第三話「タクシードライバーの瑠奈」

古高瑠奈は、月の夜が終わりなく厳しいことを長い間生きて知っていた。昼間は、中央ドームに位置する壮大な屋敷でメイドとして働き、夜になると、タクシーを走らせ、ドームや鉱山の集落を行き交う乗客を運んでいた。昼と夜、二つの顔は見事に交わらなかった。昼の雇い主は彼女の夜の仕事を知らず、乗客たちも彼女が日中、床を磨き、窓を拭くことを想像することはなかった。その夜も、他の夜と何ら変わりなかった。瑠奈はシフトを終えようと、低重力の瑠奈・ディストリクト4の通りを静かに滑るように走っていたが、薄暗い街灯の下、影の中に立つ二人組に気づいた。少年と少女、どちらも若く、みすぼらしい服装をしており、この場には不釣り合いな存在だった。


タクシーを少し緩め、瑠奈はハンドルを握る手に力を込めながら、バックミラー越しに彼らを観察した。少年の黒髪が目にかかり、彼は少女の手を引いて一歩前に出た。その動きには切迫感があり、何か焦燥感を漂わせていた。突如として、少年が手を挙げ、かすかな街灯に金属の冷たい輝きが映った。銃だ。「走れ!」少年が銃を突きつけ、恐怖とアドレナリンで瞳を見開きながら叫んだ。「今すぐ、ここを出るんだ!」


瑠奈の心臓が一瞬止まったように感じた。少年がドアを開け、少女を後部座席に半ば投げ込むようにして乗せるのを見て、彼の手に握られた銃は震えていたが、その存在感は否定できなかった。反射的に、彼女はアクセルを踏み込み、車は急発進し、エンジンが悲鳴を上げた。少年も続いて乗り込み、ドアを乱暴に閉める。彼の呼吸は荒く、乱れていた。


「もっと速く!」少年は後ろを振り返りながら声を上げた。その声には焦りが滲んでいたが、それ以上に恐ろしい何かが感じられた。バックミラーには、彼らを追ってくる三台のジープが映っていた。ヘッドライトが月の夜を切り裂くように光を放ち、その車には暗い制服を着た兵士たちが乗っていた。近い。あまりにも近い。彼女の心拍が速まり、さらにアクセルを踏み込む。タクシーは細い通りを駆け抜け、建物の合間をすり抜けていった。後ろではジープが追ってきており、エンジン音が月面の低重力の中、埃や瓦礫を巻き上げながら鳴り響いていた。少年がシートの上で身を捩り、振り返りながら叫んだ。


「追いつかれそうだ!」その声には絶望感が滲んでいた。


言葉は要らなかった。瑠奈はミラー越しに追手を見つめ、その危機感が彼女を飲み込んでいた。心の中で冷たい汗をかきながらも、動揺することなくハンドルを握り続けた。これは単なる追跡ではなかった。軍用ジープだ。捕らえるまで絶対に止まらない連中。彼らが誰で、何をしたかは問題ではなかった。今は生き延びることが全てだった。少年が再び彼女を見つめ、必死の表情で叫んだ。「ここから出してくれ。何でも払うから!ただ、あの連中から逃げ切ってくれ!」


瑠奈は応えなかった。視線は前方の道に固定され、彼女の思考は既に計算を始めていた。この街は迷路のようだが、彼女は熟知していた。冷静さを保たなければ終わりだ。バックミラーをちらりと見ると、ジープはまだそこにいた。闇の中を切り裂くようにして月面を駆けてくる。


その時、初めて少女が口を開いた。「追いつかれたら殺される……」その声はか細く、しかし恐怖がはっきりと表れていた。瑠奈はほとんど反応を見せず、ただ一瞬頷くだけだった。彼女の頭の中では既に逃げるルートが組み立てられていた。メインの道を外れる狭い裏道があった。曲がりくねって危険だが、ここで撒くしかない。


「しっかり掴まって」瑠奈は短く言い、ハンドルを切った。タクシーは左に急旋回し、裏通りへと滑り込んだ。タイヤが路面をこすり、車体が一瞬スリップしたが、すぐにグリップを取り戻し、狭い路地を疾走した。ジープも追いかけてきており、エンジンの音はさらに大きくなった。彼女の呼吸は短く鋭くなり、狭い道を縫うように車を操った。ジープの追跡音が近づき、街の景色が次々と後ろへと流れていく。少女は後部座席で静かに泣き、頭を抱えていた。少年は銃を握り締めたまま、窓越しに外を見つめ、時折瑠奈の顔を見上げ、何かを求めているようだった。


「突然、後ろで大きな衝撃音が響いた。瑠奈はバックミラーに目をやり、ちょうどその瞬間、ジープの一台が街灯柱に激突するのを目撃した。衝撃で火花が飛び散り、車はコースを外れて横倒しになりながら滑って停止した。瑠奈の胸が高鳴った。一台は片付いた。しかし、まだ二台が迫っていた。残りのジープは猛スピードで接近してきており、バックミラーに映るヘッドライトが眩しかった。瑠奈は歯を食いしばり、震える手でハンドルを右に切った。タイヤが悲鳴を上げながら、車は角を曲がり、さらに別の路地に突っ込んだ。前方の道が二手に分かれていた。左には広大で危険な月面平原が広がり、右には古い鉄道橋へと続く曲がりくねった道があった。もし橋まで辿り着ければ、何とかなるかもしれない。


