【冬・0『天国は要らない』】

 他人の笑っている顔が好きだ。

 泣いている誰かを見ると吐きそうになる。

 それは善性なんだろうか。

 それが普通のことじゃないのか?

 ならば、善人とは何者なのだろうか。

 大切な人に望まれた生存というものが、一体僕に何を求めているのか。狭い頭で考えた時、泡のように湧いたのは、その日の記憶が鮮明にあることだった。

 瞳で捉えた確かな視覚情報と、踏みしめるべき盤石の青写真。

 そしてそれを縁取る感情の額縁があれば、どんなに写実的な理想よりも生存は眩しく在れる。人は思い出が在れば生きていける。

 思い出の欠片を──いや、破片を。

 十分にかき集め、融合するように角を削る。

 モザイクに継ぎ合わせ、降り注ぐ光を透かす。

 そうやって完成させた額縁の内側の世界は、きっと彼方まで、広大で綺麗なはずだ。


 僕は、あの日を境に自分の行動を書き記すようになった。

 今日為したこと、明日為すことを、無心でひたすらに書き殴る。形に残せば感情はいつか付いてきてくれるはずだ。その感情が懐かしさなのか、それとも後悔なのか、今はまだわからない。

「昨日の思い出も無いような生存に、果たして価値なんてあるのだろうか」

 そんな無意味な自問自答は、額縁を泥で汚す。

 黒色のボールペンが紙の上でガリガリと、空白を削り取るように滑る。文字が意味を成し、僕の生存を物語るように連なってゆく。

 しかしこれは、いわゆる日記というものではないのだろうと漠然と考える。

 あまりにも自己満足に肥大化した、見にくい潰れた文字が、静かに、しかし惨めにも叫ぶ。

『何故こんなことになったのだろうか』

 意識から傾いた手元が、そんな風にペンを走らせた。文字が滲んで、端の折れ曲がった紙の上に黒いシミだけが残る。

 汚れたページをむしり取り、丸め、屑カゴに放り込む。

 ペン先を噛む。

『何故こんなことになったのだろうか』

 その問の解は既に知っていた。

 インクが切れた。






 長い入院生活の中で、昨日のことが思い出せない。昨日の自分が誰かの役に立てたのかを覚えていられない。何もかもが掠れて消えてゆく。そうして空洞になって、夜に呑まれて瞼を閉じる。

 閉じた世界の中で今日を繰り返す。深海の底で眠るように、蓄積するのは毒だった。銀色で、しかし美しくはない白さが、頭の隙間に沁みてゆく。

「そんな生存に意味は、」

 喉の奥から込み上げた言葉を両の手で塞ぐ。零れたのは臭う胃液だった。洗い流すついでに顔を洗い、鏡を見る。そこには骨のような男が立っていた。十七とは思えない老け様に、我ながら笑いが止まらない。

 暇になると考えそうになる。だから暇は出来る限り抹殺しなければならない。

 人生の意味や自分の価値について考え始めると、その無意味さに気づいて消えて無くなりたくなる。

 そして、そうすれば何処かに意味が生まれると信じ込んでいる浅はかな自己が露呈する。

 死の先にあるのは無価値と無意味でなければならない。

 だから生きているうちに何かを為さなくてはならない。

 死の先に価値があるならば、必死に生きて価値を探している人間は全員莫迦になる。

 そんなはずがない。生きることは尊いことだ。生きていればやり直せる。きっと。

 死んで、諦めることなど許されるものか。

 だから『死んで堪るか』、と。

『逃れることなど、叶って堪るか』、と。

 ──しかし誰かに言い訳をするわけでもなく。

 渇望を目玉の裏で掻きまわし、明日を見るよりも先に、肉を叩き骨を砕く。

 

 目が覚めたのは朝の四時だった。頭蓋のように緩みきった、全身の包帯を固く縛り直す。

 停滞した一日が、しかし何かの間違いかのように始まった。

 冬のクソったれめと悪態をつき、白日の下で凍った空気に晒される。結晶のような酸素は、この空洞の胸すら冷たく焦がす。

 外の清掃を終えると、昨日のうちにノートに記しておいた仕事をこなしてゆく。今日は二百十四号室の壊れたドアの修繕。その過程で二ケ所体を切って、身体に占める包帯の面積がまた増えた。煩わしく、蜘蛛糸のように絡む。鼻の奥に籠った血の臭いにゲロが出る。

