ある愛の素描

 私がアンゲリカと過ごした時間は、彼女の短い人生の最後、たかだか数年程度でしかない。家族でも友人でもなく、ましてモーリスのように生涯を誓い合うほどの絆を持ったわけでもない。私はせいぜい、総統の周囲に数多くいた小間使いの一人にすぎなかった。

 しかし、その存在の重要さは、私の人生が最も光り輝いていた時期とぴったり重なることもあるし、また彼女がいなくなってからの世界の変化があまりにも劇的すぎたせいで、特別な意味を持たせたいと思っているせいでもあろう。

 これまで幾度も幾度も、初めてアンゲリカと出会った時のことを思い出そうとしてみた。

 私の敬愛する総統が、狂おしい愛情と激しい情熱を感じた生涯で唯一の女性と語るほどの女である。そして、私自身もアンゲリカとは親密とまでは言わないまでも、親しみを込めて近しく関わり、時々の記憶に鮮烈な印象を残していった女である。それなのに、いつ、どこでアンゲリカと出会ったか、どうしてもその時の記憶が探せども探せども出てこない。

 何だか、彼女が背後からさっと現れたのも知らないまま、何ら違和感すら感じさせることなく私の視界に溶け込んでいたような気がする。それくらいアンゲリカの存在は、当たり前のようにそこにあった。

 人々が語るように、確かにアンゲリカは取り立てて目を惹く容姿ではなかった。同じ年代の少女たちと比べれば、肉付きが良すぎる傾向があるし、そのせいで均整の取れたスタイルとは言い難かった。また、目鼻立ちだって特に整っているわけでもない。せいぜい目立つ特徴と言えば、総統閣下と血縁関係を感じさせるやや下がり気味の目尻と、笑った時の無邪気な口元くらいのものだろう。

 美しい女、可愛らしい少女であれば、この第三帝国には他にごまんといる。アンゲリカ程度の女など、別に珍しくもないのだ。

 しかし、それでいてアンゲリカは特別だった。

 何が我々の、いや、総統を夢中にさせたのか。

 それを彼女を知らない人間に対して語ろうとするのは、極めて困難な作業である。何しろ語る人間によって評価はさまざまで、「ウィーン風の洗練」が身についていたと見る人間がいれば、別の人間は「卑しいほどに欲張りな娘」だとこき下ろし、「天衣無縫だが真面目で無垢な少女」と評する者がいたり、「知性のかけらもない、野卑な小娘」と酷評する者もいて、その像をどう捉えるか随分難しい問題なのだ。

 そして、そのどれもが正しく、そのどれもが間違っているというのが唯一の真実ということになる。つまり、アンゲリカを一つの枠に押し込めること自体が無理のあることが。

 そう、彼女を心から愛した総統閣下のように。


 アンゲリカについて思い出すのは、彼女の歌声だ。

 ある日、当時総統閣下が住んでいたアパートの部屋の前に着くと、中からかすかにアリアが聞こえてきた。それは「ラ・ボエーム」の「私の名はミミ」だった。

 しばらく耳を澄ませて聴いていると、

「何ぼーっと突っ立ってるんだ?」

 という声が飛んできた。その声にハッと我に返り、扉の脇のベルを押した。

 扉が開くまで前をじっと見つめていると、上司のヴィルヘルムが横に立った。

「前より大分上手くなったんじゃないですかね?」

 私の他愛ない感想に、ヴィルヘルムは一瞬何を言っているのか分からないという表情を浮かべたが、直後に扉が開き、秘書の姿と同時に明瞭な歌声も私たちを出迎えると、ヴィルヘルムは私の言葉に合点がいったといった感じで、「ああ」と目を大きく開いてこちらを見た。そして、

「ま、多少は、くらいだけどな」

 と返してきた。

 ヴィルヘルムの辛口評価はともかく、アンゲリカはオペラ歌手になりたいという夢を抱いていた。もともと歌手の夢があったのかどうかは知らない。ただ、その夢を追うために、せっかく入ったルートヴィヒ・マクシミリアン大学の医学部も最初の学期だけでやめてしまった。

 当然アンゲリカの母は、大学を中退したことにいい顔をしなかったらしいが、総統は姪の意思を優先するよう姉を説得した。それだけでなく、姪の夢を全面的に支えるために、最良のレッスンを受けるための資金を自分が出していた。

 アンゲリカに向けられた愛情は、彼女の実母である総統の異母姉より叔父である我らが総統の方が、遙かに強く深いように見えた。その証拠に、先のレッスンの授業料はもちろんだが、総統はどこに行くにもアンゲリカを傍らに置いた。ベルリンやハンブルク、ライプツィヒにニュルンベルクなど、党大会や国政の活動で向かう先には必ず彼女を同行させ、自分たちのドイツが偉大な国になっていく様を間近に見せていたことからも分かるだろう。

 ただ、当時アンゲリカはまだ20歳になるかならないかという娘であったから、政治の話など上の空で聞いていたのも事実だった。

 かといって叔父と一緒にいることを嫌がる様子はどこにもなかった。それどころか、若い娘らしくショッピングが大好きだったのに、装飾品となると叔父から贈られた金の鉤十字以外のものを身につけていたのを見たことがない。そのことを考えても、彼女もまた偉大な叔父を敬愛していたのは間違いない。

 確かに彼女は気まぐれで、向こう見ずで、決してお上品とは言えない人間ではあった。

 しかし、好悪にかかわらず、彼女のことを無視できる人間はいなかった。それは、ドイツの未来に光を照らすアドルフ・ヒトラーの姪だからというだけではなく、アンゲリカ・ラウバルには不思議な魅力が、我々を刺激してやまない磁力のようなものがあった。

