第四話「別の仕事」

彼女の思考は混乱で渦巻いていたが、それに浸っている時間はなかった。瑠奈は手をわずかに震わせながら、お金を封筒に戻した。彼女はエンジンをかけ、電気モーターの柔らかい音が静寂を満たした。車を運転しながら、彼女の心は急き立てられ、あの夜の出来事が何度も思い出された。銃を持った少年、名刺を持った少女、遠くで爆発するジープ。どれも意味不明だった。彼女は頭を整理する必要があった。瑠奈はタクシーを橋から遠ざけ、集落の静かな場所に向かった。そこはいつも薄暗く、話し声も小さかった。そこは考え事をしたり、必要なら姿を消したりできるような場所だった。彼女がその質素な建物の前に車を停めるまで、そう時間はかからなかった。ドアの上の看板がわずかに点滅し、集落の一部でまだ機能している古い技術を思い出させた。


瑠奈はタクシーを停めて外に出ると、封筒をコートのポケットにしっかりとしまった。外の空気はひんやりとしていて、重力が低いため、彼女の動きはいつもより軽く感じられた。お茶屋に入ると、お茶を淹れる香りと静かな話し声が彼女を迎えた。遅い時間だったので、他の客は数人しかおらず、小さな木のテーブルに座っていた。疲れた顔の男がカウンターの後ろに立ち、雑巾でカップを拭いていた。瑠奈は壁に背を向けて座り、部屋を眺めることができる角のテーブルに向かった。先ほどの出来事の後、彼女は安心したかった。明るい目をした若い女性に手を振り、いつもの緑茶を注文した。


待っている間、彼女は春人と香音のことを思い出していた。彼らはいったい何者なのだろう?そして、彼女はいったい何に巻き込まれたのだろう?少女は 「秘書」と言っていたが、瑠奈はそんな肩書きの人物を聞いたことがなかった。しかし、その名前には重みがあり、何か重要な意味があるようだった。瑠奈はかのんからもらった名刺を取り出し、手に取った。シンプルで上品な名刺だった。印刷されているのは電話番号と、紋章のような複雑なデザインの小さなエンブレムだけだった。彼女はその紋章に見覚えがなかったが、公的なものであることはわかった。何かの組織なのだろうか?シンジケート?そのような団体が活動しているという噂は聞いたことがあったが、まさか自分がそのような団体に出くわすとは思ってもみなかった。


お茶が運ばれてきて、瑠奈は一口飲んだ。熱い液体が喉を通るとき、少し熱くなった。紅茶は彼女の心を落ち着かせたが、ほんの少しだった。彼女はこれまでこのようなことに巻き込まれたことはなかったし、銃を持った人や不可解な警告を記した名刺を持った人からお金を受け取ったこともなかった。もし彼らが戻ってきたら?これがもっと大きなことの始まりだったら?瑠奈はとりあえずその考えを押しとどめた。彼女には答えもなければ、それを得る方法もない。彼女にできることは、ただ待つことだけだった。お金は十分に本物だったし、二人の逃亡者(彼らが誰であろうと)は疑問だけを残して夜の闇に消えていった。瑠奈はカップを見つめて、まだ心がざわざわしているとき、あることに気がついた。あの二人が何から逃げているにせよ、好むと好まざるとにかかわらず、彼女もその一員なのだ。そして心の奥底では、物事が二度と同じようにならないことを知っていた。彼女はお茶を飲み終え、勘定を済ませ、タクシーに戻った。


帰りの車の中で、彼女は春人と香音のこと、彼らの謎めいた警告のこと、そしてコートの中にしまったままの封筒の重さに思いを馳せた。しかし、そのことを長く考えているわけにはいかなかった。朝が近づくにつれ、彼女のもうひとつの仕事、つまり別の種類の正確さが要求される仕事が始まったのだ。瑠奈の第二の人生、昼間の生活もタクシーの夜勤と同じくらい重要だった。彼女は数十年前に月に移植された日本の貴族階級の名残である家族家の大邸宅でメイドとして働いていた。そこでの彼女の日々は厳格で、伝統に支配され、かぞくが固執する鋭く、曲げられないヒエラルキーに支配されていた。夜の仕事が生き残るためのものなら、昼の仕事は規律を守るためのものだった。


夜が明けると、瑠奈はタクシーをガレージの静かな一角に停め、小さなアパートへと歩いた。華族邸での勤務が始まるまで、彼女には数時間しか休息時間がなかった。彼女のアパートはベッドと簡易キッチンがあるだけの質素なものだったが、それで十分だった。手早くシャワーを浴び、メイド服を着た。地味な黒いワンピースに白いエプロン。変身は完了した。彼女が再び外に出る頃には、命がけの追跡から逃れたばかりの女性の姿はなく、効率的で物静かなメイドに変わっていた。かぞくの屋敷は集落のはずれにあり、その建築様式は伝統的な日本のデザインと、月によくある洗練された金属建築が融合したものだった。敷地は広大で、丁寧に手入れされた庭園や鯉の泳ぐ池が人工的な月の太陽の下で輝いていた。邸宅そのものも、障子戸や未来的なセキュリティ・システムなど、新旧が融合した驚嘆すべきデザインだった。


