽毛布団までかぶせられていた。隣には花恋がいて、その背後にデスクで事務仕事に勤しむ保健室の職員の揺れ動く背中が見えた。
状況を理解したとき、そこでようやく先ほど目にしたものについて、考えを巡らせることができた。それは一葉のスナップ写真で、写真の中央にはイヤホンをつけて車内の椅子に腰かけて参考書を読んでいる美奈子自身が映っていたのだった。
「大丈夫? 美奈子」
「大丈夫。さっきは感情に支配されて思わず血の気が引いちゃったけど、今なら冷静に考えることができる」
まずは自身の写り方を思い出していた。やや右斜め向き、そして、やや上方のアングルからの視点であることを鑑みれば、おそらくは右隣の車両から撮ったものだろう。さらには、表紙の色合いから考えると読んでいたのは歴史の参考書に違いなかった。昨日で終わった期末テストの日程を思い浮かべながら、花恋にきいた。
「花恋、歴史のテストがあったのって、確か一昨日やんね」
「うん」
「あたしもう大丈夫やし、教室に戻るわ」
「え、もう」
「ただの迷走神経反射やし。大丈夫」
美奈子は花恋に連れ添われながら廊下を歩き、自分の教室へ戻った。教室の扉の先には、授業をしている時とはまた違った類の緊張感があることが感じられた。美奈子は勢いよく引き戸を開けると、教壇に立っていた教師に向かって「すみません、戻りました」と一礼をし、すぐに自分の席についた。彼女自身が思うよりも顔が青かったのだろう、教師は何か心配するような声をかける素振りをみせたが、あまりに彼女が凛と座していたためか口をつぐんだ。
「志田。すまんが、急遽、数学の玉手先生と代わってもらって、ホームルームをすることにしたんだ」
「わかりました、金子先生」
金子は咳ばらいをして、向き直るように低い声を出した。
「もう一回いうが、昼休みの一件について、別に先生は犯人捜しをするつもりはない。ただ、何が起こったのかをきちんとここで検証する必要があると考えている。状況を知っている者はすぐに名乗り上げなさい」
森閑とした教室のなかで挙手していたのは中央にいた美奈子ただ一人だった。
「志田、大丈夫なのか」
「私が一番の当事者ですから」
美奈子は立ちあがったとき、演説を前にして息をのむ群衆を前にしているよう感覚が胸の鼓動を高鳴らせていた。
「先生は犯人捜しをする気がない、とおっしゃりましたが、私は少なくとも犯人含めて初めてこの件の検証になりうると考えています。あの写真がいつ撮られたものなのか―― おそらく私が車内で歴史の参考書を広げていたことから、一昨日の朝でしょう。そしてあの日の午前は試験が歴史の一コマだけでしたから、いつもより少し遅めの九時五十九分着の各駅停車に乗っていました。あの写真のアングルからして、私が乗っていたその車両の右隣の車両に乗っていたはずです。もちろん詳しく車窓の背景などを調べればどのあたりで撮ったものかなどもわかるはずですが。今日学校帰りに私自身、鉄道会社に事情を話して、あの車両に乗っていた人間を問い合わせてみる予定です」
「いや、待ってくれ。確かに気持ちはわかるが、外部の会社との連絡などは学校を通してもらった方がスムーズだろう。そこは私の方から問い合わせようと思うし、少なくとも学校の中で起きたんだから、まずは校内で調査や対処を行ってからだな……」
「いえ、確かに写真が貼られていたのも校内ですし、盗撮犯も校内の人間だとは思いますが、少なくとも写真が撮られたのは電車内という校外でのことですし、さらにいえばそうでなくとも犯罪ですから警察が関わってもおかしくない案件だと思いますが」
警察、という単語を挙げると金子は面白いようにことさら慌てて脂汗をたぎらせた。教師としてはできるだけ内部の問題として穏便に抑えようという気持ちがあるのだろうが、少なくとも美奈子の中では犯人に対して不合理な救済措置を渡す気持ちはなかった。ある意味、彼女はやり場を失った燃え上がる感情と、教師の自己保身の構えとの間に、せめて自身が事態収拾の手綱を握るという妥協点を見出したのである。
「残念ながら私がわかるのはこれくらいです。この他に何か事情を知っている人がいれば教えてほしいです」
次に手を挙げたのはサッカー部の吉田である。何となく気に入らない美奈子だったが、情報提供者が一人でも増えるのはありがたいことではあった。
「志田さん、実は、既に犯人は分かっているんです」
「え?」
「さっきの時間、志田さんが保健室に運ばれている間、クラスでも確かにあの電車内の写真は誰が撮ったんだろうって話になったんです。ちなみに、志田さんはまだ転校してきたばかりであまり知らないと思うんですが、そもそもあの電車を利用してきている人自体が志田さん含めてうちの学年でも五人しかいなくて、大多数は自転車通学なんです」
確かに、駅から学校までの道を歩いている生徒はいつもまばらだったし、校門脇の広々した駐輪場はいつも色とりどりの自転車でひしめきあっていた。
「あの日、午前中が一コマだけだったのは、偶然にも二年生だけでしたし、校内の人間、それもあの電車の朝の時間に撮られたとなると、うちの学年の四人が怪しくなるわけです。それで、この四人個別に聞いてまわったんですが、二人は朝勉強のために朝八時から登校していたらしく、一人は体調不良でその日は学校に行っていないということでした。それで残る一人がこの二年A組の柿田くんなんですが……」
クラス中は一斉に、窓際後方の席に座っていた夏輝の方を向いた。柿田夏輝は何も言わず、ただ唇をかみしめて吉田の方を睨んでいた。
