あいている
鈴木 正秋
「あいている」
彼女は平仮名で書かれた手紙だけを残し、僕の側から離れていった。ワンルームの部屋がいつもより多く空気を含んでいる。風の発生源はないはずなのに、冷たい風が弱々しく吹いている気がする。
俺はそんな空虚な一室で、背中を壁に預けた。真っ白な壁の向こうにある鉄骨の冷たさを感じた気がして、俺の体温が少し奪う。もう俺の心を癒してくれる三十六度余りの温もりはどこにもないのだ。
「あいている」
彼女が残したメモをぼんやりと眺める。メモの向こう側で天井の電球が瞬きをする。そういえば数日前に彼女が電球の替え時であると教えてくれていた。
そんなことを思い出して、目頭が熱くなる。
「相手いる」
彼女が残したメモはこのような意味を持つのだろうか。俺と付き合う中で、もしくは付き合う前に好きな人が別にいて、俺を置いて消えてしまったのだろうか。
ぐるりと心臓にとぐろを巻かれたような苦しさに襲われた。自分の脳裏に浮かんでしまったことを深く想像して、じわじわと苦しさが増していく。
よく思い返してみれば、そうだった。彼女が消えてしまった当日の朝、彼女の表情はいつもよりもすっきりしていた。
どこか憑き物が取れたような、何かを諦めてしまったような、そんな表情を。
俺は平仮名で書かれたメモを見たくなくて、瞼を閉じた。瞼の向こう側では、寿命が近い電球がそれでも懸命に部屋を照らしている。その光さえ鬱陶しくて、俺は右腕で閉じている瞼を覆った。
体内に取り込まれている空気を吐き出す。意識的に呼吸をすることで、頭が冴える。考えがまとまる。
その上、瞼と右腕が現実から逃避させてくれたおかげで、少し思考力が戻った気がした。
「あいている」
この言葉を「相手いる」以外の言葉で捉えることができるだろうか。
例えばだ。
「飽いている」
俺との関係に飽いている。つまり飽きているということだ。マイナス思考ではあるけど、候補として考えてもいいだろう。
「空いている」
本当は真っ先に思いついた変換させた言葉であったが、意味がわからないため、除外した。
「開いている」
これもよくわからない。何かが開いていたとしても、メモに書き残して、消えてしまった意味がわからない。
「アイテイル」
片仮名に変換しても同じだ。
意味がわからない。
思考力が戻ってきたとしても、その意味はわからない。真っ暗な視界の中で、様々な候補を出しては、却下する。
別れるとしても、ちゃんと理解したい。
彼女のことを。いや紗希のことを。
ピンポーン
俺の部屋のインターフォンが甲高い音を鳴らした。真っ暗な視界であるため、聴覚が冴えており、少しノイズが混じっていることに気がつくことができた。
右腕と瞼を退かして、視界をクリアにして、俺はインターフォンの方へと向かった。考え事をしている時に誰が何の何の用だ、と思いながら、インターフォンの画面を睨みつけるとそこには白髪混じりの男性と女性が立っていた。
俺はこの二人を知っている。
「はい」
震える声で俺が応答すると、画面の向こうの二人はバァッと笑みを浮かべた。そして、女性の方が画面に近づいて、「ああ良かった」と呟いた。
「紗希の母です。あなたのお母さんからあなたが仕事にも行けてないって聞いて、心配で」
母さんから話を聞いたのか。けど、何でこの人たちが俺のところに来たのかはわからない。
確かに紗希は実家暮らしで、遊びに行くついでにご両親にも挨拶をしたことが何度かある。だけど、彼女は消えてしまったのに、俺の元に紗希のご両親が来たのかはやはりわからない。
「ご心配かけてすみません。職場には無理を言って、お休みをいただいております。なので、ご心配には及びません」
そう、と紗希の母親は呟くと、俯いてしまった。何故、そんなにも悲しい顔をしているのか、俺にはわからない。
「それなら良いのだけれど」
今にも涙を流してしまいそうな紗希のご両親の後ろで人影が通った。ご両親の間からしか見えなかったが、きっと同じマンションの住人であり、エントランスから外に出て行ったところなのだろう。
俺のマンションのエントランスで泣き出されても、俺にも同じマンションの住人にも迷惑をかけてしまう。
それにずっとインターフォン越しというのも変な話だ。例え紗希が消えてしまっていても、この人たちには感謝している。
「あの、よろしければ上がってください。最近は掃除もできていないので、汚いですが」
俺はそう伝えると、インターフォンの横にあるエントランスのドアを開けるボタンを押した。
「ただ心配で来ただけなので、大丈夫ですよ」と断ってきた紗希の両親だったが、俺が紗希のことを知りたいと言ったことをきっかけに紗希の両親が俺の部屋に上がってくることになった。
俺の部屋は四階なので、エントランスから俺の元まで来るのには少し時間がかかる。その間、軽く掃除をして到着を待った。そして、俺がゴミをまとめ終えた時、部屋の前のインターフォンが鳴った。
インターフォンの画面で紗希の両親であることを改めて確認して、部屋のドアを開けた。
「汚いですが、どうぞ」
「ごめんなさい。お邪魔する気はなかったのですが。やはりあなたのところにもいる紗希に会いたくなってしまって…」
「……俺のところにもいる?」
ドアが閉じる衝撃と同時に、俺の心臓が鼓動が大きくなった。まるで太鼓の音のように体全体に響き渡る。
「はい…。あの日、紗希の小さな遺影を一枚お渡ししましたよね。今日は紗希の誕生日なので、私たちもその小さな遺影の前でも手を合わせたくて」
遺影?