 それが終わったら、体の悪い患者の代わりに配達物を運ぶ。成人男性ほどはあろうかという重さの荷物を根性で運ぶ。腰と首をやった。痛い。熱い。動きづらくて最悪だ。

 部屋に戻ると同時に、床へ飛び込み顎の骨を砕く。そのまま這って移動して、ベッドで腐り倒れた古木のように横たわる。

 そうして現状を鑑みて、独り言ちる。

 下らないことをしている自覚は、槍のように突き刺さったまま、痛みを反響させている。

 行う必要のない労働を、しかし必死にこなす理由はどこにも無い。こんな方法でしか自分の罪を雪げないと決めつけてしまった、この矮小な脳味噌が全てを狂わせている。

 どれだけ自分の莫迦を呪っても、頭の出来は改善しない。定まった運命のように、絡まった迷路のように、この狭い頭蓋に出口は無い。

 その後は院内で困っている人を探す。意志もなければ気力もないまま、清潔な床の上を汚らしい魂が闊歩する。まるで生ける屍のように──

 指を噛み潰す。

 想いと決断と生存を託されて。

 託されておいて、奪っておいて。それでもなお自分を死体のようだと笑う。

「腐っている」

 最早見分けなど、付きはしない。


 困っている人はいなかった。しかし困っている鳥がいた。巣から落ちた小鳥の救出。

 誰から褒められるわけでもない。強いて言うならば見舞いに来ていた子供たちに不安になるほどキラキラとした瞳で見られた。あまりの眩しさに目が潰れそうになったので瞼を閉じて木に登ったらするりと落ちた。当たり前だ莫迦。三か所打撲。気にしない。

 階段の手すりを掴もうとしたら、視界が霞んで掴むことに失敗した。そのまま転げ落ちて尾骶骨を強かに打ちつける。

 一瞬世界が夜になり、泥の如き粘度を持った濃い汗が背骨に沿って落ちてゆく。血が抜ける時のような怖気が肌を走った。息を吸うことも、立ち上がることもできなくなったので地べたを這いずって移動した。移動に時間がかかる。時間の無駄。

 病室のベッドで死んだように横たわる。そのまま眠ってしまったようだった。顔面に塩の痕が残っていて気持ちが悪い。

 働けないのならば死亡も睡眠も同じだった。時間の無駄。

 そして朝日が昇り、甘い夢から逃げるように目を覚ます。

 昨日の自分を、腫れあがるような全身の痛みと共に思い出し、口角を気持ち悪く引き上げる。誰かの役に立ってから一日を終えられていた自分へと、慰みのように深く息を吐く。

 日に日に着実に増えてゆく白い包帯を、自分を拘束するように固く、強く、縛り直す。

 頭痛で朝食が食べられなかった。どうせ何を食べたか忘れるから気にしない。

 シビれでフクザツなカン字がカけなくなった。カタカナでカけばいいから気にしない。

                                       