「柿田くんは確かにあの日、志田さんと同じように、試験直前の十時十分くらいに登校していました。柿田くんは志田さんと同じ最寄り駅から通学していますし、必然的にあの電車に乗っていたことがわかります。それで、僕たちで先ほどの時間、彼に問い詰めたわけです。そしたらバッグの中からこんなものが……」
吉田は、教室後方にあるロッカースペースの、柿田の棚から通学鞄を取り出した。そしてその鞄を同級生全員にみえるよう持ち上げながら、一つ一つ中身を取り出していくパフォーマンスを演出し始めた。未使用の体操服やら、置き勉しているであろう多くの教科書やノート類を机の上に積み上げていき、そのさなかで徐にとりだしたのは、今はほとんど流行らないであろう携行型の小型デジタルカメラであった。
「問題はここからです」
吉田の証言者としての時間はまだこれでは終わらなかった。ツカツカとタイルを踏み鳴らして今度は教壇の方に歩いて行った。それを教師の目の前でピッ、ピッ、と幾度か操作音を鳴らしてから、金子に手渡したのだ。金子は、老眼鏡を外して頭をデジカメの近くに持ってきて目を細めると、なるほど、とつぶやいた。
「すみません、私も見せていただいてもよろしいでしょうか」
美奈子もまたそのカメラの方へと吸い寄せられるように歩いていくと、確かにその小型のデジタル画面には、粗い画素ではあったが、あの昇降口に貼られていた写真も元画像が映し出されていた。少なくとも、このカメラによって屈辱的行為が行われたのは間違いなかった。
バカな、と美奈子は思った。一つは、本来見つからないように最大限の努力を払うはずの盗撮という行為の犯人がこれほど短時間かつ単純に見つかるとは考えていなかったということ、そして、一度ではあるものの車内である程度会話を交わし、それほど常識に外れた行動をするとは思えない柿田夏輝が第一の容疑者であるということが彼女にとっては驚天動地の事実であった。
衆目は夏輝の方に集まった。彼は一瞬観念したかのような緩んだ表情をみせたが、一転してその口調は普段からは考えられないほど毅然としていた。
「申し訳ないですけれど、俺はそんなカメラなんて持っていないし、そんな写真なんて全く知らないです。まさかこんな状況証拠だけで俺がやったなんて言わないでしょうね。別に何を言われてもいいですけど、俺はやっていないことははっきり言っておきます」
「じゃああのカメラはなぜ鞄の中に入っていたんですかね」
吉田は昂った声で追及の手を緩めなかった。
「知らないです。そもそも俺は基本的にあの鞄は置き勉入れとして使っていてここ一週間くらいは持って帰っていないです。昨日はなかったんで、今日の朝にでも俺の鞄の中にでも入れたんじゃないですか。何の気かは知らないですけれど、俺を犯人に仕立てあげようとして」
「でも、それはただの言い分に過ぎないですよね。むしろ柿田君が犯人だという客観的な証拠が揃っているんですよ」
「客観的な証拠? そんなもの一つも揃っていないと思いますけど。確かに俺は志田さんと最寄り駅は同じだし、二日前は十時十分くらいに学校に着いたのも確かです。でもそれだけで、俺が志田さんと同じ電車に乗っていたことにはならないでしょう。それにカメラの件だって俺の鞄の中に入っていたことは事実やろうけど、それがすなわちあのカメラが俺のもので、そしてそれを俺が鞄の中に入れていたことにはなりませんよね。第一俺が志田さんのことを盗撮する動機なんてありませんから」
あまりの夏輝の反抗的な態度に、吉田も感化されたのか、ふてくされたような口調で、動機ならあるだろう、と吐き捨てた。
教室のなかは、台風の目の中に入り先ほどまでの嵐とは打って変わったような静けさだった。おそらくは少し前に流れた美奈子と夏輝の噂、そしてその直後に美奈子が吉田の告白を屹然と断ったということも既に広まっていたようで、同級生たちはスキャンダルを好物とする大衆雑誌の読者のように好奇の目で三人の活劇を見ていたらしかった。美奈子はこれ以上、自分を食い物にされるのがあまりに悔しく、かといって事態の本質は残念ながらこの醜態の人間関係に端を発してそうであった。苦肉の策で、美奈子は沈黙を破り切り出した。
「申し訳ございません、金子先生。ほんの十分だけでいいですから、少し、生徒だけで話し合いをさせていただけないでしょうか」
何となく、金子も手を持て余していたのだろう、最初は
「別に生徒がどんなことを言っても気にしない。だいいち、教師なしで生徒だけで話あうと収集つかへんくなるやろう」
と言い放っていたが、態度を変えない美奈子に折れて、すごすごと教室を出ていった。
ピシャリと隙間なく扉が閉じたのを確認すると、美奈子は車内で話した時以来初めて、夏輝に話しかけた。
「柿田君がさっき言っていたことで、一つ気になった点があったんやけど、訊いてもいいかな。確かにあのカメラが柿田君のものだっていう証拠はないし、柿田君が犯人だという証拠はない。でも、柿田君が、私と同じ電車のどこかに乗っていた、というのは間違いなく事実にならない? そうじゃなければ、私より一本前の電車に乗って、学校に着く前に三十分ほどどこかで油を売ってたっていうの?」
すぐに、夏輝の答えはなかった。明らかに戸惑った顔をして、かと思えば天井の方を向いて何かを考えているような素振りであった。
