バス停に座りてバスを待つ。

鈴ノ木 鈴ノ子

バス停に座りてバスを待つ。

 爽やかな春の日も、暑い暑い夏の日も、清々しい秋の日も、雪が降る降る冬の日も、入居者の柏原は毎日バス停に座った。

「柏原さん、どちらへ」

 特別養護老人ホーム『ときながれ』、その玄関脇にある事務所、受付事務員の舞川が声をかけた。見えない位置にある右手にはストップウォッチが握られていて、今まさにスイッチを押したところだった。

「バス停まで、夫のバスがくるかもしれないから」

「はいはい、気をつけてね」

「お世話になりました」

 普段通りの何一つ変わらない言葉の掛け合いをした柏原さんは手押し車を押しながら95歳の足取りとは思えないしっかりとした足取りで、ところどころにほつれの見え隠れする野球帽を被り、可愛らしいピンクの室内着姿で自動扉から出てゆく。

「私、見ているからいいわよ」

「お願いします」

 壁に身を隠すようにして朝霞介護士が柏原さんを心配そうに見つめている。いつもの通りに舞川は声をかけて、慌ただしい現場へと戻らせると、電話の子機を手に持ち事務所から柏原の座るバス停の椅子へと急いだのだった。

「あら、あなたも待つの?」

「ええ、ご一緒しましょう」

「いいわよ。夫がね、バスの運転手をしているの、路線バスにも乗るから、今日は来てくれるかもしれないわ、娘夫婦も孫も一緒に乗って来てくれたら嬉しいわね」

「そうなのね、会ってみたいわね」

 何度も聞く同じ話に同じように相槌を打つ、決して間違えてはならない、名前も呼んではならない、一つでも言葉が違うと柏原は口を閉ざしてしまう。

「素敵な人よ」

「どうやって知り合ったの?」

「昔の話よ…私が観光バスの添乗員で夫が運転手、何度か一緒に仕事して一緒になったのよ」

「まあ。なかなかの出会いね」

「でしょう、いい男よ」

 皺が可愛らしく緩んで年月の愛情をしっかりと宿していた。見ているこちらまでが幸せのお裾分けをいただけそうであった。

「じゃあ、待ちましょうか」

「ええ、ゆっくりね」

 いつも通りの話をしていつも通りの内容を聞く。齢を重ねて認知症を患っても変わらない。夫の仕事、夫との出会い、バスのこと。楽しそうに話す柏原の言葉は思い出でなく今その時を過去のその時と重ね合わせて言葉を紡ぐ。


 バスの来ないバス停で。


 数年前、地元のバス会社から施設にクレームがあった。柏原と言う女性から頻回にバスの時間と男性運転手のことを電話で尋ねてくるので困っているとの内容だであった。注意したとて認知症の方に意味をなすことは少ない。一度、経歴をさらってみようと言うことになり、医療機関からの資料などを見直してみた。そこに苦難と不幸の事実が記されているなどとは思いもしなかった。

 夫とは結婚して5年で事故により死別、一人娘を女で一つで育て上げた。娘は結婚して子供を2人出産した。双子の可愛らしい孫たちはすくすくと育ち、素敵な家族に囲まれてようやくの穏やかな老後を過ごしていた。同じようなグループホームで補助職員として働きら休日は孫や娘と買い物に出かける、そんなささなかな日常を東日本大震災の津波が飲み込んで消し去ってしまった。働いていたグループホームが高台にあったことで柏原は助かった。

 1人だけ取り残されるように助かった。

 跡形もなく流されてしまった自宅跡から見つかったのは、孫が被っていた野球帽、そして娘が誕生日にプレゼントしてくれたピンクの室内着だけ、それ以外の全てを海は飲み込んで連れ去ってしまっていた、愛しき人の写真も、愛しき人達も、愛しき我が家も、愛しき思い出も…。すべて、すべて。

