62話

「……て、おい。心雨?」



確認するように名前を呼ぶと、その子はまぶたを持ち上げた。相変わらず化粧っ気はないのに、長いまつ毛と吸い込まれそうな瞳と出会えば、途端に彼女はとろんとした笑顔を浮かべる。


三年振りに会ったというのに、その笑顔は正直反則だ。



「あれ〜……?和泉さんだ。おかえりなさぁい」



さらに、色々とツッコミどころ満載ときた。


いやいや、いやいやいやいや、ちょっと待て。


そんなふうに、とろける笑顔を浮かべる子だった?


毎回、警戒心剥き出しで、威嚇してくる猫みたいな女の子だったよね?


大学ではそんなぽやんぽやんなキャラで通ってんの君は。


そんな無防備な隙を、男に見せてんの?



とりあえず大きなため息を吐き出し中座りになれば、心雨はベンチの上にちょこんと座った。


「……お前何してんの」


「なに?……何って……何しているんでしょうね?」


「……酔っぱらい……」


酒臭いし、頬も赤い。聞きたいことは山ほどあるけれど、この状態の心雨に聞いても、明確な答えは期待できない。



「和泉さん、またお兄ちゃんと遊ぶんですか?」


「ちがう。心雨、立てる?お前ん家どこ」


「おうちはここです〜。これがベッドです〜」


「……ちがう。とりあえず俺ん家つれてくよ」


「はあい」


腕を引くと、心雨はよろめきながらも、素直に俺に立ち上がってくれた。


一本一本、芯が通っているかのように揺れる髪の毛に目を奪われていると、直後、やわらかな花の香りがした。


俺ん家って、大丈夫か……俺。


色々と無理な気がするけれど、一度やらかして嫌われた過去があるので、我慢する。


……多分。ダメ、絶対。


「和泉さん、わたしですねえ、聞いてくださいよ」



理性と本能が大喧嘩している俺のことなんか知らないのだろう、心雨は甘ったるくてやわらかい声を聞かせる。


「はい、なんでしょうか」


「わたし、つかえなくて、めんどくさいらしいですよぉ、めんどい女あおいみうです!」


「あほか」


「あほってなんですか。でも、そういえば、和泉さんくらいですもんねえ、わたしの趣味に付き合ってくれたのも、ばかにしなかったのも」


「そうだっけ。そうだったかもな」


「めんどくさい事、嫌いなくせにですねえ〜」


へらっとして笑う心雨は、なんとも呑気なものだ。


心雨は俺の趣味や好みを更新させる達人だ。


俺、別に好きじゃなかったんだよね。心雨が好きなマイナーなバンドが出るからってフェスとか行く気なかったけど、心雨に合わせてそのバンドのアルバムを無限ループさせてるうちに勝手にお気に入りのバンドになるのだから、超困るのだ。


「俺はお利口で何の問題のない女よりも、ちょっとくらい面倒な女の方が好き」


どうせ今の心雨に言っても伝わらない。そう思い込んで居ると「和泉さん、昔から思ってたけど、意外とMですね」と、予想外の返事が来るので、イラッとして無視をする。やっぱりこいつは酔っぱらいだ。


帰りついたマンションにて、酔っぱらいの心雨は俺をさらに驚かせた。


「あ!わたしのおうち、ここですよ」


心雨は俺の隣の部屋を指さすので「……は?ここ?」と、目を白黒とさせた。同時に、友人の企みに気づく。


「和泉さん、知ってたんじゃないですかあ!」


俺じゃなくて、知っていたのはキミのお兄ちゃんね?


これは言いかけてやめた。やめることにした。


しかし、まったく理解していなければ、IQが小学生レベルの心雨は満面の笑みだ。


「どうぞ上がってください。お兄ちゃんはいませんけどねえ」


「今日のとこは帰るわ」


「えぇ!?和泉さん、帰っちゃうんですか……?」


思考回路は幼くても、顔立ちはしっかりと大人の心雨が熱に濡れた瞳で見上げる。


……堪えろ、和泉藍。


こころに棲みつくケダモノを飼い慣らし、大人ぶった俺は、紳士的な仮面を被って、どうにか捕まえたいと昂る感情を抑えて、彼女の髪を一度だけ撫でた。



「またすぐに会えるよ」



その時は、もう逃がさないから。


──覚悟してなよ、心雨。

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初恋が隣に越してきました【完】 咲坂ゆあ @yua121sksk

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