「別に私は柿田君のことを犯人扱いしたいわけじゃない。もしも、柿田君があの電車に乗っていて、それで私とは違う車両にいたとすれば、何か少しでも手がかりを持っていないかなって思って」
できるだけ和やかに努めた美奈子の口調とは打って変わって、その次の発言者は語気を荒げた。
「志田さんはそんなこと言っているが、実際、柿田があの電車にいないっていうのは、状況証拠として間違いないやろ、なあ、柿田。そもそもあの電車に乗ってたんはこの学校で柿田しかおらんわけなんやから、あの写真を撮れるのは必然的にお前しかおらん。もうここまでロジックが積みあがっているんやから、そろそろ観念しろよ」
吉田は、崩壊する民主政を体現するように扇動者としての役割を全うした。あるいは、教師のいない生徒だけの教室というのは、リヴァイアサンに見放された万人闘争状態に近いものだったのかもしれない。最初は吉田と同じサッカー部に所属する者が小さく、さっさと認めろよ、とつぶやいたことに始まり、長引いてきた不毛の話し合いに飽き飽き始めた者たちが口々に賛同し始めた。夏輝はそれでも黙秘権を行使し続けていたが、あるとき美奈子と完全に視線の合う瞬間が訪れた。美奈子は目を離さない。射すくめられた彼は堰を切ったかのように、再び滑らかに証言を始めた。
「申し訳ないけど、俺はあの日、あの電車には乗っていない。だから、誰があの写真を撮影したかも知らない」
「じゃあ、どうやって来たんだよ。山でも越えたっていうのかよ」
鋭く、吉田が叫ぶ。夏輝は静かに頷いた。
「矢田神社のある道を、山って解釈するんなら」
生徒たちが波打つように騒がしくなっていく。おそらくはその不整な揺らぎは、彼らの心情を表していた。
「毎日、『矢田縦』しているなんて馬鹿なこと言うなよ」
「別にお前らみたいに『カケクラ』なんてかけっこ遊びをしているわけじゃない、自転車でいけない距離やし、最短の通学路が自転車ではいけないような道やから、仕方なく走って学校に来ているだけ」
普段教室の片隅でおとなしい夏輝とは明らかに一線を画した、自身の満ちた野太い声と、淀みのない口調に思えた。だが、何となくその雰囲気に違和感を覚えていた美奈子は、別の角度からこの堅城を攻めることにした。
「聴きたいんやけど、どうして電車を使わへんの?」
「単にお金が欲しいから。学校とか親には電車通学っていっとけば半年ごとに定期券代がもらえるやろ」
「でも待って。前に一度私と電車に乗って帰ったことがあるけど?」
「あれは、定期代をちょろまかしているのをばれたくなかったから、仕方なく切符を買って乗った。こんなことになるんやったら、あのときもいくらでも言い訳できたって後悔してるけどね。雪が解けてから電車に乗ったのは、誓ってもいいけどあの一回だけや」
「本当に毎日? 私が来てから一回たりとも電車に乗っていないのね」
「うん、誓ってもいい」
「言ったわね。あたしは一度だけやけど、朝に家の前を柿田君が通るのを見たことがある。あれは確か午前七時五十分発の電車に乗ろうと家を出たとき。あのときは確かに車内で見かけなくて、忘れ物でも取りに帰って電車を逃したんかなと思っていたけど、あたしが学校に着いた時にはもう着いていたわよね。なんとなく、別の車両に乗っていてたまたますれ違わなかっただけやと思っていたけど、そのときも走ってきたっていうの?」
「志田さんが転校してからの話なら、確実に電車には乗っていないよ」
「それなら、おかしいわね。あたしが家を出ようとしたのは七時四十五分、そこから乗車して電車が到着するのは八時二分、そこから学校までは歩いてせいぜい七分程度、たったの二十四分しかないはず。柿田君は、二十四分であのコースを走りきったって言いたいの?」
中学生でも、全国トップクラスの陸上競技選手は三キロメートル九分を切る、つまり一キロメートル当たり三分以内のペースで走れるということだ。もしもそのペースを七キロメートル保てるのであれば二十一分以内で走り切れることになる。もともと陸上競技をしていた美奈子は、それくらいの知識はあった。しかし、それはあくまでもスパイクを履いて整備された平坦のトラックを使っての記録だ。矢田神社縦走は、話によれば標高二百メートルもの高低差を一気に駆け上がり、それだけ下らねばならないらしい。岩肌も粗く、走行に適さない隘路もあるだろうし、一流選手ですらペースを落とさねばならない坂道もあるに違いない。それらも加味したとき、果たして中学生が二十四分程度で走り切れるだろうか。あるいは、かろうじてそのトップ選手がなんとか走れたとして、目の前で平然と走ったといいのける一見平凡なただの陸上部幽霊部員が、果たして全国トップ選手と肩を並べられるとは思えなかった。
「別に時間なんて詳しく測ったことないから何分とは言えへんけど、志田さんの主張が正しければそうなるな」
吉田は今にもとびかかりそうな剣幕で、大胆不敵に証言台に立ち続ける夏輝を睨んだ。
「嘘をつくのもいい加減にしろよ! 去年カケクラで新記録を作った三年の新井駿也先輩でさえ、二十五分三十三秒かかったコースやぞ。お前なんかにそんなペースで走れる訳ないやろう。そんなに言うんやったら、来週日曜のカケクラに出て、C組の新井に勝って自分の足で証明しろよ。もしもちんたら走ったら、お前が盗撮犯やからな、ほら吹き野郎」
その咆哮は、締め切った扉も突き抜けて廊下中に響いていたらしい。
「おい、お前ら、何を騒いでるんだ」
