咲きし時

香川ルナ

第1話 蝉

七月中旬

何処からともなく現れた蝉達が自身の存在をアピールするように鳴き始める。


「夏は嫌いだ」


小さく呟いたその声は、夏の暑さをうたうセミ達によって掻き消された。

今年から大学生になった杉田蘭丸すぎた らんまるは、特に理由もなく授業を休み、目的もなく昼過ぎの町を歩いていた。

真上を通る電車の音が。すれ違う人のイヤホンから漏れる微かな音が。そして目にかかるほどの前髪から滴り落ちる汗の一粒一粒までもが、何もしていない蘭丸を嘲笑うかのように感じた。

黒色のビニール袋を手首にぶら下げ引きずられるように足を進める。

蝉がやかましく鳴いている。


淡い橙色の生暖かい風が、よれた白いTシャツを揺らす。


「蘭丸!」


家を飛び出す前の全身を貫く母の怒声が脳内を駆け巡る。どこにも居場所がない蘭丸は自然ととある場所へと逃げるように足を動かしていた。

閑静な住宅街を少し抜けた先にポツンと佇む無人の駅、この世界の何をかもを優しく受けいれてくれるような、全てを突き放すようなどこか悲しい顔をした無人の駅。

鵯駅ひよどりえき

今どき珍しい木造の駅で、全体的にペンキが剥がれ落ち、濃赤色に彩られていたであろう本来の姿を失い、白くくすんだ外観になっている。

電車は一時間に一本、乗降人も少なくまるで別世界から切り取ったかのような静けさを生んでいた。

蘭丸にとってここは身も心も預けられる安寧の地であった。


改札を抜け一番人通りの少ないホームの奥へと進む。その先にある日に焼けてボロくなった二人用のベンチに腰をかけ、ビニール袋から一冊の本を取り出す。

文字とは救いの神であった。日々のストレスをその一瞬記憶から奪い取り、咀嚼した後また同じ形になって戻ってくる。そんなたった一瞬の快楽を、没頭を、空間を与えてくれる。

蝉の鳴き声をも置き去りに蘭丸は文字の世界に吸い込まれていった。


「悪路」

著:山中雅紀


花とは悪である。

人々に生を望まれこの世に生まれ落ち。

最盛期に人々を魅了し拐かす。

そして人々に惜しまれこの世を去る。

哀しみとは悪である。

望まずとも平等に訪れ、腹の底に永遠に住み着く。

他の哀しみを生み出し、時に人はそれを悦ぶ。

それらは必ず悪だろう

.........................................................


蘭丸の目の前を下りの電車が通り過ぎた。あたりの暗さから察するにこれで五回目だろうか。

天井から吊るされた時計に視線を移した。ボロくなったこの駅には少し違和感のあるデジタルの時計だ。

17:04


「......っ」


声にならない音が漏れる。

飲み込まれるような暗さに不安が掻き立てられる。日が沈んだからでは無い。子供がクレヨンで塗りつぶしたような純粋な黒。

蝉の声が微かに響き渡る。


足の震えが止まらない、動悸が荒くなる、視界が誰かに鷲掴みされたかのように歪む。


「これは夢だ」


自己暗示するように呟き、強く瞼を閉じこの悪夢が終わることを祈りながらそっと瞼を開く。

その瞬間信じられない光景が広がった。

辺り一面にびっしりと花が咲いていたのだ。

満面の笑みで咲く花は目が痛くなるほどに黄色く光り、それは空の黒さをあっという間に侵食してゆく。

心地良さと恐怖と、ぐちゃぐちゃの感情が入り交じった言葉にしようのない気持ち悪さが纏わりついた。

黄色に奪われた視界が帰ってこない。

蘭丸は眠るように倒れた。

全ての音が消え去る。

蝉の声はもう聞こえない。


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咲きし時 香川ルナ @Kakawa_luna

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