何を言っているんだ。
だって、紗希は俺を置いて、いなくなってしまっただけだろう。消えてしまっただけだろう。
遺影だ、なんて。
それじゃあ、まるで。
「まるで紗希が死んじゃったみたいじゃないですか」
俺の言葉に紗希の両親はギョッと目を見開いた。
世界が明日滅ぶと言われたかのような。
宇宙人が地球征服に来たかのような。
今までの常識がひっくり返るような衝撃に襲われたような表情を浮かべていた。
何かを言おうと、紗希の母親が口を小さくぱくぱくと動かしていたが、声が出ていない。代わりに母親の目に涙が溢れ出ていた。
そんな紗希の母親の肩に紗希の父親の大きな手が置かれた。そして、優しく後ろに引いた後に、俺の目をじっと見た。
「………………そうだ」
「え」
「紗希は交通事故で亡くなった」
え、という言葉を声に出せなかった。
「もう葬式もお通夜も終えている。現実を見るんだ」
紗希が死んだ…?
え、消えたんじゃなくて、死んだ…?
交通事故で…、もう葬式もお通夜も終えている…?
そんな馬鹿な話あるわけ、と思ったが、俺はふとロッカーの戸に手をかけ、思いっきり開けた。
具体的には思い出せない。けど、この中に大事なものが入っている気がした。
弱々しい電球がワンルームの天井からロッカーの中を照らした。そこには黒色のの額縁に囲われた紗希が柔らかに微笑んでいる写真があった。
「紗希………………」
そうだ。
そうだった。
紗希は死んだのだ。
台風並みの雨風の影響で電車が遅れていたため、紗希はデートの待ち合わせ時間に遅れてしまっていた。
そのため、紗希は電車を降りた後、かなり駆け足で待ち合わせ場所に既に付いていた俺の元まで向かっていたらしい。その道のりで歩道の信号が点滅する一秒前に横断歩道に入った紗希は、見事に左折するトラックの死角に入り込み、内輪差に巻き込まれてしまった。そして、トラックの下敷きになり、当たりどころが悪く、紗希は亡くなってしまった。
俺はどうしても紗希の死を受け入れられなかった。もし受け入れてしまったら、本当に紗希が世界からいなくなってしまう気がするから。
それにもし、俺が紗希をデートに誘わなければ、視界の悪い雨の中で急いで来る必要がなくなり、交通事故に巻き込まれることはなかったかもしれない。
もしもの話をしても、紗希が帰ってくるわけではない。しかし、現実を見ると、俺もそっちに行ってしまいそうだった。
だから俺は彼女のしを見ないようにした。
「紗希は…………」
紗希の母親の言葉で俺は我に帰った。そして、紗希の遺影の前で涙を拭っている。
「紗希はいつもあなたのことを話してた。大学のサークルで出会ったすごい同級生だって」
肩を振るわせながら、ぽつりと紗希の母親は話し始めた。
「大学四年の秋にようやく付き合えて、本当に嬉しそうに笑ってた。さらにあなたのことを話すようになったの」
いつの間にか紗希の父親は、紗希の母親の後ろに行き、震える肩を優しく両手で抑えていた。
「いつも紗希はあなたの幸せのことを考えてた。あなたの幸せのことだけを考えてた。だから、お願い。紗希の願いを叶えてあげて」
「紗希の願い…」
「そう。あなたが幸せになる。それが紗希の願いだから」
「……はい。幸せになります」
俺が答えると、紗希の両親は深く頷いた。そして、長居は悪いからという理由で、りんごやブドウなどの供え物を紗希の遺影の前に置き、俺の部屋から出て行った。
幸せになる、かぁ。
紗希のしを見ないふりをしていた俺が幸せになってもいいのかな。
そんなことを思っていると、ふと「あいている」というメモを思い出した。俺はそれを手に取り、小さく笑ってしまった。
「最後の手紙くらい漢字使え…よ…。わかりにくいだろ…」
目の奥で滞留していた熱い何かが溢れ出てきた。それを押さえ込もうとしても、一度決壊してしまったため、簡単には直らない。
俺はようやく「あい」と「ている」の間にある「し」を見つけることができた。
あいている 鈴木 正秋 @_masaaki_
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