扉が勢いよく開いて、肩で息をしながら額に汗を滴らせた担任の教師が駆け込んできた。夏輝の近くまで競りよる吉田の姿と、例の叫び声を聞けば、確かに今にも取っ組み合いが始まりそうにも見えないことにもない。そして、もう一つの問題があったのは、あくまでも学校では非公式にすぎないカケクラについて、教室中の誰も教師には言えなかったということだ。校庭の遊具さえ危険だといって撤去しようとする教師たちに、いつ滑落してもおかしくない山道を全速力で駆け抜けるという危険な行為を赤裸々にできる者はいなかった。それは、ある意味、もう一つの弱みを握られている柿田夏輝にとっても幸運なことだったかもしれない。
静まり返ったホームルームに終わりのチャイムが響いた。金子先生にとって、その鐘がこの厄介な事件の表層上の解決を告げているかのように聞こえていたろうが、そこにカケクラの代表選出という代償が含まれていたとはまさか思いもよらないにちがいない。
普段は人気のないはずの曲輪野神社の境内に、古代の陣営を思わせる妖しげな篝火が二灯、炊かれている。ひしめく中学生たちの息遣いは、真夏の夕闇にのまれて一塊の軍列をなしていた。一年に一度しかない祭典は、彼らが生まれるずっと前から綿々と継がれてきた民俗風物詩であり、一種の彼らの魂の特性の形成の一部をなしているともいえた。それだけに、彼らはただ静かに、スタートラインに並べられた代表者たちを見守っていた。
この伝統ある行事に二年A組から奇妙な代表が出るらしい、という噂はあのホームルームの後すぐに学校中に広まった。もちろん、噂好きの生徒たちの好物である醜聞という食前酒が添えられての伝播であったが、ある意味最も純粋に理解し、否定しようとしていたのは、皮肉にもライバルとなりうる人物だった。その人物はスタートまであと十分という最も精神が心拍を加速させるであろうときに、背後から軽く肩をたたいた。
「よう、久しぶりやな。夏輝」
「……新井先輩」
競技者の中では誰よりも長身で、無駄のない細身の筋肉を全身にまとった彼は、屈託のない笑顔を浮かべていた。それまでは思い思いの方向に視線を散らばらせていた観客は、森閑として競技者たちの対峙を、固唾をのんで見守っていた。
「もう一年くらいは部活に来てへんお前が、まさか矢田縦に出るなんてな」
「こっちにもいろいろ事情はあるんです。別に出たくて出るわけじゃないです」
「なんとなく、お前がようわからん犯人に仕立て上げられているんは噂で知ってんで。まあ、正直俺にとってはそんなんはどうでもええことやわ。ただ、お前が二十四分であそこを走り切れるって言ったのは、聞き捨てならんな。去年のカケクラに出た時の俺の記録が二十五分三十三秒。今年に入って何回も練習しているけど自分の手元で測って、まあベストタイムは二十五分フラットってところや。三千メートルで俺に周回されていた小僧に負けているなんて、俺のプライドが許さんからな」
「もしも先輩が二十五分かかるんやったら、俺もプライドにかけて負けるわけにはいきません。俺はどうしても二十四分で走らなあかんのですわ」
「言っとくけど、今年の俺は三千メートルの近畿大会で入賞してるんやで。それに、この矢田で育った男やからな、カケクラは特に負けられへん。申し訳ないけど、今日は矢田神社の鳥居くぐるまでには決着つけたるわ」
去年の優勝者としての風格を保った爽快な笑顔で捨て台詞を残し、そのままレース直前のウォーミングアップを始めた。
夏輝は、優勝者からの挑発はさして動じなかったが、普段の通学と同じようにと念じれば念じるほど、学校全体の注目を浴びているという不慣れな状況に対して、緊張感を隠せずにいた。あとスタートまで五分と迫っていたが、最後に境内の公衆トイレへと向かった。
道すがら、偶然にも、見覚えのある人影を暗闇に見つけた。ランニング用のヘッドライトは、美奈子の白い顔を浮かび上がらせ、夏輝は一瞬目を丸くしたものの、すぐに通り過ぎようとした。
「ねえ、どうして、お金なんて欲しいの?」
過ぎ去ろうとした夏輝に、美奈子は声をかけた。振り向くと、彼女はライトのまぶしさにも屈せず真剣な目つきで、夏輝の方を見つめていた。
「……俺、海外に行きたいねん」
「え?」
「海外に行くためには、金がいるやろ。高校からになるか、大学からになるかはわからへんけど、お金をためて絶対海外に行く。だから、今のうちからお金を貯めてるんや」
「どうして海外に行きたいの? 第一英語しゃべれるん?」
「俺は生まれた時からこの矢田におって、この十四年間、こんな狭い世界ででしか通用せえへん価値観にまみれて生きてきたんや。俺は、もっと広い世界に出てみたい。英語は今はしゃべれへんけど、それは海外に行ってしまえばどうとでもなる。最悪、お金さえあれば英会話学校にも通えるしな」
「……なんか、いろいろ考えてるんやね。ありがと、あともう少しやのに、いろいろ教えてくれて」
「いや、いいよ。多分、志田さんも俺と同じ何か信念を持っている人やから」
「え、信念?」
「うん。この訳のわからん風習に踊らされている矢田の連中とは違う何か信念を持ってる目をしてる。少なくともあのホームルームの時に目があったとき、俺は志田さんがそういう目をしているように見えた。だから、俺は自分の無実を潔白しようと思って、あの電車に乗っていないことを正直に言うことにしたんや」
