第4話 名もなき墓標(4)

 ――どうもうまくいかない。

 桐生は息を吐いた。究極のリモート勤務とはいえ、そのリモートで共有しているスペースの判事室から出ることがない調べ物仕事は流石にしんどくなってきた。

「ちょっと出てきます」

 判事はどうぞー、と手をヒラヒラさせているが、その視線は何かにやったままだ。チラリと見ると本を読んでいるようだ。

 なんの本だろう。判事の読書はいつもながらよくわからない。前に読んでたのは「フィールド図鑑 コケ」井上浩 東海大学1986年だった。なぜコケ? それも20世紀の? と合点がいかなかった。その前は「新宿駅西口広場」新宿駅西口広場建設記録刊行会 鹿島出版会2017年だった。今は22世紀なのになぜ100年以上前の新宿の再開発? と思ったが、これも判事は説明してくれなかった。この忙しいのに関係ない本読んでるのかな、とイラッとする気持ちもあるが、判事の口癖は「本を読んでそれを覚えてるうちはまだまだ」というものなのだ。判事の読書は何かのマンガにあった「貴様は食べたパンの枚数を覚えているのか?」というほどに近いほどの乱読ぶりでとにかく大量に読む。電子本がほとんどなのだがその乱読でしかも片付け苦手ときてるから当然散らかりまくる。それを片付けるのは桐生とシリウスの仕事であるので気が遠くなる。

 桐生はそう思いながらこの横浜初等情報審判院の建物の外に出た。建物はこの横浜関内地区の古くからの建物に合わせたベージュ色の石造りの重厚な建物である。入口の審判院の看板は今どきにしては珍しく毛筆で揮毫された文字である。揮毫できる政治家は本当に少なくなった。ほとんどの官庁はデジタルフォントの看板であるが、この揮毫された審判院の文字を見た判事は「どうも細くて弱っちい字よね」と感想を言っていた。だがそのとき判事の着任式に来た神奈川県知事が判事の隣にいた。苦笑する県知事に判事はようやくその揮毫が彼のものであることに気付き「すみません……」といかにもバツ悪そうに謝ったのだった。「まあ、俺も正直そう思うけどな」と県知事は笑っていたのでその場は助かったのだが、判事のこういうところが仙台地裁からトバされた理由の一つだろうか、と桐生は思う。ほんと、判事は思ってることが口からそのまま出ることがあって、この人判事として大丈夫なんだろうか?と思うことがよくある。

 表に歩いて出なくてもこの論理没入世界では自在にアドレスを選択すれば一瞬でどこにでも出られる。横浜から札幌だろうが、ロンドンだろうがアルゼンチン、さらに火星基地でさえも一瞬で意識を転送できる。でも桐生は転送ではなく歩いて建物の外に出た。歩くこともまたこの論理没入世界上での処理に過ぎないのだが、桐生はそれがしたかった。複雑で理解し難い論理世界だけど、だからこそ普通の物理世界で行うようなことに「飢える」ことがあるのだ。

 それは人間だからなのだろうか。桐生はそう思って振り返るとシリウスが空中に浮かんで着いてきている。シリウスの姿は大昔の武装少女キャラクターの姿である。趣味的だが趣味の何が悪い、と桐生はいつも思っている。



 桐生は空中にセレクタを呼び出し、まず迅雷さんの亡くなった場所に向かうことにした。とは言っても肉体が不可逆に破損して死んだ場所はボディーセンターであって論理世界とは実は関係がないのだが、それでも桐生は思ったのだ。迅雷さんが何を思って命を自分で絶ったんだろうか、その時何を見たのだろうか、と思ったのである。実際見られるとは思わないけれど、同じ論理空間で調べ物するならせっかくだから被害者に関係のある空間でやろうと思ったのだ。



 迅雷さんの作って持っていたスペースは論理距離がそれほど遠くないところにあるようだった。迅雷さんの遺族がそこを閉鎖する可能性も考えたが、どうやらそうはしていなかったようだ。

 むしろそこに死を惜しんだファンが何人も訪れていて、献花台に捧げた花束が山になっていた。さすが累計5000万部だなと実感する。その訪れるファンに話を聞こうかと思ったが、彼ら彼女らの鎮痛な表情を見ていると、とてもそうはできなかった。

 迅雷さんがファンとの交流に用意していたそのスペースは瀟洒な四阿のある庭園を持つ洋館の屋敷だった。ガーデンパーティのようにファンが集って論理オブジェクトではあるが飲み物や食べ物を楽しみつつ交流できる空間なのだ。いまどきのマンガ家はファンコミュニティを大事にする。かつてはそれを事務所のスタッフに任せたりしている大先生もいたが、若いマンガ家は自分でそれを運営することが多いようだ。かつてのYouTuberやVtuberなどと近いスタンスなのだろう。

 庭園には迅雷さんのキャラクターの像が置かれていて、それと一緒に収まるスクリーンショットを撮るファンもまだいる。

 だが、もうそのファンが愛した迅雷さんの作品のキャラクターはもう新たな冒険にも出ないし、迅雷さんの物語の新作はもう出ないのだ。


 なんとも悲しいものだな、と桐生は思ったのだが、そのキャラクター像を見て、その可愛らしさにさらに胸が締め付けられた。

 迅雷さん、この愛したキャラの未来も閉ざしてしまったんだ……。


 そんな残酷なことがなぜ迅雷さんにできたのだろう。思い出すと迅雷さんのSNSログには「隼人さえ生き残れれば私なんかいつ死んでもいいんだけどなあ」というのがあった。

 隼人とは迅雷さんのマンガの主人公キャラで、分析によれば迅雷さんの「なりたい自分」の姿の投影だったと思う。隼人はノビノビと活躍してそれが魅力で人気のあるキャラクターだ。恐らく、もっと言えばいろいろと障害を抱え自由が利かない迅雷さんの生きる希望そのものだったのだろう。

 その心から愛したキャラクターの将来を、未来を、可能性を閉ざすなんてことがなぜ迅雷さんにできたのだろう。

 理解は進んだが、そのせいでどうも合点のいかないことがかえって増えてしまった。これをどう判事に報告したら良いのだろうと思案しながら桐生は四阿に座った。こんなセンスの良いところをつくれる人を失った辛さ。桐生はそれをかみしめた。こういうところ、情報審判院調査官の桐生が他のもっと露骨な事件を扱う一般裁判所の調査官と根本的に違うところかもしれない。

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ポットダイバー ヒキコモリ情報審判調査官の没入世界事件簿 米田淳一 @yoneden

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