彼女は橋を選んだ。タクシーは狭い道に飛び込み、やがて鉄道橋の古びた姿が視界に入った。その橋は、かつて入植地間を結ぶ主要な交通手段だった鉄道が使用していた名残であり、今ではほとんど放棄されていた。しかし、ジープの追跡者たちはその存在を忘れてはいなかった。瑠奈が橋に向かって全速力で進む中、残りのジープは容赦なかった。一台が彼女のタクシーに並び、兵士たちが指示を叫びながら銃を構えていた。その武器の輝きを見た瞬間、瑠奈の胃が恐怖でねじれた。彼らは逃がすつもりはない。瑠奈は絶望的な気持ちで、急激に左にハンドルを切り、タクシーの側面をジープに叩きつけた。衝撃は激しく、金属同士が激しくこすれ合いながら、ジープはコースを外れ、橋の側面に激突して爆発した。


あと一台。瑠奈は勝利に浸る暇もなく、最後のジープがまだ彼女を追いかけていたが、もう少しで橋に辿り着くところだった。橋の錆びついた構造が月面に長い影を落としていた。もし橋を渡りきれば— しかし、最後のジープが動いた。瑠奈の進路を塞ぐようにスライドしてきたのだ。瑠奈の心臓は激しく脈打ち、逃げ道がないことを悟った。だが、まだ終わってはいなかった。彼女は一瞬の決断でスピードを上げ、タクシーを橋の狭い手すりに乗り上げた。タイヤが悲鳴を上げ、車体がふらついたが、何とか制御を保った。


ジープはその運に恵まれなかった。追跡しようとしたが、橋の手すりに乗り上げたところで制御を失い、橋の端から滑り落ちて暗闇に消えた。爆発音が夜空を震わせ、火の粉と破片が飛び散った。瑠奈は息を切らし、震える手でハンドルを握りしめた。全てが終わった。彼女は橋の反対側でタクシーを停め、胸の鼓動がまだ収まらない中、後部座席から少年と少女が慌ただしく降り立った。


「ここからは自分たちで行く」少年は低い声で言った。


瑠奈が反応する間もなく、少年はコートの中から小さな封筒を取り出した。彼の手は、先ほどのパニックが嘘のように落ち着き、冷静なビジネスマンのようだった。彼は封筒を差し出しながら言った。「運賃だ。」彼の暗い瞳が瑠奈をじっと見据えた。「これで全てを支払った。俺たちは必要なことをやった。次はお前の番だ。俺たちのことは誰にも話すな、いいな?」


瑠奈は喉が乾いてごくりと唾を飲み込んだ。彼の声には何か冷徹な響きがあり、ただの提案ではなく警告だと感じさせた。


「俺は和中悠斗(ワナカ・ハルト)だ」まるでその名前が特別な重みを持っているかのように彼は続けた。


少年が後退し、今度は彼の隣にいた少女が一歩前に出た。彼女はこれまでずっと黙っていたが、街灯の淡い光に照らされ、その姿が明らかになった。長い黒髪をたなびかせた細身の女性で、その動きには、常に周囲を掌握している者特有の優雅さがあった。彼女は手に、見慣れない高級そうなスマートフォンを持っており、何かを操作した後、無言で瑠奈に小さな上品なカードを手渡した。


「書記官が感謝しています。」少女は冷静で落ち着いた声で言った。その言葉と同じように彼女の表情も洗練されていた。「秋山香音(アキヤマ・カノン)です。何か困ったことがあれば、いつでも連絡を。」彼女は意味深な視線を送りながら言葉を続けた。「私たちは仲間を見捨てたりはしません」


瑠奈はカードを見つめたまま、頭の中が混乱していた。書記官?仲間?一体この人たちは何者なのか?香音は静かに礼をし、感情の読み取れない表情のまま後ろに下がった。「どうぞお元気で。」彼女がそう言うと、その言葉には何か深い意味が込められているように感じた。


瑠奈はただ頷くだけで、それ以上言葉が出なかった。この数分間の出来事に混乱と緊張が絡み合い、言葉が喉に引っかかってしまったのだ。悠斗は彼女をもう一度見つめ、薄く謎めいた笑みを浮かべた。それから、彼と香音は何も言わずに鉄道橋を渡っていき、二人の姿はすぐに月の闇に飲み込まれていった。瑠奈はしばらくその場に立ち尽くし、封筒を手に握りしめたまま、心臓の鼓動がまだ高鳴っていた。二人の姿が完全に見えなくなったとき、ようやく彼女は封筒に目を落とした。封を破る手は微かに震えており、封筒の中身を見た瞬間、息を呑んだ。中にはお金が詰まっていた。これまで見たこともないほどの大金が、きちんと折り畳まれた新しい紙幣が、封筒いっぱいに詰まっていた。それはタクシー料金としては到底考えられない額であり、通常の運賃の十倍はあっただろう。これで新しいタクシーを買うこともできるし、他にも色々できるだろう。一瞬、彼女はただそのお金を見つめ、目眩のような感覚に襲われた。月面でタクシーを運転して生活費を稼いでいたが、こんなことは一度もなかった。これは危険なお金だ。目には見えない何かがついているに違いない。

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