夏輝は公衆トイレの方へと駆けていった。美奈子は、夏輝に言われたことを反芻し、自分の中に果たして信念というものがあるかを考えた。今の発言によれば、夏輝はもともと盗撮犯であることに甘んじ、このカケクラにわざわざ出なくとも、トタン屋根で台風が過ぎ去っていくのを待つように、噂が風化するのを待つという選択肢もあったことになる。確かに、あのホームルームで語気を強め始めるまでの、教室の片隅でおとなしくしている印象だった彼は、自分が犯人扱いされようとも自己主張を躊躇ってもおかしくないように感じた。
果たして、あの瞬間の夏輝は、美奈子を見て何を思ったのだろうか。
そんなことを思案していると、境内の社務所の方から、爆発音と歓声が聞こえ始めた。それと同時に、大量の生徒たちが境内から出て鳥居を潜り、駅の方へと向かった。時刻表上はあと数分で次の列車が来る時刻にスタートが設定されており、観客たちはその列車に乗って一足先にゴール地点まで一飛びし、走者たちのゴールを待つ算段だった。
気が付けば、美奈子のつま先も駅の方へと向かっていった。
矢田中学は一学年が四組あり、全学年で計十二名の走者が選出されていることになる。十二人の駆け武者たちは駅に向かった群衆とはまず反対方向の裏手の山道入り口の方へと一斉に向かい、次第に道幅が狭くなって峠道の様相を呈し始めるころには、各走者の走力順に縦に長い列をなし始めていた。後方では既に息も絶え絶えになっている者さえいた。
先頭を引っ張るのはもちろん新井駿也であった。慣れた足つきで傾斜をものともせずに砂利道を踏みしめる足音が一定の旋律を刻んでいくのだが、彼のなかでの驚きだったのは、その背後に二人もぴったりとついてくる者がいたのだった。一人は、同じ三年でバドミントン部のエースである塩原で、振り返って確認すると、体幹をぶれさせずに大きく手を振って遠心力を推進力に変える、陸上部でも稀有なほどに上り坂に適したフォームで走っていた。確かにこれはついてきてもおかしくないな、とどこか悔しい気持ちで先頭を進んでいたが、そのさらに背後に必死についてきている夏輝の姿の方が、どちらかというと脅威であった。
彼にとって、柿田夏輝は、入部当初から練習では最後尾を余裕なさげに走っている姿しか見ず、気が付いたときには練習に顔を出さなくなった、走る才能も根性もない人間にすぎなかった。その夏輝が、去年から各段に成長したであろう自分のペースについてくるというのは、何やら別人を相手にしているようで薄気味悪かった。
GPSウォッチが一キロメートルのLAPを三分三十秒で刻む。
――遅くもないが、大して速くもない。二人ともついてこれるわけだ……
調子のいい時の駿也は、三分二十五秒で最初の一キロメートルを通過している。むしろこのペースで先行されていないという事実が、彼を奮い立たせた。上り坂の傾斜はさらに厳しくなったにもかかわらず、先頭のペースは自転車のギアを一段上げたかのような加速をみせた。そこで初めて均衡が崩れ、塩原が離れた。
夏輝の一つの誤算、そしてもしかすると駿也の思惑の一つに入っていたのかもしれなかったが、山道は一人で走る分には特に障壁を感じなかったのだが、人を抜かすとなると十分な幅の確保が難しかった。塩原の前で駿也が加速していくのを見て、すぐに目の前に追いつこうと努めたが、バドミントン部のエースの体格を躱すのは至難の業であった。二キロメートル地点付近にようやく三又になっている広場のようなところで塩原を追い抜くことができたのだが、このとき既にヘッドライトの明かりの先には人影がなく、駿也は既に二十秒先の石磴へと足を踏み入れていた。
一度二番手を突き放した駿也は、まさに水を得た魚のようだった。これは彼が、今年の県大会の決勝で近畿大会出場を決めた時も、二千メートル地点で後続を突き放すと、そこから自分でもコントロールできないほどのペースアップを重ね、ダントツの優勝を飾ったのだった。彼の腕、肩、胸背部、腰から脚にかけて、それらのすべての骨格筋がそのときの感覚を覚えており、まさに蘇らんとしていた。背後からは足音さえ聞こえない。もちろんフラットな周回コースを回るのとは訳が違い、次第に傾斜も険しく、足場もおぼつかなくなる厳しい道が立ちはだかっていき、ペース自体は落ちて行っているのだろうが、その悪条件は二位以下の夏輝たちも同様である。むしろ悪路であればあるほど、実力差がはっきりとつく。三キロメートル地点では既に駿也と夏輝の差は一分近くになろうとしていた。じきに、山頂の矢田神社である。
矢田神社の鳥居の朱は、既に手入れする神主を失って久しいせいか剥げ落ちて、もとの檜の木目が薄暗闇の中でも分かった。それでも、今日の最速を競う者たちを拒まない。矢田神社縦走コースでも印象的なこの鳥居はちょうど中間となる三・五キロメートル地点であり、今年のカケクラではここでラップを測定するために二人の生徒が配置されていた。スタート、ゴールはもちろん、その他の地点にもこの勝負の途中経過を目の前で見ようと張り付く者たちがおり、その多くは新井駿也の差配により配置された陸上部の後輩たちだったが、なかには出場者に関係ないものの、それ以外の形でカケクラに関わりたいという私的な動機で自ら志願する者もいた。彼らは各地点でそれぞれ無線で連絡を取り合い、通過タイムや勝負の動向を逐一共有しあっていた。
神社の裏参道の方から鬱蒼と茂る松林の脇を回って、一筋のヘッドライトの光が見えた時、タイム測定係たちは一斉に喊声をあげた。
「一位は……、一位は、新井駿也さんです、どうぞ」
彼らは無線に向かって、感激を隠せない声で伝えた。
「矢田神社鳥居地点、十二分四十八、四十九、五十…… 新井さん、通過は十二分五十一秒です!」