瑠奈が到着したのは、ドームの上空が人工的な光に照らされ、地球の朝を思わせる柔らかな青色に変わった頃だった。彼女はすでに一日の重みを感じていた。家族邸での日課が彼女を静かなリズムに引き込んでいた。しかし、何かがおかしい。いつもは穏やかで統制のとれた屋敷が、緊張でざわついていた。裏口に近づいた彼女は、目の前に広がる光景に凍りついた。暗い制服を着た数人の人物が中庭に固まって立っていた。日本の警察官だが、ただの警察官ではない。彼らは特別高等警察に所属しており、その冷酷な手法と国家に対する冷徹な忠誠心で知られている。彼らがここにいる意味はただひとつ。胸がドキドキしながら、目立たないように気をつけながら近づいていった。メイド長の石川さんは、腕を組み、いつもと変わらない穏やかな表情で対立の中心に立っていた。しかし瑠奈は石川さんのことをよく知っていた。彼女の姿勢には緊張が走り、唇は固く結ばれていた。


不機嫌そうな声が緊張した空気を切り裂いた。「彼女はここにいないのか?俺たちがそれを信じるとでも?」警官の一人、坊主頭の背の高い男が石川さんに怒鳴った。「彼女の車には逃亡者が乗っていた!あのタクシーのせいで、何十人もの兵士が死んだんだ!彼女はどこだ?


瑠奈は血の気が引いた。瑠奈は血の気が引いた。前夜の出来事、追跡、爆発……。そのすべてが彼女の脳裏によみがえった。脈拍が速くなり、本能的に一歩後ろに下がった。しかし、彼女は動けなかった。目の前で繰り広げられる光景をただ見ているだけだった。しかし石川さんは動じなかった。彼女は警官の視線を鋭く、揺るぎない視線で受け止めた。「もうすぐ着くでしょう。怒鳴る必要はありません」と、冷静だが切れ味のある声で答えた。


もう一人、厳しい顔つきの女性が前に出て、目を細めて石川さんを上目遣いに見た。「ふざけないでください。古高瑠奈はあなたの使用人ですね?どこにいるか知っているはずだ。ふざけないでください。


石川さんの唇は微かに笑みを浮かべた。「彼女は確かにこの一家の一人です。でも言ったように、彼女はすぐにここに来ます。何かもっと重要なことがない限り、私に怒鳴って時間を無駄にするのはやめたほうがいいですよ」


士官の顔が怒りでゆがんだ。「もういい!」彼女は部下にジェスチャーをしながら吠えた。「連れて行け。署できちんと事情聴取してやる」


その命令で、他の警官たちにも波紋が広がった。そのうちの2人が前に出て石川さんの両腕を掴んだ。石川さんは抵抗することなく、ただ冷たい軽蔑のまなざしを彼らに向け、待機している車のほうへ引っ張り始めた。瑠奈は恐怖のあまり、体が凍りつき、心は逃げろと叫んでいた。しかし彼女は動けず、声も出せなかった。もしここにいることがバレたら、その場で逮捕されてしまう。彼女は特別高等警察の能力を目の当たりにしてきた。


彼女の脳裏には、あの暗くて極寒の部屋がよみがえった。息苦しい空気、頭上で揺れる取り調べ用のランプのまぶしい光。執拗な質問。持っていない情報を詰め寄る警官たちの残酷な笑み。そして隣の部屋から聞こえる母親の叫び声が、薄い壁にこだました。瑠奈は頭を振って記憶を遠ざけようとしたが、その記憶は彼女を引きずり込もうとした。もう二度とあのような目には遭いたくない、どんなことをしてでも彼らの手の届かないところにいようと心に誓っていた。しかし今、彼女はここにいる。一瞬にして彼女の人生を破壊しかねない警官たちのすぐ近くに立っている。彼女には見せられない。今だけは。すべてが危険にさらされている今だけは。


瑠奈は建物の角にしゃがみこみ、石川さんが連れて行かれるのを見ながら息を浅くした。石川さんが連れて行かれるのを見ながら、瑠奈は浅い息をついた。一瞬目が合い、瑠奈は罪悪感に駆られた。しかし、石川さんはかろうじてうなずき、まるで隠れていなさい、安全でいなさいと言っているようだった。警官たちは石川さんを車に引きずり込み、その動きは乱暴だったが、石川さんは抵抗しなかった。後部座席に押し込まれ、ドアをバタンと閉められても、石川さんの表情は落ち着いていた。それは瑠奈がよく知っている表情だった。生き残るための代償を理解している人の表情だった。警察車両が走り去ると、瑠奈の膝はガクガクと音を立て、心臓が高鳴ったまま地面に沈んだ。かろうじて難を逃れたものの、これで終わりではないことはわかっていた。特別高等警察は彼女を見つけるまでやめないだろう。彼らは彼女の名前を知っていた。彼女の車も知っていた。そして今、彼らは彼女の人生を、仕事を、世界を、彼女を捕らえるまで切り裂くだろう。瑠奈は眉間の冷や汗を拭った。ここにいてはいけない。彼らに捕まるわけにはいかない。でもどこへ行けばいいのか?月は狭いし、彼らはすべての出口、すべての移動手段を見張っている。逃げるという選択肢はなかった。

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極夜~白きワシの革命~ 長谷川吹雪 @soviet1917novel

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