 失シンした。人のヤクに立てず一日をオえた。

 それは ダ目だった。

 アサオきたらハナ血が出ていた。気にしない。

 中心がわからない。味がしない。ツメが。きもちがわるい。

 天井が回る。目をアけていないと引っパられる。

 スプーんからはてつのあじがした。

 おちてゆく

       。                                                 

 り。

                                 に             

                         、

       ゆ    、

   。し

 な


 鳴海先生曰く三日間眠っていたらしい。

 それはダメだった。

 だからもっと働こうとした。止められた。『動いてはいけない』と言われた。価値の無い生存が延長されることが耐えられなかった。だからそれでも働こうとした。

 鍵付きの部屋に入った。


 鉄色の天井は何も語らずそこにある。どれだけ必死に手を伸ばしても届かない。縛られた体では何も生みだせない。

 拳を額に当てて、何かを必死に考える。悩むフリをしなければ、踵に触れる白線の向こうへと、この身を棄てたくなって、

 しかしそんなことが、そんな贅沢なことが、僕に許されるわけがない。

 望んで沈んでいるのに、この口から漏れた泡を、しかし目で追いかけずにはいられない、この生き汚さが、また黙考へと染み込んでゆく。

 嗚呼そうだ。犯した罪よりも大きな存在意義が欲しかった。価値が無かったら。意味が無かったら、僕はあの人に顔向けできない。

 僕が傷つけてしまった人が、この生存を望むのならば死んではいられない。終わることなど──許されて堪るものか。

 過去を振り返れば、必然潤いに満ちていた世界が浮かんでは、泡のように弾け消えてゆく。

 しかし未来に思いを馳せるには、目の前の霧が、あまりにも濃く立ち込めていた。

 それでも逃げてはいけない。濃霧の中を突っ切るしかない。

 前も地面も見えなくて、前後不覚で千鳥足で歩行すらおぼつかなくて何を踏みつけて歩いているのか最早考えることすらできなくなったと、しても。

 何かに喰らい付く様に献身を捧げよう。

 僕にはそれしかできないのだから。


 四日が経った。

 鉄の部屋から出ることを許された。この四周で何か変わった感覚はない。価値が生まれた記憶もない。気配もない。死んでいたのか生きていたのか覚えていない。

 久しぶりに外へ出て空気を吸う。排気ガスでむせた。

 そして見慣れたその光景は、僕の所在に関係なく、変化もなく、そこにあった。






 朝の掃除をしようと、コートを羽織って空の下に出た。

 妙に寒さが厳しいと思いながらも掃除をした。

 体にまとわりつく布をいつもより重く感じた。

 掃除を始めてから一時間ほどが経過しても、何故か太陽は昇らなかった。そして寒さに憤っているのか、それとも別の何かに怯えているのか、この身体は延々と震えたままだった。

 途方に暮れるように空を見上げてやっと、気づく。

 日差しは濡れていた。

 ざらりとした波音を響かせて、雨が降っていた。

 目でも腐ったんじゃねえのと自分を嘲笑う。食いしばった歯が削れて、歪な苦さが口の中に広がった。

 濡れ鼠のままゴミ捨て場に突っ立って、頭蓋の中身をどうしようもない思考で汚す。眼窩から温く垂れる汚泥のような後悔が、傲慢にも世界へと零れる。

 頭を抱え、両のこめかみに当てた掌で少しずつ、万力の圧力を掛ける。しゃぼん玉のようにばちんと弾けて終わる幻聴が、雨音の代わりに鳴って落ちてゆく。

 流れ出しそうになる塩水をせき止めるように、眼輪筋の全てに力を込めて、医院の正門前の交差点へと、行き場のなくなった視線を投げた。

 雨天の中、傘を差し、自分の価値を持続させるためにと急ぐ大人たちは。

 明確に社会の一柱として価値を持つ彼らは、幸せなのだろうか。

「──いや、」

 きっと幸せだ。

 幸せに決まっている。

 そうに決まっている。

 もし、彼らが幸せではないならば。価値を持つ彼らが不幸だと言うならば。幸福は、僕に流れる時間の行き着く先には無いのだろう。

 乞う。幸せで在ってくれと。

 未来に、将来に。明日に希望はあるのだと、示してくれ。

 ざらざらと鳴る雨音が鼓膜の裏側に張り付いて、上下左右が不確かになる。上も後ろも前も下もわからないけれど、きっと前進はしていないということだけを知っていた。

 幾千、幾億もの雨粒に打たれ、重い諦念と共に頭を垂れた。

【ずるり】と靴底が音を擦って、瞼の後ろで世界が裏返る。

 そしてそのまま、顔面と腹部を濡れた地面に強かに打ち付けた。

 高台から水面に飛び込む時のような恐怖と高揚感が、確かに口角を吊り上げていた。

 頬に地面が触れる冷たさを味わうのは久しぶりだった。

 嗚呼誰か。誰かこのまま、愛しい地面の底へ、埋めてくれ。

 雨粒が

 暗雲からの全ての雨粒が、僕に向かって降り注ぐ。

 矢の様に、弾の様に──






「もしもし」

 雨音よりも、ずっとかん高い声が鼓膜に突き刺さった。

 濡れた車窓のように歪む視界の端で、スニーカーとスカートが揺れる。

「死にますよ。こんな寒い中、寝たら」

 眠りたい。

 愛しき地面に体重を預けて。そのまま長く、静かに、ゆっくりと。

 そうでなければ。意識を睡魔の餌にしなければ、氷雨を吸った瞼が重くて、溺れて、潰れてしまう。

 せめて死ぬというのならば、楽な姿勢と心持で。

 どうかそれを許してほしい。

 他にはもう、何も望みはしないから。

 僕にはもう、何も望めはしないのだから。

「……ほんとに死にますよ?」

 声の主の持つ雨傘が、雫と僕を切り離す。

「しな、」

 おやすみと言ってくれる人が 僕にはいないのだから

 もう いないのだから

 死なせてくれ

 一人で 眠らせてくれ





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超小規模地獄的閉和世開W,そしてIの為の効用値考察 固定標識 @Oyafuco

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