 元来の強さ故だろうか、柏原は見つからなかった家族を1人で弔い続けて暮らし、そして加齢と共にきた認知症の悪化に伴って歳の離れた弟の住むこの地へ転居し入所となっていた。

 対策を考えようとした翌朝のこと、柏原は施設から行方不明となった。そして発見してくれたのもクレームを入れていたバス会社からであった。

「普段なら誰もいないバス停にいたんですよ」

 夜半、行先表示が回送となった路線バスが柏原を施設まで送り届けてくれた。

「これ、夫に渡してください、泊まり込みかもしれないから…」

「はい、お渡ししておきますね」

 肌身離さず持っているハンドバッグから、饅頭を一つ取り出して運転手に差し出す、それを若い運転手は嫌な顔なに一つせずに受け取ってそう返事をする。

「ありがとう。運転手さん」

深々と頭を下げてバスを降りた柏原は、再び振り返って深々と頭を下げた。そしてバスがクラクションを一声上げて去ってゆくのを寂しそうに、でも、嬉しそうに目を細めて見送っていた。

 翌日、いつもより神経を研ぎ澄ましながら入り口を見張っていた舞川に若い男が近づいてきて、不躾に挨拶もなく突然こう言ってきた。

「バス停を作りませんか?」

 驚きしっかりと見つめると昨日の若い運転手であった。

 詳しく話を聞けば、誰もいない寂れたバス停で楽しそうにバスを待っている姿が脳裏から離れないとのことだった。

「夫がね、バスの運転手なのよ」

「はぁ」

「とても大切なお仕事でなくてはならないものだからね。お兄さんも大変なお仕事をご苦労さまね」

 仮初でも上部だけでもない、言葉の中に感謝がしっかりと宿っていた。自然な言い回し、不自然さなど入り込む余地のない言葉に若い運転手の涙腺は緩んでしまった。ライフラインとは聞こえがいいが、実情は酷い時もある。荒みそうな毎日の中で柏原の言葉がどれほど心を打つものであったか、その温かさに触れた若い運転手を動かすには十分であった。

 やがて、バスの止まらないバス停、『ときながれ前』が出入り口脇に設置されると、柏原は毎日座るようになり、他の入所者たちも座っては戻るを繰り返すようになった。誰しもが帰るにはありし日の記憶からバスとなる。それぞれが思い出を抱いていてふと思い出しては、バス停で思い思いに過ごしてゆく。

「今日は遅いのかしらね、またにしましょう」

 柏原がバス停から立ち上がり、自動扉を通って建物内へと入ってゆく。

 きっかり1時間。どんなときもきっかり1時間。

 それはありし日の夫との約束なのだそうだ。1日の終わりにバスで帰って来る夫をバス停で待つお腹の大きくなった柏原と夫が交わした約束、『体のために待つのは1時間だけ』、古き日の約束を律儀に守っていた。愛情あふれる夫の言葉が大切な妻を今も守っているような気がして、舞川は羨ましくなったのだった。

 その年の暮れ、請求書の処理で遅くまで事務所で作業をしていた舞川の耳にバスの止まる独特の空気の音が聞こえた気がして思わず顔を上げる。薄暗い廊下の先に柏原が立っていて、こちらにゆっくりと歩いて来るのだが、その姿が異質だった。一歩歩いて来るごとに、若々しさを取り戻してゆく。あまりのことに身を固くして驚いていると目の前に惚れ惚れするほどの美人の添乗員、いや、バスガイドが立っていた。

「色々ありがとう」

 見惚れるほどの笑顔でそう言った彼女が深々と頭を下げた。

「は、はい」

 咄嗟のことに舞川はそう口にすることしかできずにいると、頭を上げた彼女は軽くウインクしてから自動扉を開けて外へと出て行った。やがてバスのクラクションと共に綺麗な声で『発車オーライ』と聞こえた気がした。

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バス停に座りてバスを待つ。 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

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