一面に驚愕の嘆声が漏れる。暗闇の中で息をひそめて蠢く観覧者たちは、口々に目の前で起きている光景に対して、昂った声を隠せない。
「去年の新井さんって、確か十三分以上かかってたやんな?」
「うん、確か十三分半くらいやった」
「ここまでで三十秒以上更新してるってことやろ。それやったら、今年は……」
「ああ、前人未到の二十四分台のペースで来てる。今年もまた新記録樹立や」
真っ暗な中でも、ホームの目の前を新幹線が通過するような風圧が巻き起こった。かと思えば、もうヘッドライトの明かりはもう山稜線の彼方へと通り越していった。
それから次の走者が来るまでの時間というのは、鳥居のそばで勝負の行方を見守るものたちにとって、無限に感じられたに違いない。暗闇には一筋の光さえ差すことなく時間だけが過ぎていき、気が付けば一分近くもの時間が、真っ暗な境内に流れていた。
「これは、さすがにもう新井さんの勝ちだな」
「だいいち、去年の新井さんが走ったとしても、ここから追いつけないぜ。下りを走るのは、登りを走るよりも難しいんや。そもそも人間には落下に対する恐怖心があるから、自然にブレーキをかけてしまう。足場も悪いから、ブレーキだって普通にはかけられへん。しかも登りよりは高速の勝負になるから、差もつきにくいしな」
「差がつきにくい? 下りほど差がつきやすい区間もないと思うけどな。登りは確かに体力勝負になるけど、下りはそれほど体力がない代わりに、足先のテクニックが要求される。矢田縦の下りは特に走りにくいことで有名なんやけど、新井さんは下りを走るのがうまいから、訳の分からん二年A組の坊主とは、ここからさらに差がつくんちゃうか」
立ち話をしているとようやく、二筋の光が鳥居の方を照らし始めた。柿田夏輝は、一度突き放した塩原に追いつかれ、二人の集団が鳥居をくぐったのは、スタートから十四分一秒、先頭を突っ切る新井駿也からは遅れること一分十秒の通過となった。
矢田神社からは既に遠く離れ暗夜山行の先陣を独り切っていく駿也は、九十九折を息を切らしながら下っていた。この道の厄介なところは、足場が砂利道で着地の角度を間違えると谷底に滑落する恐れがあるため、下りで重力で加速させてもらえる分、精神的な持久力をすり減らされることにあった。登りでかききった汗とは異なる類の粘着質の汗が駿也の体にまとわりつき、熱帯夜の蒸し暑さがその不快感に拍車をかけていた。少し開けた道にさしかかると、すぐそばに滝音を通り過ぎる。そこで一度駿也はちらりと左手首に巻いたGPSウォッチをのぞき込み、自身が自己最高記録のペースを保てていることを確認すると、そのまま右手で額から頬に落ちる汗の雫をぬぐった。
滝壺の近くには登山道の途中に整備された公衆トイレがあり、そこにもトランシーバーを片手にした生徒が一人石垣の上に座り込んでいた。この地点で待機していたタイム測定係の後輩に対しては、矢田神社の通過時点で駿也と二位がどれだけ離れているかを走っている自身に伝えるようあらかじめ頼んでおいたのだ。駿也はちらりと彼の方を視線を向け、後続との差についての情報を知らせるよう促した。
「えーっと、二位・柿田夏輝との差は……一分十秒です!」
返事はしない。駿也は言葉を発するそのエネルギーをすら、一秒でも速く走れるように変換させたいと考えていた。代わりに、にやりと口角を上げてほくそ笑み、人知れず彼なりの勝利宣言を行った。
――結局夏輝は、十四分一秒もかかっているわけだ。要するに、去年の俺のタイムさえ勝てないことになる。それに、ここからは下りの連続が始まる。登りはなんとか精神力で耐えられていても、ここからは精神論ではどうにもならない、どれだけ下りに卓越しているかの世界や。少しばかり走って体力つけました、の新参者にはどうにもならへんとこになる。仮にあいつの二十四分がほんまやとしたら、鳥居からゴールまでの三・五キロメートルを十分切るってことになる。下りが得意な俺でさえ、矢田縦の下りには苦戦してるんやから、まずありえへんタイムや。宣言通り、鳥居の通過の時点で決着はついたも同然やな。
駿也の心中では、あとはどれだけ安全に走り終えられるか、油断せずに終えられるかに勝負がかかっていた。タイムを焦るあまり滑落して結果不戦敗に終わったり、ウサギと亀のような無様な故事を作ったりするわけにもいかなかった。ただ、カケクラが民俗学的に強く根付いている地域で生まれ育ったためか、本能てきに一秒でも速い新記録を削り出そうとしてしまっていたのは事実である。
かつて、ある陸上競技雑誌を開いたときに、ちょうど前年の五輪でマラソン男子金メダリストに輝いた選手がインタビューを受けている記事を見つけた。その選手は、アフリカ北部の出身で貧しい生まれながらもその人並外れた持久力と忍耐力で陸上競技長距離界に頭角を現し、そこで稼いだ給料で大学まで通っていたというインテリ系のアスリートであった。彼はこう述べた。
「この世界で最も長距離走を得意なのは人類です。短距離走ではチーターや馬には到底及ばない我々ですが、一定の訓練を受けさえすれば、馬にだって勝ちうる長距離走の速さを手に入れることができます。だから、私は長距離走が最も速い人間こそがこの地球上で最速だと思っているわけです。しかしながら、それは去年のオリンピックの優勝者である自分が最速だと言っているわけではありません。私には、スポーツメーカーが粋を集めて作った一流のシューズを履いて、誰かが整備した人工道路という限られた条件で勝ったにすぎないのです。ぼろぼろの靴を履いて誰も整備していない荒れた山道を走って勝負し、ようやく最速といえるのです。そのような条件であれば、私の母国にも、私より速い真の勝者がいると考えます」
