第2話 


「……呉さん? 起きていますか?」


 そう呼ばれて、僕は気がついた。

 どういうわけか、一瞬意識が飛んでしまったようだ。

「大丈夫ですか?」


「え、ええ……。 すみません。あまり眠れていなくて……」


 いつもの自宅だ。眠気もほんの一瞬だけだった。


「お疲れなんでしょうね。早めに打ち合わせ、してしまいましょう。」

 

「お気遣いありがとう」


 今回の作品なんですが、とディスプレイごしに中田が言う。

「この閉塞感は強烈だと思いますよ。こんな話は初めてです」

 と眉に皺を寄せながら話している。


「…そう、そこはいちばん描きたかった要素です。絶対に外せないんですよ。わかりますか? 読者は、あの描写にこそ心を掴まれるんです」

 呉は、目の前の編集者、中田に向かって、強く語りかけていた。中田は、彼がそこまで強く主張することに若干面食らいながらもノートにメモを取っていた。


「あの病院は、現代社会の縮図とも言えます。人間がいかに自由を渇望し、同時に、それをある日突如奪われる恐怖に怯えているのか。その矛盾が、この物語の核心なんです」


 中田は、呉一郎の言葉に違和感を感じていた。彼の熱弁は、まるで宗教家のように、情熱的で、どこか狂気じみたものを感じさせる。


「でも、呉さん。正直なところ、この小説は、ちょっと……独特すぎるんじゃないですか。ホラーとしては十分だと思いますよ。それにしても読者層が限定的すぎるというか……。 転生の要素を入れろとは言いませんけどね、もっと、万人受けする要素も必要じゃないですか? ちょっと非現実的すぎますよ」


「非現実的ですって? 中田さん、そもそも精神病院なんてもの自体が現実ではないですからね。そこを否定されたら何もできませんよ。 現実では味わえない、恐怖と絶望が、ここには詰まっているんです。それを、読者に味わってほしい。それが、この小説の最大の価値なのです」

 呉は、机に置かれた端末を指差し、言った。それは、リリース予定の最新作の表紙だった。表紙には、薄暗い病院の廊下にうずくまる、影のような男の姿が描かれていた。


「……あの、呉さん。僕は、あの……、実は」

 中田は、言葉を濁しながら、恐る恐る口を開いた。

「この小説って…、もしかして、実体験に基づいて書かれたものですか?」

 呉は、中田の質問に、一瞬だけ目を細めた。視線こそ合わせていないものの、まるで獲物を狙う猛獣のようだ。

「……まさか」


 呉は、不敵な笑みを浮かべながら、中田の質問をかわした。

「でも、一つだけ言っておきます。この物語は、強烈な衝撃を、いわば爆弾のような恐ろしさを秘めています」

 中田は、呉の言葉に、背筋がゾッとするような寒さを感じた。彼は、この男が、ただの小説家ではないことを、確信した。


「……私は、ただ、この物語を世の中に伝えたかったんですよ」


 中田はその言葉は不自然に思えた。


「物語……なら、『伝えたい』という言葉はやっぱりおかしい。 呉さん。ここに描かれている病院、患者たちは……、どこかに本当にあって、存在しているんじゃないですか?」


 間を置いて、呉は落ち着いた口調でゆっくりとこう言った。「ねぇ、」


「あなたは、『精神病院の中』という作品が、どんな世界で、どのように生まれたのか、知りたい、ですか?」


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精神病院の空 赤キトーカ @akaitohma

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