 そして、この魅力の虜になったのは総統閣下だけではなかった。

 総統は知らなかったが、アンゲリカは歌手の夢とは別に違う未来も思い描いていた。

 常に姪と一緒か、一緒にいることができなければ護衛をアンゲリカに同行させ、彼女の行動すべてを掴んでいたはずの総統だったが、自分の信頼する運転手と友人以上の関係を結んでいると知った時の驚愕は筆舌に尽くし難いものだったようだ。

 当時総統の専属運転手であったエミール・モーリスはナチ党の最古参党員の一人であり、また総統の『わが闘争』でも言及されているほど重要な人物であり、そして総統とは互いに「Du(きみ)」と呼び合うほど信頼関係を築いていた。

 また総統は、普段から我々部下に対して結婚を奨励していたが、特にモーリスには、

「お前がどんな女性を射止めるか楽しみにしてるぞ。そして、結婚したら毎日でも食事しに行くからな」

 と冗談を言いながら彼の幸福を祈っていたものだ。

 それほど自分に心を許していたのだ。モーリスが嬉しそうにアンゲリカと婚約したことを告げた時には、きっと我がことのように総統も喜んでくれると信じて疑わなかっただろう。

 だが、総統から返ってきたのは、彼がこれまでの友人関係で聞いたことがない悪口雑言と罵詈罵倒であり、即刻アンゲリカとの婚約を解消するよう迫る脅迫だった。

 人づてに聞いたところによれば、この時の総統についてモーリスは、「本気でアドルフに殺されるかと思った」と語るほど恐怖したという。

 結局、アンゲリカとモーリスの関係は破綻したが、万が一そのまま関係が続いていても二人の関係が無事成就していたとはとうてい思えない。

 モーリスとの関係が破れたアンゲリカは、しばらくは実らなかった恋を嘆き、恋路を邪魔した人間たちを呪って泣いて暮らしていたが、涙の跡が消えるや否や、次の恋に夢中になっていたからだ。

 総統は、彼女が自分以外の男に夢中になることを許さなかった。オーストリアの画家と交際した時など、姉と結託して別れさせたほどだった。

 だが、これほど強い束縛がシュトラッサーたち政敵にとって、格好の攻撃材料と見られ、

「ヒトラーと彼の姪はいかがわしい関係にある」

 という噂を立てられることになるが、総統は他人の思惑など知ったことではなかった。

 私にとっても噂の真偽は、どうでもよかった。 

 総統はアンゲリカとすべてを共にし、彼女を守ることが彼の、可愛い姪に対する愛情であると信じて疑わなかったし、総統のその願いを実現して差し上げることが私の使命だった。

 

 しかし、そのしらせは突然にやって来た。

 アンゲリカが亡くなったのを知ったのは、ニュルンベルクで予定されていた幹部会の会場でだった。

 その時私は、席の準備やホテルに到着した幹部連の出迎えなど忙しくしていたが、上司の一人が血相抱えて私たちのところにやって来ると、総統の予定が急に変更になったことを伝えた。

 そして、

「どうも、アンゲリカが死んだらしい」

 と小声で続けた。

 総統がアンゲリカの異変を伝えられたのは、ニュルンベルクに向かっている道中で、すぐにミュンヘンに戻ったものの、ミュンヘンで待っていたのは生気を失ったアンゲリカの亡骸だった。

 ドイツの風雲児として頭角を現していた総統の姪の死は、耳聡いブン屋どもに嗅ぎつけられ、新聞記事になった。また、ヒトラーがアンゲリカを殺したのだ、いや、彼女は叔父の支配から逃れるために死を選んだんだとか、身勝手な噂も駆け巡った。

 だが、口さがない連中の言葉以上に、総統を傷つけたのはやはりアンゲリカの死だった。

 彼女を失った哀しみと絶望で、総統は自らも死を選ぶのではないかと皆が心配した。側近たちが総統の拳銃を隠したり、新聞にアンゲリカの記事を書くのをやめさせたりと、必死の努力を惜しまなかった。

 その後アンゲリカの遺体は、生まれ育ったオーストリアに運ばれ、埋葬された。葬儀にはレームやヒムラーなど、ナチ党の幹部たちが立ち会ったが、総統はオーストリアへの入国を禁じられていたため、葬儀には参列できなかった。

 しかしその日の深夜、総統を車に乗せて私たちはオーストリアに入っていた。もちろん、秘密裏にである。

 そして、まっすぐウィーンのアンゲリカの墓に向かった。

 総統がアンゲリカの墓と向き合っている間、私は月明かりの頼りない中を、サイドミラーでこっそり総統の様子を眺めていた。

 声を上げることも、肩を震わせることもなく、ただぼんやり墓を見つめていた。時折、口元が小さく動くこともあったが、何を呟いているかはわからない。

 随分そこにいた気もしたが、気付いた時には総統は車に戻ってきていた。

「じゃあ、帰ろうか」

 それは、威厳と優しさの籠もったいつもの総統の声だった。

 ドイツに戻ってからの総統は、アンゲリカの死を乗り越えたことで一層力強さを増したように見えた。

 精力的にドイツの未来を語り、世界を語った。

 もう何も迷いなど見えないようだった。

 しかし、一点だけ変わったことがあった。

 その後、総統が肉を食べることは一切なかった。

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唇にダイナマイト 栗原菱秀 @lacasa_ryousyuu

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