その記事を読んでからというもの、駿也は特に山道の練習に力を入れるようになった。もちろん、そこにはカケクラへの執着心が遺伝子単位にまで染みついていたという要因もあるが、それよりももっと人類、いやあるいは脊椎動物といってもいいかもしれないが、誰よりも速くなりたいという原始的欲求が原動力になっていた。
――夏輝、俺は申し訳ないけどプロを目指しているんや。こんなところで負けるわけにはいかへん。俺は今年もカケクラで勝って、そして、「最速」になる。
下りは重心の移動の連続であり、九十九折で何度も方向転換しなければならないこの悪路では、無雪の斜面でスキーを試みるようなものだった。だが、駿也は何度も練習した自慢の重心移動によって、ほとんどブレーキをかけずにテンポよくいったりきたりして下れていた。
彼が最速タイムを出すために躍起になっていたというのはあるのかもしれない。背後が仄かに明るくなっているのに気が付いたのは、もう足音が背後のすぐ近くまで聞こえている時だった。初め、それは何か夜道に迷い込んだ獣か小動物の類かと思った。しかし、ぴったりと張り付いたようにしだいに大きくなる足音に、彼は思わず振り向いてしまったのである。
「夏輝……」
後にも先にもこのときのかけくらべで言葉が発せられたのは、この瞬間のみであった。まず駿也は時計を確認した。すると少なくとも彼自身は、自己最速ペース、少なくとも鳥居を超えてからもそのペースを維持できていたはずだった。GPSはちょうど六キロメートルの地点にさしかかったことを告げており、二十一分ちょうどであり、このままいけば二十四分少し超えたくらいの、大幅な自己最速タイムでゴールできることが予想された。続いて今度は、背後に迫りくる人物について考察を巡らせた。十四分一秒で鳥居を通過した夏輝は、そこから二・五キロメートル、しかも下りで一分程度も差を縮めたことになる。一キロメートルあたり二分五十秒弱のペース、しかもそれが矢田寺縦走コースの下り区間ともなれば、駿也の持っている常識ではまず考えられない速度だ。背後から迫りくるいやらしい足音は、思いの他静かで小刻みであった。要するに、夏輝はとんでもないピッチで足を回転させ、その回転数でかつ、どうやっているかは俄かには考えづらいものの、駿也以上にブレーキをかけずに駆け下っていると考えられた。
陸上競技部の練習を真面目に積んでいる駿也にとって、あと一キロメートルで、しかも素人との勝負ともなれば必ずラストスパートを試みるタイミングであったのだが、彼の中でこの九十九折の下り速度は既に限界に達していた。もどかしい気持ちを持て余しながら、だんだんと近づいてくる夏輝の足音に歯を食いしばりながら、器用に足をステップさせるしかなかった。
下り坂の両端を覆っていた杉林はやがて開けて野ざらしの風景になる。もともとは杉林が続いていて、数年前に土砂崩れが起きてそのままになっているだけの場所だったから、カーブが続く急斜面の道は変わりがなかったが、麓までが直接見下ろせ、残り五百メートル先に待っている公園のゴールまでもが視界に映るようになるのだ。
夏輝は既に駿也の背後にぴったりとついていた。駿也は、まだ背後で何が起きているかいまだに認識できないまま走りをすすめていたが、少なくとも自分が勝つか負けるかの当落線上で綱渡りをしている状態であることは分かっていた。だが、あと五百メートルというところで前に立ちはだかる前回優勝者をすぐにでも抜かせそうな位置にいるにも関わらず抜かせないでいたのは、登り区間で塩原を抜かせず駿也から突き放されたのと同様に、追い越せるだけの十分な道幅がなかったからだった。
――申し訳ないな、夏輝。俺が鳥居のところで勝負を決めるといったのは、タイムだけちゃう。鳥居を超えてからは、ある一定以上の速度でこのコースを駆け降りることを想定した場合に追い越せる道幅のある場所なんてほとんどないねん。しかも、俺は、後ろに抜かされへんように工夫するテクニックは持ってるから、ここまでどんなマジックを使って差を縮めたかはわからへんけど、勝負はあの鳥居で俺が先行していた時点でついていたんや。
テニスコート三面分くらいの中途半端な広さの公園に、学校中の生徒がつめかけて肩を押し合いへし合いして、ゴールである公園の裏門を最初にくぐる者を今かと待ち受けていた。美奈子もその一人であったが、何となく野次馬集団に混じるのは嫌気がさしたため、公園からは少し離れた道端の柵にもたれてコースの最終区間である、杉林を抜けて下り坂が露わになるコースを注視していた。
コースの要所の地点には生徒が待機しており、タイム測定と無線での連絡を行っているようだった。最終的な通過タイムと勝負のある程度の動向はほぼリアルタイムでゴール地点の方にも共有されるようになっており、中間地点で新井駿也がぶっちぎりの一位通過をしていることも既に知れ渡っていて、二連覇の偉業と新記録樹立が成し遂げられるカケクラの新たなる歴史の一ページを見逃すまいと群衆たちは勝者の凱旋を待ち受けている。
