羅針盤は心を指した

岸亜里沙

羅針盤は心を指した

黄昏時、さざ波の音も穏やかで、海岸沿いには緩やかな風が吹いていた。

タクシーの運転席に座って水平線を眺めながら、樋口ひぐち一葉かずははラジオから微かに流れるハワイアンミュージックを聞いていると、一人の男性が近づいて来るのが見え、後部座席のドアを開ける。

「どちらまで?」

運転席から振り返り、樋口が聞く。

「あの・・・・・・、すみませんが、東京駅まで行けますか?」

男性が申し訳なさそうに言う。

「えっ?東京駅ですか?」

樋口は驚く。

「さすがに・・・遠いですよね。無理なら他のタクシーとかで行きますから、言ってください」

男性は苦笑しながら頭を掻いた。

「いえ、大丈夫ですけど、ただ料金が9万円近くかかると思いますよ」

浜松市のタクシー会社に勤める樋口は、どんなに長距離のお客でも熱海市までしか乗せた事はなかった。東京まで依頼してきた人は初めてだ。

「お金は払いますから、お願い出来ますか?先払いでも構わないので」

男性が財布から紙幣を取り出そうとしたので、樋口は笑いながら首を振る。

「到着してからで大丈夫ですよ。ただ私も東京まで運転した事は無いので、迷子になっちゃったらゴメンなさい」

樋口が冗談を言うと、男性も笑う。

「じゃあ出発しますね」


夕闇が徐々に勢いを増し、道往く車のヘッドライトが街を染めていく。

バックミラー越しに男性の方を見ると、窓の外の流れる景色を眺めていた。

少し明るめの毛色に軽いパーマをかけた髪、高級なスーツに身を包んでいるが、小動物の様に愛くるしく優しい目鼻立ち。

一見すると芸能人かと勘違いする程。

まるでドラマかのようなシチュエーションに、樋口もこの車内が現実ではないような感覚に陥る。

樋口は視線を前方に戻すと、男性が急に声をかけてきた。

「突然、こんな無茶なお願いをしてしまって、すみません。東京までって言われて驚きましたよね?」

「この仕事をしていて、初めてです。だけど、今日はお客さんも少なくて、どうせ暇でしたし。私も運転は好きなので、全然苦じゃないですよ」

樋口は明るく話す。

「でも、どうしてわざわざタクシーで東京駅まで行かれるんですか?新幹線とか使われた方が、タクシーを使うよりも、安くて断然速いのに・・・」

またバックミラーで男性を見ながら、樋口は率直な疑問を投げかける。

男性もバックミラーに映る樋口を見て、微笑む。

「実は自分、電車とか飛行機が苦手でして。車じゃないと移動出来ないんですよ」

「凄い素敵なスーツを着てらっしゃるので、お仕事で海外とか、たくさん行かれてるのかと勝手に思っちゃってました。東京へはお仕事で行かれるんですか?」

樋口がたずねると、男性は含羞はにかみながら答えた。

「実は、好きな人に会いたくて。自分の一目惚れなんですがね」

こんな素敵な男性が好きになる女性ひとってどんな女性ひとなんだろうと樋口は考える。

それからも東京までの道中、男性は色々な話をしてきました。好きなアーティストの話では、樋口も一緒に盛り上がり、男性の趣味の登山の話を興味深く聞いていたり。

途中立ち寄ったサービスエリアでは、男性がカフェラテを買ってきてくれて、端から見れば、それはまるでカップルがドライブしているかのよう。


3時間以上の道程みちのりだったが、ワープをしたかのようにあっという間に時間は過ぎ去る。東京に近づくにつれ、夜のとばりが下りる中、まるでサーカスかのような都会の喧騒の渦に、樋口が運転するタクシーは紛れ込んでいく。

「そろそろ到着しますよ」

樋口が男性に伝える。

「このような長距離を運転してくださって、本当に感謝しています」

「いえ、これが仕事ですから。それに私もお客様とお話し出来て、楽しかったです」

バックミラー越しに男性を見ると、またぼんやりと外の景色を眺めていた。

でもその表情が妙に切なそうな事に、樋口は違和感を覚えた。好きな人に会えるというのに、どうしてだろうと。

「着きました。東京駅です」

樋口が男性に伝える。

「本当にありがとうございます。自分の我が儘を聞いていただいて、感謝しかありません」

そう言って男性はお金を支払う。

「長時間のご乗車お疲れ様でした。好きな女性ひとに早く会えるといいですね」

樋口が微笑みながら言うと、男性も笑う。

「ええ。もう会えました」

「えっ?どこに居るんですか?」

樋口は辺りを見渡す。

「いえ、自分が本当に一緒に居たかったのは、運転手さん、あなたです。すみません。本当は浜松駅まで乗せてもらおうかと思ったのですが、タクシーに乗った時、あなたに一目惚れしてしまって、暫く一緒に居たかったので、咄嗟とっさに東京駅までって嘘をついてしまいました」

男性の唐突な告白に、樋口は言葉を失いつつも、頬を赤らめる。

「じゃあ自分は、これで。またいつかあなたに、お会い出来たら嬉しいです」

ドアを開け、男性はタクシーを降りようとしたが、樋口が声をかけた。

「ちょっと待ってください。この後はどうするんですか?」

「電車でゆっくり浜松へ帰りますよ」

「ふふ。電車嫌いって言ってたのに?いいわ。また乗って。帰りはもっとあなたの事を聞かせてもらうから」





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羅針盤は心を指した 岸亜里沙 @kishiarisa

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