三・五キロメートル地点で、一分以上も差が開いたという一報を受けたとき、美奈子は、勝ち目はまだ残されているとどこかで感じた。確かにそこから二十四分でゴールまで辿り着くにはとんでもない速度で暗闇の山道を駆け降りる必要があったが、彼女にはどうしても、夏輝が嘘をついたとは感じられなかったのが。あるいは、自分の証言が引き金になって渦中に入ってしまったことに、少し引け目を感じていたのかもしれなかった。
最初の情報通り、そしてさらに予想よりも速く最初の走者が姿を現したとき、公園中が揺れるような歓声が響き渡った。が、その背後に思いもよらない人影が張り付いていたことに、観客たちは一瞬にして静まり、そして数秒後には口々にざわめきうろたえ始めた。山頂では一分十秒も後ろにいたはずの夏輝が、いつの間にか駿也の後ろをぴったりとくっついていたのだ。
駿也は確かに速かった。上手く傾斜を活かしてストライドを伸ばしながら、ターンの際にはステップを踏むようにしてややピッチを速くして方向転換し、急カーブにもできるだけスピードを落とさずに曲がり切る芸当をやってのけていた。しかし、夏輝は平地を走るときのような走り方とほとんど同じで、急斜面にもかかわらずきちんと後ろに蹴っているために重力と推進力とがほとんど相殺されずに合し恐ろしい速度が生まれていた。しかも、その速度のままであれば方向転換しきれずに、崖から谷底へと滑落していきそうな勢いなのだが、駿也は一風変わったステップをカーブで行うことによってその速度のベクトルを自然に変化させていた。このステップは、のちに新井駿也によって「スリーステップターン」と名付けられることになるのだが、まずは内輪の方の脚を少し内股に着地させ、その瞬間に体幹を翻して今度は外輪の方の脚を軸に、さらに蹴りだし、内股に着地させた方の脚で思い切り踏み出す。これによって本来は遠心力によってカーブのできるだけ外側を走行せねばならない場合も、反対周りに方向転換できるこの特殊な踏み出し法によって、ほとんど最短距離で、かつブレーキなしで曲がり切ることができるのだ。
しかしながら、細道が続く下り坂では残念ながらその天才的なステップもただの宝の持ち腐れに過ぎない。駿也は極めて狡猾に背後の様子をうかがいながら一歩たりとも相手に追い抜かそうとする隙を与えなかった。九十九折ももうあと三ターンで終わりを迎えるところであり、しかもその最後から二番目に、二百七十度とコース上最も角度が鋭角なヘアピンカーブが待っている。そこを華麗に曲がりきることが、その先に待ち受ける観客たちにとっては最も魅力的なパフォーマンスであり、カケクラの勝者にのみ許される栄光であった。それを知っていたからこそ、駿也は一瞬の隙を夏輝に与えてしまった。気が付いた時にはもう、夏輝の背中が駿也の目の前にあった。
一瞬、何が起こったかわからず、走りながら、どこを走っているかもわからずただ目をぱちくりしているような感覚が全身を襲った。そして、一秒前に目の前で起きた光景が、どのようなものであったかというのは、彼が意識的に思い出す記憶の領域ではなく、無意識的に呼び起こされる彼にすら不可触の潜在記憶が記録していた。確かにあのヘアピンカーブに差し掛かる地点では確実に駿也が前を走っていた。そこから二百七十度もの方向転換を余儀なくされた彼がやや膨らみ気味に放物線を描いてしまったのは間違いなかった。しかし、その曲道の内側には人ひとりも入れるスペースなどなく猫がやっと通れるくらいの間隙にすぎなかったはずだった。そこで彼の脳裏に映りこんだイメージは、そもそもカーブが始まるその手前ですぐに曲がった先の道の方へと折り返していった夏輝の姿だった。彼は例のスリーステップターンを駆使して道と道の間の五十センチメートルほどの落差さえもものともせず、ほとんど飛翔するように体全体を宙に浮かせ、意表を突いた追い越しをお見舞いしたのだった。
最後のターンも彼のスリーステップターンの独断場であった。この時、駿也は初めてこの奇妙なステップと驚異的な速さでのターンを目の当たりにした。この時点で時計はまだ二十三分十秒だった。
最後のカーブから公園の門をくぐるまではあっという間だった。美奈子は、カケクラが始まる直前に声をかけた際、彼が、海外へ行くために金を稼いでいるのだ、と幼稚な夢を気恥ずかしそうに語っていたのを思い出した。その夢が叶うか否かは現時点ではわからなかったが、彼の人間離れした下り坂における足さばきは、その夢を追いかけるようにして毎日この矢田神社縦走コースを往復して培われたものに違いなかった。
最後の直線に差し掛かった時、ほとんど戦意喪失しかかっていた駿也と勢いよく腕を引いて前へ突き進む夏輝の差が開いていくのは一目瞭然だった。普段は静かな片田舎に色とりどりの歓呼が響き渡ったのは。おそらくは一年の中でもこの夜にしか起こりえない現象であったにちがいない。彼らのカケクラに対する奇妙な熱狂は美奈子には当然理解しえないものであったが、険しい下り坂を乗り越えてきた勇者を祝福するこの瞬間だけは、そのほんの一部でも味わえた気がした。多くの生徒が沿道で見守る花道を、後ろも顧みず突き進んでいく彼は、辺りの騒ぎなど聞こえていないとでもいうかのように、最後まで真剣な顔つきを崩さない。もちろんこれだけで彼の無罪は晴れたわけではなかったが、少なくともこの時に彼に拍手を送らない生徒はいなかった。
柿田夏輝は、二十四分きっかりでゴールの門を潜った。
千尋飛翔 あるかとらず @alcatrazbook
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